<片嶋の誕生日>
「桐野さん」
片嶋に真面目な顔で呼び止められた。
「なんだ?」
「俺、明日が誕生日なんです」
だからと言って、さほど嬉しそうでもなくて。いつもと同じきりりとした表情で俺を見上げていた。
「じゃあ、お祝いしないとな。何が食いたい?」
ちょっと高いワインとケーキでも買ってこようと思ったんだけど。
その言葉に片嶋はどちらかと言えば緊張したような顔で首を振った。
「明日はそんな気分になれないと思うので」
そんな妙な返事があったので、よくよく事情を聞いてみたら。
片嶋の姉さんは誕生日の朝に「大きく」なっていたらしい。
もちろん俺はまだ半信半疑だったんだけど。
「そっか。楽しみだな」
やっぱり期待はしてしまう。俺の緩んだ口元を見て、片嶋も楽しそうに笑ってた。
翌日はたまたま土曜日で、俺も家にいたんだけど。
目を覚ましたとき、片嶋は隣りにいなかった。
トイレかもしれないと思ってしばらく放って置いたが、何分経っても帰ってこない。
さすがに心配になって探しに行ったら、ベランダにちょこんと座っていた。
空はもう明るくなっていて、時間的にもすっかり朝で。
でも、片嶋はネコのままだった。
どうやら神様からのプレゼントはもらえなかったらしい。
「片嶋、中に入ってろよ」
期待はしていなかったつもりなのに、やっぱり俺もがっかりしていて、声のトーンが自分でも分かるほどに低かった。
「風邪引くぞ?」
それでも片嶋からの返事はなくて、大きくなれなかったことを気にしてるってことが分かった。
その後も何度か呼んでみたけど。
片嶋は振り向きもしなかった。
もちろん俺だってがっかりしたけど。
だからってそんなに落ち込むことはないのにな。
仕方がないので抱き上げて部屋に戻って、何とか励まそうと思ってわざと明るい声で話しかけてみた。
「な、片嶋。せっかくの誕生日なんだから、やっぱりお祝いしないと。ケーキ買ってきてやるよ。あとは何がいい?」
それでも片嶋は何も答えなくて。ぼんやりとしているだけで。
「欲しいものがあったら言えよ。なんでも買ってやるから。な?」
顔を覗き込んでみても、ごく普通。
そんなに落ち込んでいるようにも見えない代わりに楽しそうでもなかった。
いつもなら、好きなワインの銘柄くらいは答える場面なのに。
「どうした? 欲しい物、何もないのか? それとも一緒にドライブにでも出かけるか?」
幸い天気は良かったから、少しでも片嶋の気が晴れるならと思ってそんな提案をしてみたんだけど。
あまりにも返事がないので、頬を両手で持って少しだけ無理に顔を上げさせた。
「……大丈夫か?」
丸い目が俺を見て。
けど。
「ニャア」
それは片嶋のドヘタな「にゃあ」でも、とびきりよそ行きの可愛らしい「にゃあ」でもなかった。
ごく普通のネコの声。
「……片……嶋?」
嫌な予感がした。
「どうしたんだ?」
もう一度問いかけてみたけど。
「ニャア」
何度繰り返しても同じだった。
「……しゃべれな……くな……ったのか……?」
呼吸が止まりそうなくらいの衝撃だったけど。
なんとか気を取り直して、片嶋のツヤツヤの背中をなでて。
でも、無意識のうちにため息がこぼれた。
ネコの声しか出せなかったとしても片嶋はやっぱり可愛いんだけど。
でも、きりりとした顔でネコらしくないことを言う時が、やっぱり片嶋らしいって思うから。
「片嶋」
諦めきれなくて、何度も呼んでしまうけれど。
「ニャア」
片嶋からは相変わらずそんな返事しかなくて。
何度繰り返してもそれは変わらなかった。
「……ごめんな」
そう言って抱き上げると、片嶋は少しだけ首をかしげた。
「俺、おまえの言うことが分からないよ」
ずっと一緒に暮らしていたのに。
普通の猫を飼っていたって、腹が減ったのか、遊びたいのか、ただ鳴いてみただけなのかくらいはわかるだろうに。
「何が欲しいのか、どうしたいのか……こんなに分からないものなんだな……」
今まで片嶋と交わしたいろんな会話を思い出しながら。
「俺、すっかり分かったような気がしてたよ。おまえのことなら、なんでも分かるって……」
けど、そんなのは錯覚なんだなって。
「ごめんな」
その言葉に、なんとなく片嶋の瞳が曇ったような気がした。
それでも、目の前で俺を見上げている片嶋はやっぱり片嶋なんだから。
これからだってきっと楽しくやって行かれるよなって自分に言い聞かせた。
「けど……ずっと一緒にいたら、きっといつかちゃんと分かるようになるから……だから、しばらくは的外れなことをしても我慢してくれよ?」
俺の言うことだけでもわかってくれたらいいのに。
そう思いながら、そっと頬を撫でたら、片嶋の目に涙が溜まった。
俺はネコを飼ったことがないから、片嶋以外のネコがこんな風に涙目になったりするものなのか分からなかったんだけど。
俺の膝の上にいた片嶋がギュッとしがみついてきて。
それがあまりにもネコらしくなかったら。
「……片嶋……?」
もう一度呼んでみたら。
「……すみません」
そんな言葉が返ってきた。
「しゃべれるようになったのか?」
俺はただ単純に、良かったな……って思ったんだけど。
片嶋はまた「すみません」と言った後、
「嘘なんです」
そう言葉を足した。
「バカ、脅かすなよ?」
一気に身体から力が抜けた。
「そういう冗談はダメだぞ? ホントに心臓が止まりそうになっただろ??」
100%ネコでも片嶋は可愛いんだけど。
でも、やっぱりこんなわけの分からないことをするのが俺の片嶋だって思うから。
「あんまり俺をからかうなよ」
本当の本当にホッとしながら、片嶋を抱き締めた。
片嶋は申し訳なさそうにうつむいたまま、また「すみません」と謝って。
「……脅かすつもりだったわけじゃなくて……普通のネコなら、急にいなくなっても変には思わないかなって……」
そんな言い訳をした。
いや、言い訳なんかじゃなくて、きっと本当のことなんだろうけど。
「普通のネコでも突然いなくなれば変に思うだろ」
これだって、本当は片嶋のせいじゃない。
俺が七夕の時にあんなことを書かなければ、こんなに気にしなかったんだろう。
そう思ったら、胸が痛んだ。
「おまえが大きくならないことよりも、いなくなることの方が俺にはつらいんだから」
片嶋が大きくならなくたって、一緒にいられるならそれでいい。
だから……
「もう、何があっても出て行こうなんて思うなよ?」
そう何度も念を押してから、抱き上げてキスをした。
そのあと、片嶋はギュッと抱き締められて少し苦しそうだったけど、ぐちゃぐちゃに泣きながら、コクンと頷いた。
片嶋が泣き止むまでの数分間。
それだって、俺には大切な時間。いなくなってたかもしれないって思ったら、よけいに愛しくて仕方なかった。
「けど、片嶋ってさ、実は普通のネコみたいに鳴けるんだな」
俺に撫でられながら。
片嶋はまだぐずぐず鼻をすすってたけど。
「……練習したんです……」
まだ、うつむいたまま。小さな声でそんな返事をした。
片嶋はきっとずっと前から決めていたんだろう。
もし、誕生日に大きくなれなかったら、そのときは普通のネコとして家を出ようって。
「……バカだな、そんなの気にすることないだろ。ホントに俺のこと、置いて行く気だったのか?」
やっと泣き止んだ片嶋の目にまた涙が溜まって。
せっかくの誕生日を片嶋は一日中泣きながら過ごした。
でも、別に悲しくて泣いてるわけじゃないから、抱き締めたまま好きなだけ泣かせておいた。
「明日、ケーキ買ってきてお祝いしような?」
そう言っておでこにキスをしたら、片嶋はやっと少しだけ微笑んで。
いつもと同じようにキリリとした顔でコクンと頷いた。
二人で過ごす誕生日。
こんな時間が永遠に続くなら、それだけでいいと思った。
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