溝口がトイレに行った隙に片嶋の頬に手を伸ばした。
「真に受けないでくださいね」
「心配すんなよ。大丈夫だから」
なんとなくイイ雰囲気だし。
溝口が帰ってくる前にちょっとだけ、と思ったんだが。
「それよりさ〜」
大声で話ながら、絶妙のタイミングで戻って来やがった。
こんなんじゃキスさえできない。
「男同士とは言え、することはシテんだろ?」
どうしてもシモネタに走りたいらしい。
「そうだよな、キスマークついてるくらいだもんなぁ。ってことは昨日、飲んだ後で一緒に帰ってきて、桐野んちでゆっくりネットリ?
あ、それとも、もしかして、今日は昼間っからやってたとか? いいなぁ、やりたい放題で。あれ、彰ちゃんの新居って、この二駅先だっけ?
電車で来るのか? 自転車? バイク?……っていうか、いつの間に引っ越したんだ?」
よくそうやって一人で喋り続けるよな。
俺も片嶋も相手をしてないのに。
「おまえ、そういう話をしに来たわけじゃないんだろ? さっさと用件を言えよ」
「う〜ん? そう言われてもたいした用じゃないもんな」
「じゃあ、帰れ」
それ以前に、だったら来るな。
「せっかく来たのに、そういうこと言うのか、桐野は〜。……彰ちゃんはそんなこと言わないよな? な?」
同意なんか求めても、片嶋がいい返事なんてするはずもなく。
「俺は別に。溝口さんなんて居ても居なくても」
って言うか。
俺よりも片嶋の方が遥かにキツイような……。
けど、溝口は怯まない。
「彰ちゃんまでそういうこと言うんだなぁ。コーヒーまだある?」
あっという間に残りのコーヒーを飲み干して、次の催促。
「ありません。それよりも、ご自分でも邪魔だと思うでしょう?」
「だから、帰りたくないんだよなあ。なければお茶でもいいけど」
コイツも相当悪趣味だけど。
「で、桐野。どうなんだ?」
「何がだよ??」
「また、とぼけちゃって。……まあ、桐野は上手そうだけどなぁ」
「わけわかんないこと言ってんなら帰れよ」
いや、分かってるけど。
片嶋の前でそういう話は止めろ。
「いいじゃん。男同士なんだし。修学旅行のエロ話だと思えば」
溝口があと10歳若かったら笑って許してやってもいいが。
28だぞ?
少しは自分の年を考えろ。
今そんなことを楽しそうに話したら、ただのエロおやじなんだぞ??
「彰ちゃ〜ん、桐野、どう?」
「おまえ、それじゃセクハラだろ?」
俺と溝口のやり取りの間、片嶋は新聞から顔を上げなかった。
つまり、カンペキに無視してた。
「本人が居るところじゃ答えにくいか。そうだよなあ」
いい加減コイツを何とかしようと思った時、片嶋が新聞をバサリと畳んで口を開いた。
「溝口さん、俺が笑ってる間に黙った方がいいですよ」
にっこり笑って。
でも、それは明かに脅し文句。
随分と意味深で、しかも目は笑ってない。
溝口はそれに素早く反応した。
「ごめん、ごめん。その話は、な?」
「そう言えば、先週の水曜日は別の……」
「ごめんって。な、彰ちゃ〜ん」
溝口は妙な苦笑いで。
「何だ? 二人で??」
「俺と溝口さんの秘密です。まあ、溝口さんの態度次第では、そのうちに桐野さんの耳にも入ると思いますけど」
片嶋がモロに反撃体勢で答えた。
「もう、彰ちゃんには敵わないよなぁ……」
苦笑いのまま黙ってテーブルに置いてあった俺のコーヒーを飲んだ。
溝口のヤツ、片嶋になんか弱みを握られてるんだな。
「後で教えろよ?」
こっそり耳打ちしたら、片嶋はコクンと頷いた。
その時も俺にはちゃんと可愛く笑ってくれた。
溝口がいなかったら、キスできるのにな。
さっさと追い返さないと。
「で? たいした内容じゃない用事ってなんだ?」
溝口が反省して、軌道修正ができたところで本題に入る。
「ああ、この間、桐野に同行してもらった先なんだけどさ。明日契約取り付けなんだ。急に行くことになって。契約書の書き方が分かんないから聞きに来た」
会社の封筒から契約書を取り出して、テーブルに広げた。
「だったら電話しろよ。なんなら宮野か速見あたりに同行させるけど?」
「ん、でもさ。桐野だったら客になんて説明するのか聞きたかっただけだから。ほら、これとか、なんかいろいろ聞かなきゃならないし。面倒だろ?」
シャーペンをカチカチ言わせながら、呑気に笑うんだけど。
だったら、電話で十分だろ?
いや、それよりも。
「俺と同行してる時、聞いてないのかよ??」
何度も同じ説明をしてると思うんだが。
「聞いてないよ」
あまりにも堂々と答えるもんで、片嶋も笑ってた。
「彰ちゃん、なんで笑ってんの?」
「溝口さんらしいなと思って」
誉めてないだろ、それ。
「彰ちゃん、俺の事バカにしてる?」
「はい」
……それを笑顔で答えるなよ、片嶋。
一通り説明をした後、溝口は要点だけメモして契約書にクリップで留めた。
それを会社のロゴ入りの封筒にもう一度仕舞い込むと、片嶋にお茶の催促をした。
「いいよ、片嶋、そんなの溝口に自分でやらせろ」
プライベートなんだから。自分のことは自分でやれ。
「でも、溝口さんはお客さまですから」
片嶋が意味ありげに笑って席を立った。
「彰ちゃん、優しいなぁ」
溝口は呑気に喜んでるんだけど。
多分、そういうことじゃない。
「溝口さんの家じゃないんですから、もっと遠慮してくださいってことです」
ほら、な。
なのに、溝口は。
「遠慮してるけどなぁ。あ、それよりさ、今度企画でバーベキュー大会やろうって言ってるんだけど。桐野もどう?」
全然メゲてない。
……まあ、長所と言えば長所なんだろうな。
コレくらい図々しくないとあれだけの押しの営業は出来ないのかもしれないし。
「バーベキューって、外は寒いだろ??」
「課長の実家のだだっ広いサンルームでやるんだ。かなり田舎だけどゴージャスな家らしいぞ」
「けどなぁ……」
なんで俺が?
不自然じゃないか?
暴露しに行くようなもんだろ??
「おまえが同伴しないと、彰ちゃんの送迎者は岸田クンだぜ? 送らせるのキケンだと思わないか?」
そうやってまた俺を煽るし。
「だったら片嶋も行かなきゃいいだろ??」
「ダメ。彰ちゃんの初案件成立パーティーだから。主賓は欠席不可」
それって単なる口実のような気がするんだが。
「溝口って営業部なんだろ? なんで企画部のパーティーを仕切ってるんだよ??」
「それは俺の趣味。営業部からも何人か来るぞ。他の部署からも来るけど」
「あ、そ」
片嶋は黙って俺の返事を待っていた。
顔を見て、一緒に来て欲しいんだって分かった。
「……いいけど。俺ら、早めに帰るぜ?」
「オッケー。じゃあ、桐野も出席〜っと」
「なんか、面倒だな」
バーベキューったって、用意したり片付けたりするんだろうし。
いや、それよりも。片嶋に言い寄るヤツがいたら、俺の平常心が危うい。
「大丈夫だよ。うちの女の子も行くし。料理が趣味ってコもいるから、俺らは座って食ってりゃいい。桐野だって野菜を切るくらいはできるんだろ?」
まあ、今から心配しても仕方ない。その時はその時だもんな。
「ずっと一人暮しだからな」
最近は忙しいせいもあって、料理らしい料理は滅多にしないけど。
大学入学と同時に家を出てから早10年。
一応、それなりに作れる。
「彰ちゃんは?」
片嶋は黙って首を振った。
ずっと親元じゃ……な。
しかも、随分と可愛がられてるようだし、家じゃ片嶋が台所に立つことなんてないんだろう。
「おまえ、見るからに料理とか出来なさそうだもんな」
事実をそのまま言っただけで。
別にそれがいいとか悪いとかじゃなかったんだけど。
片嶋の眉がピクリと動いた。
でも、普通に、
「そうですね。今のところは全然できません」
と答えてた。
「あ、でも、彰ちゃん、カクテルなら作れたよな?」
「けど、車で行くのに酒はダメでしょう?」
ってことは作れるのか。
飲むだけじゃないんだな。
「運転する奴には飲ませないよ」
「可哀想ですよ」
「心配しなくても、課長が『飲んだら泊まって行けばいい』って言ってたからさ。ゲストルームが3部屋もあるらしいから、全然気にすることないぞ〜」
「でも、」
「桐野なら、家に帰ってからゆっくり彰ちゃんが晩酌に付き合ってやればいいだろ?」
……飲酒運転より片嶋と飲む方が危険だと思うが。
「なあなあ、俺、桐野も彰ちゃんも酔ったところ見たことないけどさ、どっちが酒癖悪いんだ?」
「俺も桐野さんが酔ったところなんて見たことないですよ」
片嶋はちょっと不満そうに答えた。
俺は片嶋みたいに軽くないから、外で潰れたら運べないんだよ。
迂闊に酔っ払いにはなれない。
「俺は酔っても寝るだけだからな」
溝口も寝るだけだよな。
まあ、本人は翌日二日酔いで大変らしいけど。
「彰ちゃんは?」
「片嶋も大抵は寝るだけ」
いろいろ思い出しながら答える。
溝口は細かいところまで突っ込んでくる。
「寝ない時は?」
俺は思わず沈黙してしまった。
今までの数々の出来事をなんとなく思い出してしまって、答えられなかった。
もちろん、片嶋も何も言わなかった。
「あ〜、やらしいなぁ。なんかあったんだな? すご〜く乱れちゃったとか?」
やらしいのは、おまえだろ??
まったく、余計なことばっかり。
「別に、そういうんじゃねーよ。ちょっとタメ口になるくらいで」
「またまた〜。俺には内緒なんだな?」
そうやって、片嶋に話を振るなって……って思ったけど。
「当然です」
片嶋は俺よりも冷静だった。
「ちぇ、つまんないなぁ。まあ、いいか」
溝口はその後もバーベキューのこととか次の飲み会のことなんかを散々話し続けていた。
「じゃあ、あんまり邪魔しても悪いから」
やっと帰る気になった時にはすっかり暗くなっていた。
「今度来る時は事前に電話するよ」
靴を履く溝口の後姿に、
「もう来なくていいですよ」
片嶋が容赦なく告げた。
面白いから、俺は黙ってそれを見てたけど。
溝口はこうやって、また遠慮なく遊びに来るんだろうな……
そんな気配が笑顔に漂っていた。
溝口が帰るとすぐに片嶋は珍しく自分から俺のすぐ隣りに座った。
やっと二人になったと思いながら、肩に手を回して。
待ち切れないように唇を重ねた。
「……ん、」
こんな時の片嶋は、溝口に悪態をついてたのが嘘のように可愛くて。
ついついソファに押し倒してしまったら、怒られた。
ちぇっ……。
まあ、寝る時は嫌でも一緒だからな。
もう少しガマンしよう。
気を取り直して。
「溝口、何を慌ててたんだ?」
普通の会話をはじめた。
「ああ、あれですか? 別にたいした事じゃないんですけど」
でも、溝口が口を閉ざすくらいインパクトのあるネタなんだろう。
「溝口さんの彼女が総務部にいて、俺のアシスタントをしてくれてる女の子と仲がいいんです」
「それで?」
「なのに、この間、違う女の子と二人で飲んでるところを見ちゃって」
「ふうん」
なんだ、溝口ってわりとマトモなんだな。そんなネタでも怖いのか。
「でも、同じ会社の子ですから。しかも、キスとかしてて。そんなことが会社でバレたら、仕事がやりにくくて仕方ないでしょう?」
確かにな。
女子社員から全く相手にされなくなったら、やりにくいどころか仕事にならない。
「アイツって後のこと考えないよな」
俺の一言に片嶋が眉を動かした。
「桐野さんなら、もっと上手くやりますか?」
それって、ヤキモチなんだろうか?
そう思うとちょっと嬉しいような。
「片嶋だったら?」
「俺はそんなこと……」
そう言ってみたものの、以前に二股かけてたことを思い出したのか、その先は言い淀んだ。
変なところが真正直なんだよ、コイツは。
でも、考えた後でこう答えた。
「桐野さん以外は男じゃないですから」
……ふうん。
「なら、溝口は何だ?」
「会社の人」
「岸田も?」
「岸田さんは、それ以下」
会社の人より下ってどういうポジションなんだろう。
相変わらず、片嶋らしい返事だ。
「安藤と井口って?」
「他部署の人なので俺もよく知らないです」
嘘じゃないようだが、だからと言って俺の心配事が減るわけじゃない。
「じゃあ……アイツは?」
中野のこと、今はどう思ってるんだろうって、なんとなく気になって。
けど片嶋はあまり考えもせずに即答した。
「昔、付き合ってた人」
それが、本当になんでもないって顔で、妙に俺を安心させた。
けど、なんで今でもアイツの家の鍵を持ってるのかは、やっぱり聞けなかった。
「今は、桐野さんだけですから」
片嶋は真面目な顔でそんな可愛い一言を付け足して、俺の胸に顔を埋めた。
例えばこれが嘘だったとしても、俺は簡単に騙されるんだろうなんて思いながら。
俺のセーターに包まれた身体を抱き締めた。
本当に。
片嶋が着ると可愛いよなって、ぼんやり考えていたら。
「それで……桐野さんなら、バレないように上手くやりますか?」
片嶋は、腕の中からもう一度同じ質問をした。
冗談なんかで聞いているわけじゃないってことは、その心配そうな顔を見れば分かる。
そんなこと、心配する必要なんてないのに。
「俺はそんなに器用じゃねーよ」
そう答えたら、片嶋はやっと安心したように笑った。
「……そうですね」
そんな返事をしやがって。
「分かってんなら聞くなよ」
「でも、嬉しいです」
外では滅多に見せないような華やかな笑顔が向けられて。
「……そっか」
そっとキスをしながら。
そんな言葉で片嶋が喜ぶなら、100万回言ってやってもいいって、本気で思った。
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