飲み会で顔を合わせた岸田という奴は、別になんてことはない普通の男だった。
俺に言わせれば毒にも薬にもならないタイプ。
片嶋が相手にしないのも頷ける。
「それで、同行した帰りに俺が一生懸命彰ちゃんに話しかけてるのに、ぜんぜん聞いてくれなくて、なんか、ポケットの中のものに集中してたんですよ。俺が差し出した資料も受け取ってくれなくて、ポケットにずっと手を入れたままで」
一生懸命周りの奴らに説明をしている顔もマジで半泣きだ。
「寒くて手を出す気になれなかっただけです」
言いながら、片嶋は俺の隣りに逃げてきた。
そういう所は相変わらずだ。
「そう言えば、いっつも右手だけコートのポケットに入れてるもんな、彰ちゃん」
他の先輩にも同じ事を言われて。
でも、冷たい返事。
「そうですか?」
そうだよ。
俺が片嶋に好きだって言った日も、ポケットの中にある物を握り締めてたような気がする。
「ポケットの中にあるのはいつもガムなの?」
「そうです」
「けど、彰ちゃんがガム食べてるところなんて見たことないよなぁ?」
「食用じゃないんです」
……食用じゃないガムって、なんだ??
「普通に売ってるガムなんでしょ?」
「そうですよ。駅で売ってました」
真面目に答えるような事でもないような……
「毎日買うの?」
「いいえ」
「じゃあ、ずっと同じやつが入ってるんだ?」
「そうです」
「なんでそんなに大事なの?」
「それは内緒です」
こんなくだらない会話を飲んでる席で真面目にするコイツらってどうだろ?
「で、これが問題のガムなのか?」
片嶋が大事にワイシャツの胸ポケットに入れてるのを俺は勝手に取り出した。
普通のガムだ。
けど。
ああ、そうなのか……って、思った。
だからと言って、一枚食われたくらいで怒るようなものでもないとは思ったが。
「桐野さん、勝手に触ると彰ちゃんに怒られますよ」
みんな止めたけど。
片嶋は怒らなかった。
「あ〜、怒らない。……ってことは彰ちゃん、桐野さんは特別なの? それとも単に岸田君が嫌いなだけ?」
「桐野さんは特別で、岸田さんはキライです」
そういうことをキッパリ言う片嶋も信じられない。
俺とのことはバレたらバレたで仕方ないと思ってるから、それはいいんだが。
でも、岸田ってヤツは一応先輩なんだろう?
片嶋の隣りで明かにショックを受けているのにフォローもなしだ。
「仕方ないなぁ。まあ、彰ちゃん、飲んで」
周囲が気を遣って酒を勧める。
いや、単に片嶋を潰そうとしているだけかもしれないが。
注いだヤツは漏れなく注ぎ返されるのに。
バカな連中だよな。
片嶋の酒量を知らないからそんなことが出来るんだ。
サシで飲まないとわからないが、片嶋は他人に注がれてる時より、一人で勝手に飲んでいる時の方がピッチは早い。
しかも、すぐに強い酒を飲みたがる。
だから、放っておいた方が潰れる確率は高い。
……もちろんそんなことを教えてやる気はないが。
岸田はさっきから「彰ちゃん」「彰ちゃん」と片嶋に話し掛けているのに、片嶋はカンペキにそっちには背を向けて俺に会社のことを聞く。
「牧原さん、どうしてますか?」
「ん〜? 最近はさすがに立ち直ったけどな。英会話スクールに行ってるとかって噂が流れてる」
「今度は海外支社狙いですか?」
「バカ。おまえのせいだろ」
笑いながら俺にビールを注いで、また会社の話。
その間も岸田は「彰ちゃん」と呼び続けている。
もう酔っ払ってるみたいだけど、さすがにちょっと可哀想だ。
「石村さん、今度こちらに戻って来るそうですね」
「ああ、出向期間が終わるらしいから」
それも心配の種だった。よりによって片嶋と同じフロアなんて。
そう思ったら無意識のうちにテーブルの下で片嶋の手を握ってた。
片嶋はただニッコリ笑ってた。
頬が赤いのは酒のせいなんかじゃないんだろう。
そんなイイ雰囲気の時に、口を挟んできたのは溝口だ。
邪魔しやがって。
「そっかぁ。石村さん、戻るのか。……確か契約管理部と保全部に石村さんの恋人がいるんだよなぁ」
得意の噂話。
っていうか、恋人が二人もいるっていうのが石村さんらしいけど。
「そっちにはいなかったのか?」
俺と片嶋に聞いた。
「さあ?」
片嶋が俺の顔を見た。
「俺が知ってるわけないだろ? 宮野にでも聞けよ」
「ま、桐野は見るからにそういうのに興味なさそうだけどな。ってことは、バカボンはそういうの好きなんだ?」
「さあ、どうかな」
片嶋の噂話は大好きだけど、他の連中についてまで詳しいかどうかは知らなかった。
ただ、石村さんが片嶋を狙っていたことは知っていたから、そこそこライバル調査もしていたかもしれない。
宮野は仕事以外のことなら結構マメにいろいろやる。
まあ、いい奴なんだが……それだけなんだよな。
「情報収集が得意なくせに、あそこまで仕事が駄目ってどうなんだろうな」
まあ、収集しただけで活用されてないってこともあり得るし、集めた情報が的外れってこともあるからな。
「キツイなぁ、桐野は」
かもしれないが、本当のことだからな。
宮野だって否定はしないだろうし、自覚もしてるだろう。
まあ、能天気だから居れば場は和むし、雑用は大好きだし、アレはアレで結構役に立つんだけど。
「彰ちゃんは向こうの会社に好みのタイプはいなかったのか?」
溝口はとうとう酔っ払った岸田を押し退けて片嶋の隣りに座った。
片嶋はノーコメントだ。
「まさか、桐野とか言わないよな?」
どうやら溝口は片嶋にカマを掛けにきたらしい。
「桐野さんは全社的に憧れの的ですから。うちの稼ぎ頭で出世頭で、花婿候補ナンバーワンなんです」
片嶋は表情一つ変えずに適当にはぐらかした。
それはもう、可愛くない態度で。
「そういえばさ、桐野の彼女って同じ会社? 彰ちゃん知らない?」
ったく。
放っておくと何を言い出すかわからないな、コイツは。
そんなことまで片嶋に聞くなっつーのに。
「いねーよ。ったく。本人の目の前で噂話をするな」
それよりも早めに溝口をどこかに追いやらないと。
俺が警戒したのも気付かずに、片嶋に根掘り葉掘り聞く体勢に入ってた。
「彰ちゃんの彼氏、どんな人? 職業は何?」
片嶋がにっこりと笑う。
「溝口さんの彼女は? 美人ですか?」
反撃に出るつもりらしい。
まあ、同量の酒が入っているとしたら、溝口が片嶋に勝てるはずはないんだが。
「顔なら彰ちゃんの方がずっと可愛いけど?」
溝口も冗談で返したが。そんなことを真に受ける片嶋ではない。
「溝口さんに言われてもあんまり嬉しくないな」
さらっと言い返して酒を注いだ。
しかも日本酒。
溝口は無意識でくいっとそれを飲み干した。
「彰ちゃん、俺のことも嫌いなんだ?」
「溝口さん、嘘ばっかり言いますから」
空になった大き目の猪口にまたなみなみと酒を注いで。
「そんなことないだろ?」
「そんなことありますよ」
周囲に視線を投げたら、苦笑いが返ってきた。
「何? おまえら否定してくれないのか〜??」
その短い会話の合間に、床にはどんどん空いた徳利が転がって。
片嶋は知らぬ間にせっせと周囲のグラスを満たして行く。
「何飲みます? ワイン? 焼酎のお湯割りとか?」
しかも、ついに周りを潰しにかかるらしい。
「……片嶋、ほどほどにしとけよ」
心配する俺に、ニッカリ笑顔を向けて。
「だって、色々聞かれるの鬱陶しいじゃないですか。岸田さんと俺をくっつけようとしてるのもわざとらしくて面白くないし」
どうやら、ちょっとご機嫌ナナメらしい。
「けどな、他の連中はみんなおまえを潰す気なんだぜ?」
いくら片嶋でも全員を相手にはできないだろう。
「分かってますよ。俺が潰れたら連れて帰ってくださいね」
「当たり前だろ」
ってか、明日、引っ越しだろ?
そんなに飲んで大丈夫なのか、片嶋??
「大丈夫ですよ。絶対、全員潰して見せますから」
片嶋ときたら。
負けず嫌い、全開。
結局、片嶋は最後まで潰れなかった。
ニッコリ笑って返杯し続けて、最後の生き残りになった溝口をあとちょっとのところまで追い詰めてから、天使の笑顔で囁いた。
「じゃあ、溝口さん、もう一杯。一緒に一気飲みしましょう。ね?」
妙に可愛い口調で、悪魔のセリフ。
それにはさすがの溝口も数秒間固まっていた。
「彰ちゃん……まだ大丈夫なのか?」
「もちろんです」
涼しい顔で溝口の手から猪口を取り上げる。
それを放り出してからテーブルにビールのグラスを2並べた。
そこに溢れる直前まで日本酒を注いで、1つを溝口に手渡した。
「はい。溝口さんの分。一気ですからね?」
「俺、もう飲めないって」
そう言って青ざめる溝口の隣りで、片嶋は自分の手に残ったグラスの酒をクイッと一気飲み。
「溝口さんってば」
ニッコリ笑って。溝口の手を口にもって行く。
「ホントにもう、ダメだって……」
「仕方ないなぁ」
その後で、溝口から取り上げたグラスを楽しそうに飲み干した。
その瞬間、パタンと言う音がして溝口の体が岸田の上に潰れた。
それを満足そうに見届けると片嶋は俺に向き直った。
「終わりました。帰りましょう」
笑顔のままそう言い放って席を立った。
「おまえ、本当に大丈夫なわけ??」
心配する俺にもう一度笑顔を返して、さっさと店を出るとタクシーを止めた。
「ここまでやれば、もう二度と俺を潰そうなんて思わないでしょう?」
ニッコリ笑って余裕で返した。
けど。
タクシーに乗った途端、片嶋はやっぱり爆睡した。
「着いたぜ。起きろよ」
マンションの前で車が止まった時、片嶋は無邪気な顔で俺に抱きついて眠っていた。
しかも、俺のスーツの下に手を潜り込ませて、ぴったり張り付いてた。
「どうも、お世話様でした」
礼を言って金を渡す間もタクシーの運転手はチラリとも俺たちの方を見なかった。
別に、どう思われてもいいんだが。
……これからはこんなことも増えるんだろうな。
「ったく、しっかりしろって」
目は覚ましたものの、支えなしでは歩けない片嶋を抱きかかえて部屋に運ぶ。
ワイシャツを脱がせる時、ポケットからガムが落ちた。
床に散らばったそれを掻き集めてテーブルに乗せると片嶋が口を開いた。
「……一生、食べずに取っておこうと思ってたんです」
片嶋はスーツに合わせてコートも着替えるようなヤツなのに。
わざわざポケットに入れ直してるのかと思ったら可笑しくなった。
「毎日持ち歩いてるのか?」
片嶋は笑ったままで一度目を閉じた。
「お守りみたいなものなので」
その瞼にキスをして髪を撫でると、片嶋がゆっくりと瞳を開けた。
さっきまでの子供っぽい笑顔なんて面影もなくて、急に艶めいて見えたから。
煽られてそっと手を伸ばす。
その手に片嶋の指が絡み付いてキスをねだった。
軽いキスを何度も繰り返している途中、唇が触れるか触れないかのところで。
「桐野さん……」
吐き出される呼吸だけで呼ばれる自分の名前。
長いまつげが俺の目の前で揺れている。
「おまえさ、」
言った途端、唇を塞がれた。
それ以上の言葉は要らないというように。
深く、長いキス。
呼吸の合間に、腕の中で見上げる熱っぽい瞳を見ながら、甘い時間を期待した。
「……分かってますか?」
「何を?」
「ガムのこと」
「分かってるよ。俺、そんなに鈍そうに見えるわけ?」
片嶋はちょっと首を傾げたまま考え込んでいた。
けど、笑いもせずに答えた。
「わりと、疎い方かなって、思ってたんですけど」
……別に、いいけどな。
「おまえも、ガムくらいで会社の先輩を怒るなよな」
「だって、勝手に俺のコートを漁るなんて、」
思い出すとまだ腹が立つらしい。
けど、眉を寄せるその表情も愛らしくて。
「まあ、そうだけどな」
不満そうに少し尖らせた唇に軽くキスをして、髪を弄ぶ。
「また買ってやるから。機嫌直せよ」
片嶋は少しだけ頷いて。
仄かに色づいた頬を撫でると気持ちよさそうに目を閉じた。
しばらく静かにしていたから、そのまま寝るのかと思ったのに。
「……俺のこと、好きですか?」
何の脈絡もなく、そんな質問。
少し面食らいながらそれに答える。
「ああ……好きだよ」
声に出した瞬間、抑えていた感情が体の中から溢れ出してきた。
「おまえってさ、知能犯だよな」
片嶋がにこって笑って。
俺に抱きついた。
「おまえが好きだよ」
もう一度言葉にして。
コイツは、俺のもの。
そういう暗示。
分かっていながら、俺はまた陥落する。
何度でも。
どこまでも。
抱き締めた片嶋の身体は熱かった。
俺の肌が冷たく感じるのか、自分から身体を合わせてきた。
「大丈夫か?」
俺の問い掛けが何を心配しているのかしばらくわからなかったようだったけど。
「俺、酔ってますか?」
「多分な」
「……じゃあ、酔ってるせいなんだ……」
独り言の後、持て余した熱を吐き出すように大きく息をして。
気だるく俺を見上げた。
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