<どうせネコですから。>
明日は直行だと言うのに、会社に資料を忘れてきてしまった。
仕方ないので会社に取りに戻ろうと思って電話した。
「悪い。鍵、開けておいてもらえるように管理事務所に電話してもらえる?」
事務の子に頼んだら、しばらく電話が保留になって。
それから。
『吉井さんが近くまで持って行くそうです』
そう答えた今井さんの声は何となく笑っていた。
「え?? いいよ、悪いだろ」
夜遅くに女の子を一人歩きさせるのもなんだかなって思ったんだけど。
『吉井さんの家、桐野さんちから一駅だから大丈夫ですよ』
じゃあ、駅で待ち合わせて受け取ったら送って行けばいいかと思って頼むことにした。
会社を出る時に電話するって言っていたんだけど。
吉井さんは直接うちに来た。
「わざわざ悪かったな。サンキュ」
資料を受け取って、すぐに送って行こうと思ったんだけど。
「ここのシフォンケーキ、おいしいんですよ」
差し出されたのはケーキの箱で。
わざわざ買ってきてくれたために、コーヒーの一杯くらいは出さないといけなくなった。
「散らかってるけど」
とりあえず部屋にあがってもらって、コーヒーを入れた。
その瞬間から、片嶋は不機嫌だった。
「わあ、これが噂の片嶋くんですね」
吉井さんも猫が好きらしくて、「おいで、片嶋くん」なんてにこやかに呼んだんだけど。
「わりい。片嶋、女の子が苦手らしいんだ」
あからさまに嫌な顔をしている片嶋を抱き上げて。
「片嶋、お客さまなんだから、そういう顔をするなよ」
ちょっとだけ怒ってクッションの上に置いた。
「でも、可愛いですね。桐野さんが甘やかしてるっていうのも分かります」
溝口はどうやら事務の女の子たちにもそんなことを言ったらしく、この分だとうちのフロアのヤツには知れ渡っていそうだった。
「昼間はずっと家にいないからな。一緒の時くらいはって思うんだけど」
そんな返事をしたら、にこにこ笑われてしまった。
「じゃあ、彼女なんてできたら大変ですね」
「なんで?」
「片嶋くん、やきもち焼くんじゃないですか?」
……そんなには懐いてくれていないような気がするんだけど。
「まあ、その時はその時だからな」
片嶋の耳がピクッと動いたけど。
それは気にせずに、ケーキを食べながら仕事の話なんかをして、その後、吉井さんを送って行った。
「ただいま」
部屋に入って辺りを見回したけれど。
「……片嶋?」
バスルームにもトイレにも片嶋の姿はなかった。
ベランダがわずかに開いていたから、外を見たんだけど。
やっぱり片嶋はいなかった。
「……ったく」
こんな時間にどこに行ったんだ?
ずっと機嫌が悪かったけど、だからって突然いなくなるってどうだよ??
「やっぱ、甘やかしたのがマズかったのか?」
ベランダから出て行ったとしたら、隣りのベランダ伝いに非常階段を降りたんだろう。
とりあえず、非常階段を上から下まで探して。
そのあと屋上を探して。
それでもみつからなかったから、外に出た。
「片嶋、」
マンションの敷地内を全部探して。
周辺の公園や裏通りを探して。
でも、みつからなくて。
「腹が減ったら帰ってくるかな……」
ベランダに片嶋お気に入りのワインを出して待ってたけど。
翌朝になっても片嶋は帰ってこなかった。
とりあえず会社に行ったものの、片嶋のことが気になって仕事にならない。
「わりい。俺、ちょっと……」
「どうしたんですか? 珍しいですね」
みんなに聞かれたから。
「片嶋が家出したんだ。探しに行かないと」
あんなに可愛いんだから。
急がないと誰かに攫われてしまうかもしれない。
「本当にラブラブなんですね〜」
冷やかされたけど、笑い返す余裕もなくて。
定時に仕事を切り上げて家に帰った。
けど。
やっぱり片嶋は帰ってなくて。
ふと最初に会った日のことを思い出した。
前の飼い主のところを出て、佇んでいた片嶋の顔が浮かんで消えた。
急いで着替えて外に出て。
何時間も辺りを探し回ったけれど。
「……もう、誰かに拾われちまったかな……」
あんなに可愛いんだから。
思わず連れて帰ってしまいたくなるのは俺だけじゃないはず。
いろいろ聞き回って。
そのうちに雨が降ってきて。
でも、片嶋は見つからなくて。
やっと。
「ええ、ネコなんです。子猫じゃなくてもうそれなりに大きいんですけど……」
肉屋のオバちゃんに聞いたら、
「ああ、あの品のいい子ね。今朝、公園で見かけてご飯をあげたのよ。まだ、その辺にいるんじゃないかしら?」
教えてもらった公園まで走って行った。
雨は本降りになって、公園には誰もいなかったけれど。
子供が遊ぶトンネルの中からチラッと長いシッポが覗いた。
「片嶋?」
覗き込んだら、キリリとした瞳で振り返ったけれど。
でも、やっぱりどこか淋しそうに見えた。
最初に会った日と同じ。
『今、捨てられました』って様子で。
『でも、拾ってくれなくてもぜんぜん平気です』って顔で。
本当は俺が来るのを待ってたんだって。
なんとなく思った。
あの日、捨てた男を待ってたように。
「よかった。探したんだぞ?」
でも、手を伸ばしたら避けられてしまった。
「どうした?」
まだ拗ねているのかと思ったけれど。
片嶋は不本意そうな顔でうつむいてしまった。
「……俺、ちょっと汚れてますから」
屈み込んで良く見たら、ふわふわの毛は薄くホコリがついていて、ほんの少し色が変わっていた。
「いいから来いよ。帰るぞ?」
俺もすっかり濡れていたけど。
片嶋は申し訳なさそうに俺の手に掴まった。
「風邪、引くなよ?」
「……はい」
抱き締めたら、華奢な体が少し震えていた。
寒かったのか、淋しかったのか。
俺には分からないけど。
家に帰って一緒に風呂に入ろうと思ったけれど。
「嫌です」
思いっきり断わられて。
結局、別々に風呂に入ってワインを飲んだ。
「何が不満だったんだ?」
片嶋に聞いても、首を振るだけで答えてはくれなかったけれど。
「片嶋が嫌なら、もう女の子はうちに入れないから。これからは家出なんてするなよ?」
片嶋は真面目な顔でコクンと頷いて。
「すみません」と言ってから、少しだけすり寄ってくれた。
心配させられたけれど。
こうやって気持ちが深まるなら、それもいいかと思った。
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