Haruasumi



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宮添が戻ってきたのはたぶん三十分後くらい。
その時にはもうすっかり髪も乾いていたし、俺のように顔が赤くなったりもしてなかった。
「早ぇー。ってか、せっかくの温泉を堪能しろよ」
もったいないぞと文句を言ってみたが、宮添はぜんぜん聞いてなかった。
「久乃木、浴衣はちゃんと着ろよ」
言われて視線を下げてみたが、多少だらしないかもしれないって程度で人前に出られないほどでもない。
そもそもこういう場所での浴衣っていうのは部屋着と同じだから、きっちり着る必要はないはずだろう。
だが、そんなことを考えてる間にさっさと帯を解かれ、一から直されてしまった。
「おまえってそういうこと気にするヤツだっけ?」
家にいたらパンツ一枚でうろうろすることだって珍しくないのにと思ったが。
「さすがに左前はな」
「ナンだ、それ?」
その後、宮添は左前のなんたるかを子供に話すように平易に説明してくれたが、それを聞いた後でも「たいしたことなくね?」としか思えず。
「あー、でも別に。つか、どうせ正しい着方覚えられねーし」
今までの話を全部ぽーんと投げ出してあははと笑ったら、宮添はおもむろに俺の真後ろに回り、直したばかりの襟元に指を差し入れた。
「言葉の意味はいいから、とにかくこうやって懐にすんなり右手が入るように着ろよ」
もぞっと動く指先にちょっと笑いながらも、俺は深く納得した。
「あー、それならすっげー分かる」
そりゃあ、後ろから密着した時、利き手が入りやすい方がいいに決まってる。
などと呟いていたら、すぐにツッコミが。
「おまえが思ってるような理由でこういう着方なわけじゃないぞ」
「ンなことないだろ。絶対みんな同じこと考えるって。つか、ヘンなとこ触ンなよ、宮添。うわ、くすぐってぇー」
文字通りキャッキャと大騒ぎしていたら、背後でやけに控えめなノックが響いた。
「あの、お夕飯の支度が……」
消え入りそうなほど小さな声でそう告げられ、俺は「そんなに気ぃ使わなくてもいいのに」と思ったが、宮添はハッと我に返ったように顔を引き締めた。
「すみません、すぐ行きます」
答えながら自分と俺の浴衣の襟元と裾を手早く直し、涼しい顔でドアを開ける。
待っていた着物姿の女性にニッコリ笑顔を見せると、向こうも口元をほころばせた。
「こちらになります」
団体の客がいつもより多くて食堂と宴会場が塞がってるとかで、案内されたのは二つ隣のごく普通の部屋。
用意されている食事も俺と宮添の二人分だけで、普段とあんまり変わりない夕食風景となった。
だが、食卓に並べられたものはさすがに海の幸山の幸満載で。
「お茶はこちらに置いておきますので、どうぞごゆっくり」
会釈を返しながらも俺の目は皿の中身に釘付けだった。
「うわ、うまそー。んでもって、すっげー高そう。いっただきまーす」
乾杯しながら何気なくつけたテレビはクイズ番組。
ちょうどグラビアアイドルの女の子が背伸びをして何かを取ろうとしているところで、揺れる胸元が画面いっぱいに広がっていた。
「うわー。お子様もバッチリ見ている時間帯だというのに、こんな映像を流していいのかテレビ局」
けど、やっぱりイイ。
あの谷間に挟まれてみたいとつぶやくと遠慮のない呆れ声が返る。
「おまえってホントそればっかだよな。変な女に引っかかっても知らねェぞ」
胸さえあればいいのかと容赦なく冷たい視線を飛ばされたが。
「引っかかりてぇー。どっかにいないか、そういうエロくてイイ感じのコ」
「それも聞き飽きた」
「いいじゃんよ。俺の永遠の理想なんだから。なんかこう、やわらかそーなところがさー、女の子って感じ?」
ぽわーっとしながらエロい妄想をしていたら、また思いっきり眉を寄せられた。
宮添にしては珍しく何かがとても不満そうだ。
「宮添って胸のおっきい子キライなのか?」
言いながら気付いた。
どういうわけか宮添からまともに女の趣味を聞いたことがない。
思い返してみれば、高校の時だって「2組の○○って可愛いよな」「いや、サッカー部のマネージャーの子のがイイだろ」なんて話に乗ってきたことはなかった。
「なんで返事しねンだよ? じゃあ、今夜はそのあたりをじっくりと聞かせてもらおうか」
旅行の開放感に任せて夜通し盛り上がるなら絶対こういう話だ!
……と思ったのに。
「おまえには教えない」
いつにも増して宮添のノリは悪かった。
「なんでだよ? 俺の口が軽いから? それとも普通に照れくさいから? じゃなかったら今好きな子ってのがモロにタイプで、言ったら誰なのかバレるとか?」
宮添の返事は「最後の」で。
だとすれば俺も知ってる子ってことになるわけだが。
「あー、そっか。じゃあ、仕方ないな」
本当は聞きだしたくてうずうずしてたが、表面では納得してみせた。
宮添がその子とうまくいったらちゃんと教えてくれるはず。
それまで大人しく待っていればいい。
そうは思っても、なんだか心の中にヒュルルーとスキマ風が抜けていく。
「つーか、まったく相談もされないってちょっと寂しいよなぁ……」
ついポロッと漏れてしまった本音を聞くと、宮添は急に申し訳なさそうな表情を浮かべて弁解した。
「悪ぃ。けど、そんな顔するなよ。おまえに言っても仕方ねぇとか思ってるわけじゃないし、近いうちにタイミング見計らってちゃんと話すつもりで―――」
そんな言葉もなんだかちょっと必死で。
だから、俺もすぐに機嫌を直した
「だったら、まあいっか。すっげー楽しみ」
ニッカリ笑って顔を上げたら、宮添からはなぜか俺から目を逸らし、やけに重苦しい「ふう」を吐いた。


途中で微妙な会話はあったものの、ゴージャスかつ季節感溢れる夕飯を堪能し、デザートをたいらげる。
「ごちそーさまでした」
幸せを噛み締めながら茶をすすっていると、斜め前に座っていた宮添が壁に目を遣った。
釣られて視線を移すと時計の針はちょうど八時を指していた。
「そろそろ出かけるか」
「あー、先輩と約束あったんだっけ」
待ち合わせは繁華街の外れにあるバー。
いずれは自分の店を持ちたいというその人は、夜間だけそこでバイトをしているのだという。
部屋に戻って適当に服を着込み、「今からそっちに行きます」とメールを入れた後、宮添はちょっとダルそうに携帯をポケットに押し込んだ。
「先生から頼まれた物渡すだけで長居はしないからな」
くれぐれもハメを外すなと釘を刺されたが、俺が飛ばしすぎるのは宮添と二人で飲んでる時だけだから心配はない。
「帰ったらまた風呂入ろーっと」
入浴は夜中の二時までOKだ。
再び温泉を堪能し、髪の毛の先までホカホカになってから寝ようと決めて上着を羽織る。
「今度は宮添も一緒に行くよな?」
せっかくだから風呂でキャッキャするのもいいだろう。
と思ったが。
「無理」
宮添からはまたわけの分からない返事が。
「ムリってなんだよ?」
「そのまんまだ」
「ぜんぜん分かンね」
謎だらけの会話をしながらもサクサクと宿を出て、タクシーで目的地へ。
さすがに温泉地なので途中あちこちで湯気が上がってるのが見えていい感じだった。
「いいよな、日本情緒。温泉、湯上がり、浴衣、巨乳美人、裾チラ、胸チラ」
「ずいぶん妄想優先の日本情緒だな。……着いたぞ」
先に車を降りた宮添の人差し指の先はおよそ湯けむりとは無縁な黒いドア。
『バー』だとは聞いていたが、ウェルカムプレートの中では♂記号が二つ、知恵の輪状態になっている。
「うわ、これってもしかしてそっち系ってこと?」
「そうらしいな」
宮添はわりと涼しい顔をしていたが、未知との遭遇に俺はちょっと後ずさり。
「なー、どうせなら先輩も誘ってむっちりしっとりモチ肌巨乳女子がいるところ行かね?」
せっかくだから温泉効果をフルに活かしたほうがいい。
そんな提案をしてみたが。
「どこにそんな金あるんだよ」
淡い夢は宮添の身も蓋もない一言でさっくりと砕け散った。
「いらっしゃいませ」
さっさと中へ入っていく宮添の背中を眺めつつ、渋々ドアをくぐるとギャルソンエプロンをした男が恭しく出迎える。
正直かなりビビっていたが、中はごく普通のバーで女の客もちらほら見えた。
旅行客か地元のOLかは分からないが、なかなか温泉美肌効果が発揮されている。
「あー、ちょっとお姉さまっぽいけど、かわいくね?」
27くらいまでなら余裕でイケる。
少しはしゃいでそう呟いてみたが、宮添は俺の声などまるっきり聞こえてないかのようにスルーっと無視して店員を呼び止めた。
「宮添と申しますが―――」
先輩の所在を尋ねると、「お待ちしてました」と愛想のいい返事。
宮添だけ事務所に通すように言いつかっているという。
「これ渡してくるだけだ。すぐに戻るから先に軽く飲んでろよ」
「いってらっしゃーい」
明るく見送ったが、一人で酒を飲むのはあんまり楽しくない。
「お客様はこちらへどうぞ」
指し示されたのはテーブル席だったが、待ってる間ずっと話し相手がいないのはつまらないので、カウンターに座らせてもらった。
中でグラスを磨いていたのが俺とあんまり変わらないような年の店員だったからだ。
「お好きなものをどうぞ」
広げられたドリンクメニューはカラフルな写真付き。
宮添のお使いのお駄賃代わりらしく、飲み物は無料だと言われた。
「じゃあ、なんかこのキレイな色のヤツ」
カクテルはあんまり飲むことがないのでよく分からないなと思いながら、真ん中辺りにやや大きめに載っていた水色のグラスを指差す。
アルコールは強めだと書いてあるが、女の子が好きそうな感じだし、たいしたことはないだろう。宮添が戻ってくるまでそれをチビチビと飲んでいればいい。
……と思ってたはずなのに、気がついた時にはバーテンダーの説明を聞きながらメニュー右下に並んだカクテル6種類を制覇していた。
「やべー。宮添が戻る前に酔いそう。つか、帰ってくるの遅ぇーよ」
心の声を口に出してしまった時、右方向からピリッとした視線を感じ、何も考えずにそっちに顔を向けると、三つ間を開けて座っていた男がこっちを見てにっこり笑っていた。
会社員っぽくはないが、だからと言って学生でもなさそうな妙な雰囲気。
フリーターとかそういうヤツかもしれない。
そんなことを考えながらじっと見てしまったせいか、そいつは当然のように席を立つと俺の隣りに腰を下ろした。
「誰かと待ち合わせてんの?」
話し方はわりとソフト。むしろ馴れ馴れしいかも。
「あー……友達と来てて、そいつが用事を済ませるのを待ってるところなんですけど」
ここで働いている先輩に渡すものがあって中に入ったきり戻ってこないんだという説明をしたところ、「それは友達として気を利かせてあげないといけないんじゃないのかな?」というようなニュアンスの答えが返ってきた。
だが、すでにホロ酔い加減だった俺の思考は半眠り状態。
「そんなもんですかねー」と自分でも意味不明の言葉を吐いた後はすっかり停止。
「じゃあ、その友達には彼に伝言をしてもらうとして、これからどうかな?」
そんな言葉もまったく理解不能だった。
とりあえず、そいつが言う『彼』が目の前にいるバーテンダーだってことはなんとなくわかった。俺がそっちに目をやったらグラスを磨きながらにっこりと笑い返されたからだ。
けど。
「あのー、ちょっと聞いていいっすか? 少し酔ってんのか、なんか良くわかってなくて」
とにかく、こいつの言う「これからどう?」について、「何が」「どう」なのかを聞かないことには話が前に進まない……と思った瞬間。
なぜか肩を抱き寄せられ、驚きとともに顔を上げたら目の前にニヤけた口元が。
「ちょ……っ?」
ちょっと待て。
そんな短い全文を言い終える前に迫ってきたのはそいつの唇。
さすがに条件反射で体を引いたのだが。
背もたれがないことをすっかり忘れていた俺は、そのまま椅子から転げ落ちそうになった。
「うあっ」
ヤバイと思いながら目を瞑った時、背中をガシッと支えられた。
まさに間一髪。
「あー……おかえり」
振り返るまでもない。
さすがは宮添、いいタイミングだ。
ちょっと嬉しくなって思いっきり笑いながら顔を向けてみたが。
「何してんだよ、おまえ」
返ってきたのは今まで見たこともないほどムッとした表情だった。



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