パーフェクト・ダイヤモンド

その後―2




8時。
小雨がちらつく中、駅に向かった。
約束の時間までには余裕で着くはずだったのに、この天気のせいかバスはのろのろ運転。
結局、ギリギリになってしまった。

送別会の日以来、片嶋には一度も会っていない。
なんだか妙にドキドキした。
はやる気持ちを抑えて駅の構内に入る。
隅の目立たない場所に佇んでいた片嶋は、ダークスーツに紺のコート。
今、来たばかりなのか肩に雨を纏っていた。
どこにでもいるサラリーマンの格好。なのに人目を引いている。
まあ、それもいつものことだが。
切符を買うサラリーマン、女子高生、OL。みんなチラリと片嶋を見る。
当の本人は、自分に集まる視線など気にする様子もなく、ただ一心に改札を見つめていた。
俺がバスで来るとは思っていないんだろう。
電車が到着するたびに改札から流れ出てくる人波を目で追う。
いつもなら会社を出ると同時に外すメガネも今日はかけたまま。
「カッコイイよね。声、かけてみちゃおうか?」
大学生だろうか。女の子三人組。
視線の先は、もちろん片嶋だった。
「彼女待ってるんじゃなぁい?」
「真剣に探してるもんね〜」
彼女たちが言う通り、片嶋はものすごく人待ち顔だった。
少し不安そうで。ときどき深呼吸して。
なんだか笑いがこみ上げた。
「片嶋!」
呼び止めると驚いたように振り返った。
だが、すぐに鮮やかな笑顔になった。
俺と片嶋の間にいたさっきの女の子たちのぽわんとした顔が可笑しくて、笑いながら片嶋に近づいた。
「悪い、待たせたな」
「いえ。俺もさっき来たところですから。バスだったんですか?」
「出先から直帰だったんだ。道が混んでて参ったよ」
にっこり笑ったままで片嶋はメガネを外し、上着の内ポケットにしまった。
「片嶋って、プライベートはメガネしないヤツ?」
「そんなこともないですけど」
そう言えば、みんなで飲みに行く時はかけてるような。
まあ、冬場は曇ったりするから何かと面倒なんだろうけど……と思っていたら。
「外すのは桐野さんと一緒の時だけです。邪魔になるんじゃないかと思って」
「ジャマ?」
尋ね返したらクスッと笑われた。
「……説明、必要ですか?」
妙に色っぽく言うもんだから。
メシなんて食わずにこのまま俺んちに連れ込みたいと思った。
そうでなくても俺は朝から仕事どころじゃなかったんだ。
いくらなんでも今日は途中で止められたりしないだろうとか、そんなことばっかり考えていたほど。
なのに。
俺の理性を一瞬で激減させる言葉を吐いておきながら、片嶋はすぐに会社モードの顔になった。
「何食べます? 温かいものがいいですよね」
思いっきりはぐらかされて。
いや、もしかしたら無意識なのかもしれないけど。
「俺はなんでもいいよ。腹減ってるだけだから」
そんな片嶋にも、もういい加減慣れたけど。
ちょっと落胆している俺の顔を覗き込んだのは極めて普通モードの片嶋だった。
「どうしたんですか?」
一頃の不安定な表情が嘘のようなその笑顔にやっぱり俺はホッとして、さっきまで思っていたこととは全然違う言葉を口にした。
「ん?……おまえ、よく笑うようになったと思ってさ」
パラパラと舞っていた雨もいつの間にか上がっていた。
駅前の通りにはもう傘を差す人も見当たらない。
「桐野さんのおかげです」
そんな一言も本当に良く出来た後輩って感じで。
嘘は見抜けるようになったが、本気と社交辞令の区別はまだつかない俺だった。
でも。
「本当に……よく笑うようになった」
メガネがないせいで見えにくいのか、普段の3割増しくらいにじっと見つめる片嶋が妙に可愛くて。
キスしたくなったが、さすがに駅前の大通りじゃな。
「あ、ここにしませんか? 俺、今日はワインが飲みたいです」
店のドアをくぐる時、指でそっと片嶋の唇に触れた。
片嶋は少し驚いた顔になったが、すぐにまたあの艶めいた笑みで、「家に帰るまで待ってください」と答えた。


いい雰囲気と思う間もなく、片嶋は席に座ると同時にワインを頼んだ。
しかも、飲む前からハイテンションで。メシを食ってる時も笑っていて。
仕事のことも会社のことも何でも楽しそうに話した。
それは良いことだと思うんだが、酒もいつも以上にハイペースだった。
また爆睡される予感が……
今日は絶対ガマンできない自信があった。片嶋が酔い潰れて寝ていても、抱いてしまうに違いない。
そんなことをして罪悪感に苛まれるくらいなら俺も酔っ払って潰れた方がいい。
そう思って、ワインを注ぎ足した。それから一気飲み。
片嶋が笑ってそれを止めた。
「やだな、桐野さん。今日は潰れないでくださいね」
そんなことを言われたら、期待してしまうのに。
「おまえ、そういうこと言うと……」
俺の言葉を途中で遮って。
「俺はそのつもりですけど」
いやにきっぱりと言って笑う。
「嫌ですか?」
「んなわけねーだろ」
「よかった」
華やかな笑顔。ほころぶ口元。
長い睫毛。悪戯っぽく動く視線。
この場で押し倒したいほど。
「片嶋ってさ、」
「なんですか?」
「可愛いよな」
目を丸くして、吹き出して。
「もしかして、もう酔ってます?」
照れ臭いのか困ったような顔ではぐらかす。
こういうところも含めて、全部可愛いと思うわけで。
俺、重症か?

……多分、そうなんだろうな。



店にいる間にワイン3本。
多分、そのほとんどは片嶋の胃に消えた。
酔わないのが不思議なくらいだ。
「明日、予定あります? 俺、泊まってもいいんですよね?」
ハイテンションのままで部屋に戻ってコートを脱いで。
でも、タイミングには気をつけよう。
今日はちゃんと片嶋の気持ちを確認してから。
そう思って、まずは普通の会話。
「引っ越し手伝うからな。なんでも言えよ」
「ありがとうございます。同じ課の人が手伝ってくれるって言うんですけど、まさかそういうわけにもいかないでしょう? どうしようかなって思ってたんです」
そりゃあ、マズイだろうけど。
それよりも、この丁寧語は一体いつになったら直るんだろう。
俺はこの一ヶ月で片嶋のことがずっと気になってた。
新しい職場で上手くやっているだろうか。仕事は辛くないだろうか。友達は出来たか。嫌な上司はいないか。
俺が心配しても仕方ないことばかり。
けど、気がつくと無意識のうちにメールなんてしてしまっているほど。
片嶋にとって、この一ヶ月はなんだったんだろう。
俺の誘いをずっと断り続けていたのに、昨日、突然OKした。
少なからず期待する俺とは対照的に、まったく一ヶ月前と変わらない片嶋。
「ビール、冷蔵庫に入れておきますね。ワインももっと買ってくれば良かったかな」
相変わらず、酒だ。
今日は酔うなって言ったの、誰だよ?
別に俺だってヤルのが目的なわけじゃない。
ただ、無理やり抱いたことしかないっていう事実が嫌なだけだ。


シャワーを浴びて。テレビをつけて。テーブルに酒を用意して。
何度片嶋とこんな夜を過ごしたことか。
俺の思惑など知る由もなく、片嶋は酒と世間話に夢中。
「とりあえず引っ越すことにしたのはいいんですが、何が必要なのか良くわからなくて。どうせ料理なんてしないだろうし。でも冷蔵庫と電子レンジくらいは必要ですよね?」
「ああ、荷物が片付いたら一緒に買いに行けばいいよ。他にもいろいろ揃えたら、車が必要だろ?」
「ありがとうございます」
俺って、片嶋の飲み友達なのか?
いや、それだけじゃないとは思っても、なんだか心配になる状況だ。
「家具は家から持ってくるのか?」
「備え付けのクローゼットだけで大丈夫かなって思ってるんですけど。……ベッドは要りますよね。家から持ってこようとしたら却下されたんですよ。帰ってきたら寝る所がなくなるからって」
片嶋を溺愛する親にしてみれば、いつでも帰って来られるようにって思ったんだろうけど。
「家が嫌で一人暮しするのに、帰るわけないじゃないですか。ね?」
この様子じゃ一生帰らないかもな。
こんなにカンペキに育ててもらったくせに、恩知らずな奴だ。
「クローゼットしかないから、布団だと畳んでもしまう所がないしな。ベッドだけでも先に買いに行かないといけないんじゃないのか?」
「そうですね」
片嶋は呑気な返事をするだけで、せっせと次の缶ビールを開けた。
「届けてもらうことを考えたら、すぐにでも行った方が……まあ、布団があればとりあえず寝ることはできるけどな」
本人がこんなにのんびりしてると妙にあれこれ心配したくなる。
「それが……布団も買わなきゃならないんです」
「は? おまえ、布団もナシでどこで寝る気なんだ? 来週、引っ越しなんだろ??」
そしたら片嶋が悪戯っぽく笑った。
「当面は桐野さんのところにお邪魔すればいいかなって。……ご迷惑ですか?」
「……いや」
こうやって、いろんな場面で『いい雰囲気かな?』と思ったりするんだが。
片嶋はその度に俺の期待を裏切る。
また缶ビールを楽しそうに開けて、今度はそれを俺に渡した。
『今日は酔うな』って言ったことは、もうすっかり忘れてるんだろうな。
「会社、相変わらずですか? 林田課長がこの間、遊びに来て愚痴をこぼしていましたけど。宮野さんとか、速見さんとかの」
タイミングを見計らうも何も、片嶋には全然その気がなさそうなんだけど。
缶ビール、一気飲み。
しかも、美味そうに飲む。
「おまえ、いつか絶対、体壊すぞ」
「え? どうしてですか?」
「酒の飲み過ぎで肝臓やられるって。健康診断、大丈夫だったのか?」
「ええ。今のところは。判定も全部Aでしたし。溝口さんにも同じことを言われたんですけど、止められないんですよね。でも、一人の時は飲まないですよ」
それが本当なのかはわからないけど。
「溝口たちとよく飲みに行くのか?」
「そうですね。最近は」
「潰されないようにしろよ?」
「外では酔わないですから」
「とか言って、おまえ、俺の前で何回潰れたんだよ?」
タクシーに乗ったらすぐに爆睡するくせに。
「桐野さんと一緒の時だけです」
本当にそうならいいんだけどな。
「まあ、気をつけろよ」
「それって、なんか意味ありげに聞こえるんですけど」
その含みを感じるくらいなら、『彰ちゃんを潰そう計画』にも気付いて欲しいもんだ。
「今日、溝口と同行だったんだよ」
「ああ。そういうことですか。溝口さん、また、有ること無いこと言ったんでしょう? あの人、他人を煽るようなことしか言わないんですよね」
呆れた表情で笑いながら、また缶を開けた。
「だけどな、何も『女に興味ない』って公言しなくてもよかったんじゃないか?」
片嶋に興味のある女どもは引いたかもしれないが、逆に襲われる確率が上がったんだぞ?
女の子相手なら、少なくとも押し倒される危険はなかったのに。
「そうなんですけどね。親会社って、忙しいせいか社内恋愛が多いんです。うちの部署も例に漏れずで……」
「だから?」
「一週間目にちょっといろいろあって、面倒なことにならないうちに予防線を張っておこうかなと思っただけなんですけど」
女の子に言い寄られたか。
しかも、その子が誰かの彼女だったってことだな。
大変だな、片嶋って。
けどなぁ……
「だからって、おまえが狙われてどうすんだよ?」
片嶋がさっき開けたばかりの缶をクシャッと片手で潰して笑った。
いくら350mlだからって、早過ぎないか?
「桐野さん、溝口さんから何を聞いて来たんですか?」
「え? ああ、まあ、いろいろ」
別に言葉を濁す必要はなかったんだが。
「あの人の話は半分くらいに聞いておいてくださいね」
「それにしても、半分は当たってるってことだろ?」
火のない所に……ってヤツだ。
「さあ、どうでしょう?」
その返事って。
俺を煽ってるのは片嶋じゃないのか?



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