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「んじゃ、桐野、お疲れー。ういっく」
「……真っ直ぐ歩けよ、溝口」
酔っ払い連中に別れを告げて一人で電車に乗り、数分後から店を出た片嶋と途中で落ち合って一緒に帰宅。
「久々に飲みすぎって感じだな」
「そうですね」
ほんのり色のついた片嶋の頬はちょっと色っぽくていい感じなんだけど。
「なんで溝口はシモネタに走りたがるんだろうな」
「さあ、俺には分かりません」
酔っ払ってるわけじゃないから、返事はいつもと同じ。
丁寧語かつ素っ気ないものだった。
もちろん、家に帰った後も俺のささやかな希望など反映させてくれるはずもなく。
「おやすみなさい」
就寝の挨拶だけをして眠ってしまう、いつものつれない態度だった。
……まあ、それはもう慣れたけど。
その翌日は溝口と同行で。
客先を出た時にはもう6時を回っていた。
「桐野、あんまり彰ちゃんにエロい話とかすんなよ?」
「してないけどな」
たとえしていたとしても溝口には関係ないだろうと思ったが。
「彰ちゃんがスレて可愛くなくなったら、嘆く奴がたくさんいそうだからなあ」
溝口の尾ひれつきの噂によれば、昨夜のシモネタ談義はすでに「片嶋周辺」には連絡済だとかで。
「そんな彰ちゃんが可愛いって、ファン倍増だぞ?」
どこまで本気で言ってるのかは分からないが、
「溝口、実はおまえが広めてるんじゃないのか?」
それだけは「きっとそうなんだろう」という確信があった。
だが、溝口は曖昧な笑みを浮かべたまま、また俺に違う心配をさせる。
「けどさ、女子の中にも彰ちゃんとだったら寝てみたいってヤツがけっこういるんだよなぁ。まあ、オネエサマ系が多いんだけど」
そりゃあ、片嶋はあの顔であの頭脳であの人当たりだから、ゲイを公言していなかったら普通にモテたはずだ。別に不思議でもなんでもない。
……だからといって女の子にまで狙われるのは勘弁して欲しい。
もっとも片嶋は海外生活経験者だけあって、女の子の誘いをやんわり断るのはうまいから、心配することはないんだけど。
なんてことを考えていたら、
「彰ちゃんって女の子とヤッたことあるのかな?」
溝口がまたオヤジな質問をする。
「どうでもいいだろ、そんなこと」
おまえには関係ない。
というか、片嶋よりも自分の心配をしろ。
「冷たいな、桐野は」
「当たり前だろ」
そんな話をしていた矢先。
「あっれ〜、彰ちゃんじゃないか? ほら、あのものすごい美人の隣」
赤信号の横断歩道。道を挟んで向こう側に立っているのは紛れもなく片嶋だった。
一緒にいるのは片嶋よりも少し年上と思われる女性。でも、溝口の言う通り相当な美人で、自然と周囲の視線が集中していた。
「どうする、桐野。ずいぶんと睦まじい雰囲気だけど、声かけてみるか?」
溝口に聞かれたけど。
「でも、どう見ても色っぽい関係じゃなさそうだよな」
笑い合って話している様子は確かに他人行儀ではないし、どちらかと言わなくても仲は良さそうに見えたけど。
「そうかぁ? だって、あんな美人だったら、いくら女に興味がなくても、なあ?」
いくら相手が美人でも根本的に興味がなかったら、恋愛対象にはならないだろう。
そう思って。
「溝口は顔がよければ男とも付き合えるのか?」
当然、否定的な答えを期待していたんだけど。
「うーん。彰ちゃんくらい可愛ければちょっと考えるかな」
相手が溝口だってことを忘れていた俺がバカだった。
「あ、冗談だって。桐野、その目はやめろよ、殺気を感じるぞ」
そんな会話をしていたら、いつの間にか信号は青になっていて、人波が押し寄せてきた。
そして、その中から真っ直ぐこちらに走ってきたのは言うまでもなく片嶋で。
「桐野さん、仕事の帰りですか?」
そう尋ねた顔に後ろめたそうなところは微塵もなかった。
片や美人の年上女性は穏やかに微笑みながら、ゆっくりと歩いてきた。
「こんにちは」
軽い会釈のあと、その華やかな笑顔を見て、この女性が誰なのかはすぐに分かった。
「桐野と申します」
自己紹介をしたら、案の定。
「俺の姉貴です。……見たら分かると思いますけど」
片嶋から説明があった。
「ああ、似てるな」
文字通り美人姉弟。オヤジとお袋がどんな顔かは分からないけど、家族でいたらすごそうだ。
「お仕事が終わったのでしたら、ご一緒にお茶でもいかがですか?」
片嶋の姉さんが誘ってくれたけど。やっぱり少し考えてしまった。
お茶を飲みながら話なんてしてたら、知られてはいけないことまでバレてしまうのではないだろうか。
俺は決して口が軽い方ではないが、それにしても、やっぱり配慮が行き届かなくて……ということはありそうだから悩むところだ。
もっとも、「彼氏」と同じマンションに引っ越したことは姉さんにも話してあると言ってたから、それほどナーバスになることもないんだろうけど……。
その辺を確かめるべく、片嶋にちらっと視線を送ったら、
「姉貴おすすめの店がその辺にあるらしいんです」
にっこり笑ってそんな返事があって。
それは本当になんの注意事項もなさそうな笑顔だったから、何がバレてもかまわないんだろうと思って。
それ以上に、片嶋がとても来て欲しそうな顔をしていたから。
「ああ、いいよ」
俺も軽くOKをした。
けど、溝口がまた要らないことをしゃべって姉さんに余計な心配をさせたら……と懸念していたんだけど。
「あ、でも」
そのあたりはさすがに片嶋で。
「溝口さんは会社に戻ってください。企画書がまだ出てないですから。明朝十一時が締め切りですので遅れないようにお願いします」
振り返った通行人が釘付けになるほどの笑顔で、あっさりと溝口を追い払った。
そこから、徒歩三分。
「ここです」
案内されたのは茶系のインテリアで統一されたアンティークな雰囲気の喫茶店。
中に入ると店内の客からチラチラと視線が飛んできた。
片嶋だけならまだしも、今日はさらに美人連れなのだから無理もない。
「だから姉貴と歩くの嫌なんだよな」
少し不満そうな片嶋は、それが姉さんのせいだけじゃないことには気付いていないらしい。
しかも、今日に限ってやたらと周囲を気にしているのがまた可愛くて、俺はどうしても気になってしまう。
そんなわけで。
「紅茶のシフォンケーキがお勧めなんですけど……桐野さん、甘いものは大丈夫かしら?」
笑みを絶やさずに気を遣ってくれる姉さんの質問にもうっかり素で答えてしまった。
「何でも食いますよ」
相手は片嶋じゃなくて姉さんなんだから、もっと丁寧に返事をすべきだったなと思った時にはもう遅かった。
けど、姉さんも片嶋もやけににこやかに笑っていて。
「彰の言ってた通りの方なのね」
片嶋が姉さんにどういう説明をしたのかは分からないが、まあ、変によそ行きな態度にしなくても大丈夫ってことなんだろう。
それにしても、この返事を聞いて「言っていた通り」というのがやや気になった。
片嶋、絶対俺のこと褒めてないだろ?
……まあ、別にいいんだけどな。
「桐野さん、彰とは同じ階に住んでいらっしゃるんですよね」
片嶋はいつもよりさらに無口だったけど、姉さんがあれこれと気遣っていろんな話を振ってくれるから、話題に困って気まずくなることもない。
「ええ、三つ隣りで―――」
部屋番号はいくつで間取りはこんなで……と、他人にはどうでもいいようなことを話しても、また華やかな笑顔を見せてくれる。
つくづく片嶋に彼女のような愛想の良さがなくてよかったと思う。
そうじゃなくても最近会社ではやたらと可愛がられているんだ。
これ以上心配事を増やされたくない。
「でも、彰がご迷惑をおかけしているんじゃありませんか? 頻繁にお部屋にお邪魔しているって……」
そんなことも聞かれたけど。
本当は一緒に暮らしていることも知っているんだろう。
はっきりと同居してることを口にしなかったのも、たぶん俺への気遣いで。
そういうところも片嶋とよく似ている。
「いいえ。一人より楽しいですから」
こんな他愛もない世間話をしている俺の隣で、片嶋はさっきからちょっとそわそわしていて。
「あんまりよけいなこと聞くなよ」と何度も姉さんを注意していた。
落ち着きのない片嶋を見ることなんて滅多にないから、なんだか笑ってしまうんだけど。
姉さんは常に真剣そのもので。
「よかった。彰がいろいろ話してくれたんですけど、あんまり信用できなくて……」
「ひどいな。嘘なんてついてないのに」
「でもね……」
それはたぶんアイツのことがあるからなんだろうけど。
好きになった相手のことを悪く言うような片嶋じゃない。
彼女だってそれはよくわかっているんだろう。
「いつまで経っても子供みたいな気がしてしまうんですよね。小さい頃は何でも話してくれたんですけど――――」
そんなことを言いながら小さなため息をついていた。
なのに片嶋はちょっとご機嫌ななめで。
「子供の頃の話なんてするなよ」
珍しくムキになって、ケーキも食べずに彼女の一語一句にチェックを入れていた。
何より、敬語じゃない片嶋は本当に普通だ。
まあ、いくら片嶋でも家族に対して丁寧語ってことはないだろうとは思っていたけど、それにしても妙に新鮮で、なぜかちょっと笑いそうになってしまった。
何かと「ふうん」と思う俺の目の前で、姉さんは片嶋の世話を焼いたり、「ダイエット中」という理由でシフォンケーキの半分をあげたりしていて、それもなんだか微笑ましい。
本当に仲がいいんだなと思いつつ眺めていたんだけど。
どうやら俺は必要以上にじっと見つめてしまっていたらしく、
「彰が実家にいた頃はそうでもなかったんですけど、たまにしか会わなくなってからあれこれ言わずにいられなくなってしまって」
もうこんなに大きな弟におかしいですよねと少し照れくさそうに言い訳をされてしまった。
「いえ、そんなことは……」
確かに過保護気味だとは思わなくもないが、可愛い弟のことだから仕方ないんだろうと軽い返事をしておいたんだけど。
隣にいた片嶋からは、
「でも、桐野さんが一番過保護ですよ」
真顔でそんな言葉が。
「そうか?」
俺には「過保護」の心当たりはなかったんだけど。
それを聞いていた姉さんがまた少し笑って、
「よろしかったら、土曜にうちでランチをいかがですか?」
いきなりそんな誘いをしてきた。
「え……」
一緒にいる時間が長くなるとあれこれボロが出そうだし、迂闊な返事はしないほうがいいんだろうなという気持ちで隣を見たが、片嶋は微妙な顔をしているだけで何も言ってくれなかった。
そんなわけで。
「ありがとうございます。お伺いします」
遠慮なく受けてしまったら、片嶋がさらに微妙な顔をした。
「もしかして断って欲しかったのか?」
ストレートに聞いてみたが、
「……別にいいですけど」
煮え切らない答え。
なんでこんな今一歩な反応なのか、この時は判らなかった。
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