20分後。
片嶋の明るい声がガランとしたオフィスに響いた。
「うわ、本当に全員帰ったんですね」
営業部の真ん中にポツンと座ってムキになってバチバチとキーボードを叩いている俺を見て華やかに笑った。
ロングコートにダークスーツにメガネ。
外が寒いせいなのだろう。
ほんのりと色づいた頬。
「なんか、ここ、暑くないですか?」
「ああ、エアコンがイカれたらしくて温度調整がうまくできないんだ」
片嶋は手早くコートと上着を脱いで椅子にかけると、少しだけ窓を開けた。
「何から手伝えばいいですか?」
ついでにネクタイを取ってワイシャツのボタンを一つ外す。
残業を手伝うくらいで、ずいぶんと気合を入れてくれるんだけど。
なんとなく目の毒じゃないか。
片嶋の首って、ちょっと色っぽいんだよな。
俺の視線に気づくこともなく、共有端末の電源を入れて必要なソフトを立ち上げる。
本当に、世界で一番良く出来た恋人だと思う。
物分りも良くて、頼りになって。
しかも。
「遠慮なく言ってください。何でもしますから」
惜しげもなく向けられた笑顔が、ちょっとそこらへんにはいないほど可愛い。
このまましばらく見とれていたい気分だが、この状況じゃそれも無理。
「じゃあ、稟議を頼む。3つも溜めてんだ」
できることならこのまま二人で楽しくメシでも食って、温かいベッドで寝たい。
一歩外に出れば、駅までの道はずっとお祭りムードのイルミネーション。
便乗しないのはもったいない。
けど。
そんな現実逃避をしてたのは俺だけらしい。
「それにしても、本当にすごいですね」
デスクに積み重なった書類の山はすべてこれから片付ける仕事のファイル。
それを眺めながらも余裕の笑みだ。
目の前の現実に怯まないあたりは、さすがに片嶋。
「ずっと出突っ張りだったから、デスクワークが全然出来なかったんだ。悪いけど頼むな」
朝のドタバタのせいで夜になるまで自分の仕事がまったくできなかった。
いつもなら、説明が面倒でも、時間がかかっても、神経をすり減らしながらチェックをしないといけなくても、研修を兼ねて他の奴らにやらせるんだけど。
今日はそんな余裕もなかった。
唯一、それなりにあてになる速見も朝から浮かれてて凡ミスの連続だったし。
結局、手元に全部残ってしまった。
「稟議は定例のフォームでいいんですよね? 接待の費用申請と大口案件の事前査定と代理店研修会の申請ですね」
「ああ」
なんの説明もしなくても、過去の稟議を見ながらさっさと仕上げていく。
漏れなんてもちろん無い。
しかも、あっという間だ。
「とりあえず稟議は終わりました」
「じゃあ、営業情報の資料頼む。それから……」
一度に3つくらいをメチャクチャ端折った手抜きの説明で渡す。
それでも片嶋は不明な点を途中で確認するだけ。
俺の手を煩わせるようなことはない。
「昨年との比較資料が必要なんですが。これの一つ前のファイルはどこにあるんですか?」
「資料庫のキャビネットだな。5冊くらいあるから、中から探さなきゃならない。持ってくるよ」
静かに淡々と片付いていく仕事。
絶対、朝までかかると思ったのに。
終電には間に合わなくても、2時くらいには帰れそうだ。
まあ、片嶋は明日も仕事だから遅くならないうちに寝かせないといけないが。
ってことは、今日は、無理か……。
仕事の目処が立つと余計なことを考える。
俺は決してイベント好きなほうじゃないけど、やっぱり仕事よりは片嶋と二人でクリスマスの方がいい。
「3分の1くらいは終わったんでしょうか?」
「んー、あとちょっとで半分ってところじゃねーか?」
ほんとに仕事が早い。
家ではクッションと同化して、まったりしてるくせに。
「片嶋が部下だったら、俺、ラク過ぎて給料泥棒って言われそうだな」
「そんなこと……だって桐野さん、いつでも営業成績トップじゃないですか」
「……そうかぁ?」
確かに毎年成績優秀者で表彰されるけど。
報奨金としてそれなりの金額がもらえるから、その金で部署の連中とパーッと飲みに行くのが楽しいだけだ。
「そういうことに無頓着なのは営業関連部署では桐野さんだけですよ。営業部や支社はもちろん、役員も人事も推進部も企画部もみんなチェックしてます」
「へー」
「桐野さんが気にしていないだけで戦々恐々ですよ。昇格・昇給にもボーナスにも大打撃でしょうから」
そう言えばボーナスもコレといって使うあてがない。
一緒に休みが取れるなら、片嶋とまたどこかに行きたいよなぁ……
うっかりそんなことを考え始めると、仕事をする気が半減する。
「一般職の子になんて、いつも『桐野さんを紹介してくれ』って言われて大変なんですから」
そんなこと。
「別にどうでもいいけどな」
片嶋以外には興味ないし。
「無感動ですよね」
片嶋が呆れたように笑うから。
「じゃあ、おまえに振られた時はそれを思い出して社内に彼女でも作るよ」
そんな会話の間も片嶋はパソコンのキーを叩き続けていたけど。
顔だけ俺の方を向けて、にっこり笑った。
「じゃあ、今の話は忘れちゃってください。必要ないですから」
そんな返事がくるとは思ってなかったから、一瞬手が止まってしまった。
「桐野さん、ぼーっとしてると終わりませんよ」
怒られてしまったけど。
俺って幸せなヤツだなと一人で笑いながら仕事モードに戻った。
「どうでもいいけど、片嶋って仕事好きだよな」
終わったファイルをしまいに行く片嶋の後ろ姿に話しかける。
「仕事が好きなわけじゃないんですけどね」
「けど、楽しそうだぞ、おまえ」
ここへ来てからずっと笑顔だ。
「だって、楽しいですから」
クスクスと笑いながら、次のファイルを手に取る。
その整った横顔にほんの少しだけ見とれた。
クリスマスに仕事なんてと思ったけど。
片嶋と二人きりなら、悪くない。
あっという間に11時過ぎ。
部屋は相変わらず暑苦しくて、ガマンできずに俺もネクタイを外した。
「片嶋、メシまだだろ?」
「はい」
仕事はあと3分の1くらい。
けど、夕飯くらいはちゃんと済ませておかないと血糖値が下がって頭が働かなくなる。
「じゃあ、軽く食ってくるか」
コートを羽織って外に出た。
外からビルを見上げたら、俺らのいるフロア以外は電気がついてなかった。
……まあ、当然だけど。
仕事の話をしながら、新宿の街を並んで歩く。
世間は本当にクリスマス一色で、店はもちろん、一般の企業でもビルの前にオーナメントが散りばめられたツリーなんかが飾ってあった。
擦れ違うのもカップルか酔っ払いばかり。
さすがにこんな状況だから、そんな光景は全くもって他人事のようなんだけれど。
それでも、やっぱりクリスマス。
立ち食い蕎麦屋では侘しいから、少しだけクリスマスの雰囲気が味わえるようなイタリアンの店に入った。
こんな時間だと言うのに店はカップルばっかりで。
ちょっとどころか、かなり場違いだった。
まあ、俺達もカップルには違いないんだけど。
世間はそう思ってくれないからな。
仕事が終わったら、片嶋にプレゼントを渡そうとか、帰ったら早く寝かせてあげようとか。いろいろ考えながらテーブルにつく。
「桐野さんの家ではクリスマスパーティーはしないんですか?」
この一ヶ月、どんなに街が賑やかになってもそんな話はしなかった片嶋も、さすがに今日はそんなことを聞いてきた。
隣りのテーブルでプレゼントを開けるカップルにチラリと目をやって、ほんの少し微笑みながら。
「んー、まあ、ガキの頃はしてたよ。今は実家の近所に住んでる妹が子供連れて帰ったりしてるから、今日も何かやってると思うけどな。おまえんちは?」
「してると思いますよ。母がそういうの大好きで」
そういえば、家からプレゼントが届いてたよな。
父母から一箱。それがセーターで。
祖父母から一箱。そっちはコート。
姉貴夫婦からも一箱。それはデジカメだった。
「おまえ、お返ししたのか?」
「ええ。……けど、面倒ですよね」
そう答える顔が、本当に煩わしそうなんだよな、コイツ。
いい年した男だから当然と言えば当然だけど。
毎年彼女と一緒に過ごしてきた俺としては、相手がはしゃいでいるのを見るのが普通だったから、ちょっと調子が狂う。
「片嶋、クリスマス嫌いなのか?」
俺の問いに。
「そんなことはないですけど」
口を拭きながらそう答えたけど。
片嶋の関心はまったく別のところにあるようだった。
「まだ仕事残ってますから、ワインは駄目ですよね」
それはもう本当に残念そうで、俺はちょっと笑ってしまったんだけど。
「まあ、あと少しだけどな」
そうは言っても深夜までかかるだろう。
「早く終わったら、飲んで帰ってもいいですか?」
「そりゃあ、構わないけど。そんな早く終わらねーだろ?」
ざっと見積もった感じでは最低でもあと2〜3時間。
飯を食って戻って、その後は休まず黙々とやったとしても帰りは2時か3時。
それで終わればかなり順調に片付いたと言えるだろう。
なのに。
「大丈夫です。終わらせますから」
片嶋はなんてことないようにそう答えると、チラリとワインリストに目をやった。
本当に頼もしいヤツだ。
会社に戻ってから1時間とちょっと。
真剣な時の片嶋は俺でも怯むくらいの手際ですべてを片付けていく。
もしかして普段は手を抜いているんじゃないだろうかと疑いたくなるほどだ。
「早ぇ……」
思わず呟いたら、クスッと笑われた。
「はい、どうぞ。これで終わりですから。他にも何かあれば……」
「そんなにあって堪るかよ」
片嶋が笑顔で見守る中、形ばかりのチェックをして、本日の仕事は無事終了となった。
「あっと言う間だったな」
時計を見たら、1時ちょい過ぎ。
さすがに電車で帰ることは諦めたけど、これなら上出来だ。
「家の近くのほうがゆっくり飲めるよな」
朝までやってるバーもあるし。
手伝ってもらったお礼に少し高いシャンパンでも…って思っていたら。
片嶋がにっこり笑って俺の前に立った。
「桐野さん、これってクリスマスプレゼントですか?」
袖机の前に座り込んで、足元のボックスに入れておいたリボンのかかった箱を見つめていた。
見つからないようにと思って隠しておいたのに。
目敏いヤツだな。
「ああ、おまえに」
言ったとたんに片嶋が少し照れたように笑った。
「開けてもいいですか?」
「もちろん」
中味は何の変哲もないマフラー。
寒がりなくせに一つも持っていないことを思い出して買ったものだった。
前に理由を聞いたら、大真面目な顔で「なくしちゃうんです」って答えてたけど。
だからって、それを理由に寒いのを我慢することはないだろうって思って。
「なくすなよ」
箱を開けた片嶋にいきなりプレッシャーをかける俺って性格悪いかもしれないけど。
片嶋はにっこり微笑んで、
「大丈夫です。大事にしますから」
そう答えて、首にふわりと巻いた。
買った時はちょっと地味かなと思ったんだけど。
片嶋は本当になんでも似合う。
しかも、マフラーの感触を確かめるように鼻先を押し当ててる様子が妙に可愛くて、俺もついつい微笑んでしまう。
「なんですか?」
目をぱちくりさせている片嶋を見て、それ以上なにかを言う気がなくなった。
多分、誰にも見せられないほど緩んだ顔で。
そっとマフラーを引き寄せる。
片嶋は少し驚いた顔をしたけど。
しばらくはされるままになっていた。
なのに。
もう仕事も終わったし…と思って顎に手をかけようとしたら、またしても押し戻されてしまった。
「桐野さん、」
「ん?」
「俺も、プレゼント買ってきたんです」
マフラーを大事そうに置いて、コートの下から取り出したのは黒くて細長い包みだった。
ネクタイなんだろう。
薄い箱は黒い包装紙でラッピングされていて、光沢のあるブラウンのリボンがかかっていた。
「開けてもいいか?」
「はい」
取り出すと、手に心地よくシルクが滑る。
品のいい落ち着いた色のネクタイは、ものすごく片嶋が選んだって感じだった。
「サンキュ」
ついでにもう一つ、ねだってみる。
「片嶋、」
「はい?」
「ネクタイ、結んでくれよ」
俺のリクエストに片嶋がニッコリ笑った。
それから、外されてたボタンを止めようとして俺のワイシャツに手をのばした。
ふわりと片嶋の髪から甘い匂いがして。
気がついたら、その手をそっと掴んで抱き寄せてた。
「桐野さん……?」
少しうろたえている片嶋の背中を抱いて、懲りずにそっと顎に手をかけた。
「あの……ここ、会社です……」
「だったら?」
「だって、誰かに見られたら」
片嶋は少し不安そうに俺を見上げていた。
「こんな時間まで残ってるヤツなんていねーって」
「でも、」
「『でも』は禁止。それに」
背中を抱いていた手を首の後ろに回す。
そのままさらに強く抱き寄せると、片嶋の手が心細そうに俺のワイシャツを掴んだ。
「誰かに見られたとしても、俺はぜんぜん構わねーよ」
かすかに染まった頬が少しずつ近づいて。
舌先がつややかな唇に触れた。
「……桐…野さ……ん……」
やわらかな感触。
だけど、わずかな緊張が伝わってきた。
「いいから……黙って」
そのままゆっくりと唇を合わせた。
目の前で片嶋の長い睫毛が揺れて。
窓の外には新宿の夜景が広がっていた。
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