<子猫を拾った> 後編
翌朝、チビ猫を連れてデパートの近くの公園とやらに行ってみようと思ったんだけど、片嶋はいつまで経ってもベッドから出ようとしなかった。
「行かないのか?」
かなり様子が変だったが、片嶋はいつもと同じキリリとした顔で「はい」と答えただけだった。
「具合でも悪いのか?」
その質問には「いいえ」の返事。
またちょっと妬いているのかもしれないと思って、
「だったら、帰りに買い物してくるから欲しいものがあったら書いておけよ」
メモとペンを渡してみた。
昨日はチビの相手で大変だったから、美味いものでも買ってちょっと労ってやろうと思ったんだけど。
片嶋は少し俯き加減で首を振って、
「何もいらないので早く帰ってきてください」
そんな返事をした。
これってやっぱり拗ねてるんだよなと思ったらまた妙に可愛くて。
「じゃあ、飼い主が見つかったらすぐに帰ってくるからな」
そう約束しておでこにキスをした。
「おにいちゃん、ここでバイバイなの?」
泣きそうな顔をしている子猫に片嶋は笑って「気をつけてね」と言って、それから、「首輪を買ってもらうまでの間だから」とリボンを結んでやった。
「……ありがと」
チビ猫が涙目のまま小さな手を振って。
片嶋も控えめに振り返して。
「じゃあ、行ってくるから」
少し寂しそうな顔で頷く片嶋を見ながら部屋を出た。
新宿に着くとすぐに会社の駐車場に車を置いて、チビ猫の公園を探しに行った。
「あ、それでね、もっと向こう」
拙い説明を信用してぐるぐるとあちこちを歩いて。
「あ、えっとね、違ったみたい」
……やっぱり迷子になった。
最初は俺の前をちょこちょこと歩いていたチビ猫は、どうやら迷子になる間に疲れてしまったらしくて、だんだんヨタヨタしてきたので、笑いながら抱き上げた。
「ありがとー。ホントはね、疲れてたんだー」
見たら分かるけどな。
もっと早く抱き上げてやればよかったと思いながら交番に入った。
「ええ、そうです。デパートの近くで、ベンチがあって……」
公園の特徴を言って、それらしい場所をいくつか教えてもらって。
「ありがとうございました」
条件に一番ピッタリだった場所に行く途中で、
「あ、そうかもー」
チビ猫はすっかりはしゃいで腕から落っこちそうになるほどキョロキョロしはじめた。
公園に入ると若い男がいて、ベンチの下とか物陰を覗き込んでいた。
まさかコイツがチビ猫を車で捨てに行ったヤツかと思ったが。
「あー、闇医者だ」
チビ猫がバタバタするので下ろしてやったら、そいつのところにちょこちょこと走って行った。
「マモル君?」
振り向いた男はどう見ても怪しそうな風体ではなくて、どちらかというと学校の先生とか何かの研究者とかそんなイメージだった。
「今日、お休みなのー?」
チビ猫は嬉しそうにシッポを振っていて、なんだか犬みたいな猫だなとしみじみ思った。
「マモル君、今までどこに行ってたの?」
みんな心配してたんだよ、と本当に心配そうな顔で言う男を見て、俺もホッとした。
チビ猫を大事そうに抱き上げている青年に挨拶と自己紹介と事情説明をして。
「それで、こいつをポケットに入れて部屋に連れていくって人を探してるんですが」
こんなに心配するくらいだから、きっとこのメガネの青年なんだろうと思っていたのに。
「ああ、中野さんのことですね。彼、今日は仕事でいませんけど、お差し支えなければ僕がマモル君をお預かりします」
普通の猫なら口は利けないから、こいつが本当にいい人間なのか、実はチビ猫を捨てたヤツなのかはわからないんだけど。
「ねー、闇医者。おにいちゃんにリボンしてもらったんだー」
どんなにいまいちな日本語しかしゃべれなくても、これだけ懐いているんだから、コイツが怪しくないことだけは確かだろう。
「よかったね。とってもよく似合うよ。中野さんにも見せてあげようね」
そして、このイマイチな日本語相手に普通に話せるくらいだから、チビ猫と相当親しいと思ってまず間違いない。
「でもね、リボンのおにいちゃんのにはキラキラがついてたんだー」
そう言われて、そのメガネの青年は俺の方を見たんだけど。
もちろん、俺に首輪がついているはずもなく。
「お兄ちゃんって?」
青年は俺以外の誰かだろうという予想のもとに質問をしてみることにしたらしい。
だが。
「このおにいちゃんちのおにいちゃん」
チビ猫はまたしても非常にチビ猫らしい説明をしてくれた。
どんなに慣れていてもこれじゃ意味不明だよなって思ったんだけど。
「そう。猫さんなのかな? それとも犬さん?」
「ねこー」
……ちゃんと会話になってることに驚いた。
「キラキラは輪っかになってるんだよ」というチビ猫の説明にも。
「そう。指輪か何かなのかな?」
笑顔で答えていた。
こいつ、本当にただものじゃない。
……それは、まあともかく。
「じゃあ、このネコのことはお任せしていいですか?」
そう最終確認をしたら、「ご丁寧にありがとうございました」の返事の後、「何かお礼でも」って言われたんだけど。
「うちで待ってるのがいますから、早く帰らないと」
今朝の片嶋を思い出しながらそう答えたら、
「奥さんみたいですね」
いかにも微笑ましいというようににっこり笑われてしまった。
チビ猫の能天気な「バイバイ」を聞きながら青年に別れを告げて。
それから、急いで家に帰ったら。
「会えましたか?」
ドアを開けるなり、片嶋にそう聞かれた。
「ああ、ポケットに入れてくれるっていう男は仕事でいないらしくて、学校のセンセみたいなメガネの青年に預けたんだ。チビ猫が懐いていたから大丈夫だと思うんだけどな」
おおまかに成り行きを話したが、片嶋は何も言わなかった。
返事をするでもなく、質問をするでもなく、ただ珍しく自分からひざに乗ってきて、俺の首にかかっていた指輪を手でつついて遊び始めた。
もうチビ猫のことは済んだから、どうでもよくなったのかと思ったんだけど。
しばらく経ってから、
「……仕事から戻ったら、きっとあの子が見つかったこと、喜ぶと思います」
指輪を眺めながら、少しだけ笑ってそんな返事をした。
その数日後。休日出勤の振り替え日でのんびりテレビを見ていたら、
「あの子、どうしたでしょうね」
片嶋が急にそんなことを言うので、買い物のついでにチビ猫の様子を見に行くことになった。
今日は片嶋もちゃんと出かける準備をしていて。
「今日は一緒に行くのか?」
聞いてみたら、
「平日は大丈夫なんです」
そんな返事だった。
日曜と平日で何が違うのかは良く分からなかったけど。
「じゃあ、行くか。片嶋、ちゃんとシートベルトしろよ」
新宿まで短いドライブのあと、会社に車を置いてチビ猫の公園に行った。
時計を見たら、ちょうどお昼時。
チビ猫は日の当たるベンチに行儀よく座っていた。
隣には弁当を食べている若い女の子が二人。
「まもちゃん、どれがいい?」
「好きなの食べていいよ」
お弁当箱を差し出されて、
「黄色いのー」
楽しそうにそう答えていた。
もらっていたのは玉子焼きみたいで、
「ちょっと甘いけど大丈夫?」
「おいしいかも」
「いっぱい食べて大きくなってね」
女の子たちにもずいぶん大事にされているようで微笑ましかった。
「可愛がられてるみたいだな」
腕の中からじっとチビ猫を見つめている片嶋に声をかけたら、
「よかったです」
そんな返事があったけど。
「でも、首輪は買ってもらえなかったんだな」
チビ猫の首にはまだ片嶋が結んでやったリボンが揺れていて。
だから、てっきりチビ猫は「好きな人」から首輪を買ってもらえなかったんだなと思ったんだけど。
「大丈夫です」
やけにホッとした声でそう答えた片嶋の視線の先。
チビ猫の首元でキラリと何かが光った。
「……鍵?」
チビ猫にはちょっと重いんじゃないかと思われるその銀色の金属はどう見ても家の鍵。
「本物なのか? 無用心なヤツだな」
そう思いつつ眉を寄せた俺に片嶋は少しだけ笑いながら、また「大丈夫です」と言った。
「ドアのところに暗証番号を入れるところがあって、鍵だけじゃ入れないんです」
玉子焼きを食べるチビを見ながらそんなことを言う片嶋の返事を聞いて、やっと気がついた。
チビ猫が好きだと言っていた相手が誰なのか。
「……片嶋」
なんて言ったらいいのか分からなかったけど。
俺が次の言葉を探し当てるより先に片嶋が口を開いた。
「―――よかったです」
もう一度そう言って、顔を上げて。
ふわりと華やかに笑って見せた。
都会の真ん中。
チビ猫はのんびりと空を見ながら午後を過ごして、アイツのことを待つんだろう。
楽しそうに「おかえり」と言って、拾い上げてくれる手につかまって。
ポケットの中で今日あったことを話しながら、一緒に帰っていくに違いない。
チビ猫の幸せと。
チビ猫とアイツに幸せになって欲しいと思う片嶋の気持ち。
「ワイン買って帰ろうか?」
全部大切にしてやりたいと思うから。
「……桐野さん、俺のこと甘やかしすぎです」
片嶋はそんなことを言うけれど。
「そうか? 俺はまだ足りないって思ってるんだけどな」
そう答えたら、今度はちょっと困ったような顔で俯いた。
「何がいい? 赤? 白?」
そんな問いにも、
「……桐野さんが好きなのでいいです」
また遠慮がちな返事をして。
こういうところが片嶋なんだよなって思うから、よけいに甘やかしてしまうんだろうけど。
「じゃあ、両方買って帰るか」
そっと抱き締めたら、片嶋はしっかりと俺につかまったまま控えめに頷いた。
それから車に戻るまでの間、片嶋は一度も顔を上げなかったけど。
小さな手はずっと俺の首元にある指輪の上に置かれていて。
ときどきギュッとしがみつくその仕草が何よりも愛しかった。
end
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