パーフェクト・ダイヤモンド

その後―4




朝。
例によって俺はあっという間に目を覚ましてしまった。
当然隣りには片嶋が眠っている。
いつもと同じパターンだ。
でも、今回はちょっとだけ状況が異なる。
片嶋が俺を拒否しないってことが分かっているという点だ。
……でもな。
しばらく黙って片嶋を見ていた。
早く目を覚まさないかな、とか。起きたらなんて言うだろう、とか。
大半はそんな気持ちで。
目を覚ましたとしても、朝っぱらからってどうなんだろうとか。片嶋が二日酔いだったりしたら、やっぱ駄目だよなとか。
その辺りはもう、ムダな心配以外の何物でもないんだが。
目が冴えてくれば、ずっと見ていたいと思う。
見ていたら触れたくなる。
片嶋を起こしてしまったら可哀想だと思っても、そういう気持ちに行動が伴わない。
そっと髪に手を伸ばした。
サラサラのストレートヘア。柔らかいのに、癖はつかない。
髪の毛の先まで、片嶋は片嶋。そういう感じだ。
眠る間際よりも随分と赤味が引いた頬。
指で押したが、熱くはなかった。
そのまま人差し指で唇を押してみた。
家に帰ったら…って許可まで貰ったが、結局昨日はキスさえしてないことに今頃気付く。
なんでいつもいつも、こういう展開になるんだか。
仕事と違って強引になることも出来ないまま。
今回は片嶋のペースに合わせるつもりだったんだから仕方ない。
いろいろ考えるほどに指一本では物足りなくなり、手のひらで頬を包んだ。
くすぐったいのか、指に触れた睫毛がわずかに揺れた。
そのまま顎を通って首筋へ手を滑らせる。
手だけじゃ我慢できなくて、無防備に晒された喉元に唇を押し当てた。
「……ん……」
短い音と共に喉が震えた。
もう、絶対ダメだ。
限界。
そう思った時、突然片嶋が喋った。
「……起きた……んですか?」
呑気な声。
だけど不意を突かれてドキリとした。
おかげで邪な妄想は一瞬で消えてなくなった。
「やっぱり、ベッド買わないと駄目ですね……俺、安眠妨害してるみたいですし……」
そんなことより、自分に何が起こってるのかを認識すべきだと思うが。
片嶋は全然気付いていない。
くっきりと喉元に残ったキスマークを見ながら溜息をつく。
こういうところがあるから俺の心配性が増幅するんだよな。
「片嶋が邪魔なわけじゃないよ。酒の飲み過ぎで変な時間に目が覚めただけ」
一緒に寝るのはよくないと思われるような方向にだけは持って行きたくなかったから、そんな返事をした。
ベッドなんて買ったら、やる時は片嶋の部屋まで誘いに行かなきゃならないもんな。
「……今…何時ですか……?」
片嶋が俺の背中の側にある目覚し時計を見ようとした。
必然的に俺の身体に乗っかる格好になる。
「おまえな、」
だから、限界なんだって。
そう思う間もなく、抱き締めていた。
「…ふ……ぅんん?」
どうやら片嶋はまだ寝ぼけているらしく、妙な反応が返って来た。
おかげで少し気が削がれた。
「眠いか?」
「……そ…うですね、まだ、ちょっと……飲み過ぎたのかな……」
目を擦っている途中で。
また眠った。
俺の腹の上に乗っかったまま。
それも、随分と幸せそうな顔で。

こんな風に全部を預けられてしまうと、どんなに限界だと思っていても抱くに抱けない。
溜息をついて一つ決心した。
今夜は、絶対、酒は禁止にしよう。
これじゃあ、精神衛生上よくないもんな。

そんなわけで、俺はまたしても寝不足になった。



数時間後。俺の健康状態に気づく事もなく、片嶋はすっきり爽やかに起きてきた。
「いい天気ですね」
気持ち良さそうに伸びをしながら陽の差し込むサッシを全開にした。
新鮮な空気が流れ込んでくる。
ちょっと寒いが気持ちよかった。
小春日和の穏やかな土曜日。二日酔いになることもなく、二人で平和に過ごす。
片嶋はともかく、俺までどんどん酒が強くなっていくのは結構ヤバイよな。
やっぱりどっちかは止め役にならないと。
こんなことを毎週していたら、来年の健康診断で「経過観察」とか「再検査」の烙印を押されてしまうに違いない。
8時半に起きて、シャワーを浴びて、洗濯をして。
やっと落ち着いた時に片嶋が車のキーを放り投げた。
「ね? せっかくいい天気なんだし」
誘い文句と言えばそれだけで。
「どこに行くつもりなんだよ?」
「どこでもいいですよ。桐野さんが面倒くさくないところなら」
「そういうのが一番面倒なんだけど」
「じゃあ、俺の買い物に付き合ってください」
「ベッド買いに行くのか?」
俺、拘ってるかな……
「えーっと……ベッドは……また今度」
片嶋の買いたい物がベッドなんかじゃないことに安堵して車を出した。
引っ越しに伴って部屋に必要になりそうな物を下見するつもりだったが、片嶋は全然関係ないものばかりに興味を示していた。
例えば、自分ちで飼ってる犬にあげるオモチャとか。
「成犬なんですけど物凄く落ち着きがなくて。半月に一個はオモチャが壊れるんですよね」
「いつから飼ってるんだ?」
「俺が高校の時。外で遊び呆けて帰らなかったから、なんとか家に興味を持たせようとして父親が買ってきて俺の部屋に犬の寝床を作ったんですよ」
でも、片嶋はまんまと引っ掛かったんだな。
「で、部屋においてやったのか?」
「ええ。でも、俺のベッドに入って来ちゃうんで、わざわざ寝床を作った意味はあんまりなかったんですけど」
ってことは、俺は犬の代わりなのか?

こうやってプライベートを一緒に過ごすと、片嶋が本当は普通のヤツだってことが良く分かる。
会社だと子供っぽいことなんて鼻で笑いそうなタイプに見えるんだが。
「咽喉が渇いたなぁ……」
買い物の途中でいきなり溜息をつく。
っていうか、アルコールの摂取量が多すぎて脱水症状なんじゃないのか?
「ったく……」
仕方がないのでカフェに入って一息ついた。
咽喉が渇いたっていうわりには濃い目のブラックコーヒーなんだけど。
「夕飯、どうします?」
さっき昼飯を食ったばっかりだっていうのに、片嶋はもう次の食事の心配をしていた。
コイツって酒と食い物と犬にしか興味がないんだろうか?
「軽くでいいだろ。なんか買ってくか?」
「そうですね。桐野さん、好き嫌いはないんですか?」
「あるように見えるか?」
片嶋は当然のように思いっきり首を振った。
「いいえ。でも、念のため」
「おまえは?」
「その日の気分で嫌いなものが変わります」
それってものすごく片嶋って感じだな。

そんな流れで、スーパーに行って惣菜を買い込んだ。
今日初めて思ったが、男二人でスーパーに買い物に来てる奴なんていないんだな。
なんだか浮いてた。
それもスーパーなんて滅多な事では来ないらしい片嶋が珍しがってはしゃぐから余計に。
「家族と買い物行ったりしないのか?」
「いつも終わるまで車で寝てますから」
まあそんなものかもしれないが。
「これ何ですか?」
そんなことを言いながら色んなものを手に取る片嶋を見て、おばちゃん達が遠慮なく「可愛いわねぇ」「ご兄弟?」なんて話しかけてくる。
「会社の先輩後輩です」
片嶋が愛想良く答えるもんだから、いいように話し相手にされて。
まあ、いいか。
どうせこの先はずっとこんなだろうし。
でも、これからは俺一人で来よう。時間がかかって仕方ない。


部屋に戻って、買ったものを冷蔵庫にしまい込みながら片嶋を咎めた。
「ったく、なんでスーパーに一時間もいるんだよ?」
「いいじゃないですか。面白くて」
「じゃあ、お袋さんとも一緒に行ってあげれば良かったろ?」
「やめて下さい。せっかく自由の身になるっていうのに」
眉をひそめても片嶋の横顔は整っている。
何もつけていない髪がさらりと額にかかる。
それを掻き上げる長い指が……なんて見惚れている場合じゃなかった。
片嶋に言わなければならないことがあったんだ。
冷蔵庫から缶ビールを取り出そうとしている片嶋を呼び止めた。
「片嶋、」
「はい?」
「今日、酒、禁止な」
「……えっ……?」
片嶋がそんなに驚いたのを見た事はなかった。
缶を手にしたまま固まっている。
だから、もう一度同じことを言った。
「今日は、酒、禁止」
「ええっ??」
そんなに何度も驚くほどのことじゃないような気がするんだが。
「何故ですか?」
「片嶋が潰れて寝るから」
そう言えば本当の主旨は分かるだろう。
「それって……えっと、」
しばらく思案した後、俺の顔色を窺いながら付け足した。
「……じゃあ、少しだけ。駄目ですか?」
どうしても酒なんだな。
「おまえ、アルコールなしで生きていかれないのか?」
「そんなことないです。自宅では飲みませんし」
でも顔が困ってる。
「じゃあ、シラフでは俺と居られない?」
「そんなこともないですけど」
もっと困った顔をした。
「じゃあ、飲まなくても別にいいよな?」
「えーっ??」
酒好きもここまで行くとどうかと思う。
俺より酒が大事か?
「……でも、酒飲まないとやることなくなりませんか? 12時に寝るとしてもあと5時間近くあるんですよ?」
ああ、そうか。
その考えが間違いのもとなんだな。
「やることなんていくらでもあるだろ」
「例えば?」
テレビでも見ようと思っているのか片嶋はキッチンのカウンターに投げ出されていた夕刊に目を遣った。
「ゆっくりメシ食って、ゆっくり風呂に入って」
「でも、せいぜい2〜3時間ですよね?」
その顔を無理やり自分に向かせて、にっこり笑って言ってみた。
「っていうか。飲んでない時に抱きたいんだけど」
どんな顔をするんだろうと思ったが。
片嶋の表情は全く変わらなかった。
その代わり、一瞬遅れて耳まで真っ赤になった。
……マジで面白い。
初めてならまだしも既に何度か寝ている俺に対してここまで反応しなくてもいいと思うのに。
「なんで赤くなってるんだ?」
笑いそうになるのを必死に堪えて。
「……だって、桐野さんに限ってそんなことを言うとは思わなくて……」
やっぱり俺は安全だと思われていたらしい。
「嫌なら断われよ」
「嫌っていうか」
「っていうか?」
ナンだよ?
「……そんな、面と向かって言われたら、やりにくくないですか?」
「いいや。全然」
片嶋の視線があちこちに飛んでいくのを見て、また笑いそうになる。
「ムード作ってからなんとなくっていうのがいいのか?」
女の子じゃあるまいし。
そんなことも思ったが、まあ、片嶋がそうしたいと言うならそれもいいか。
あれこれ考えている俺の目の前で、片嶋はいきなり首を傾げた。
「その微妙なリアクションはなんだ?」
「えーっとですね……」
説明をしあぐねている。
じゃあ、質問を変えよう。
「いつもはどうしてたってことなんだ?」
なんて色気のない会話なんだろうと思いつつ。
「いつも?」
「アイツと」
個人的には思い出したくもないが。
「……ああ……ええっと、だいたい俺が……先に寝てたので」
なんだか随分と言いにくそうだな。
「起こされるってことか?」
「……そうですね……」
「起きてる時は?」
「それも、あんまり変わりなくて。だいたい、帰ってきて、いきなり、とか……」
片嶋にしては珍しく歯切れの悪い口調だった。
もごもごと酷く言いにくそうに切れ切れの言葉を吐き出す。
アイツに嫉妬する気持ちはもう俺にはなかったけど。
「おまえ、それに疑問を持ったことは?」
「桐野さんと付き合うようになってから、ちょっと考えました」
……だよな。
丁寧に扱われてないんだろうとは思ってたが、まさかそこまでとは。
だから、俺が押し倒した翌日も不思議なくらいケロッとしてたんだな。
あまり疑問にも思わなかったんだろう。
酷いヤツだと思われなかった事にはホッとしたけど。
でも。
なんだか可哀想になった。
「片嶋、」
「……はい?」
「なら、今日は、ちゃんとな」
「え? ちゃんと……って??」
目をぱちくりさせて言うから、我慢できずに吹き出してしまった。
『ちゃんと』と言われたことが恥ずかしかったのか、笑われたことが恥ずかしかったのかは分からなかったが、片嶋はまたちょっと赤くなりながら視線を外した。
「今からそんな顔されてもな。まず、メシ食うだろ?」
「……そうですけど」
「なんだよ」
「なんか落ち着かなくなりました」
正直にそんなことを言うから。
またしても、手が勝手に片嶋を抱き締めた。
「き、桐野さん、夕飯が先ですよね??」
「ああ。もちろん」
ホッとする片嶋を解放して、俺は苦笑した。
一時間かけてメシを食ったとしても夜は長い。
酔ってないなら尚更だ。
時計を見ながらそんなことを考えて、この上なく楽しい気分を片嶋には悟られないよう、涼しい顔で夕食のテーブルについた。



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