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喜怒哀楽のうち「哀」と「怒」はめったに見せない宮添にしては珍しいことだ。
先輩とケンカでもしたんだろうかと思いつつ、
「ちょっと椅子から落ちそうに……」
とりあえず現状をそのまま伝えてみたんだけど。
「んなこと聞いてんじゃねェだろ」
今度はマジで怒られた。
その間、隣の席の男は俺たちの遣り取りをちょっと困った顔で眺めていたけど、やがて控えめな声で「すみません」と謝った後、「彼氏を待ってたなら最初にそう言ってよ」というような呟きを残してフェイドアウトした。
「……ったく」
宮添はそれでもまだ不機嫌で。
「なー、なんで怒ってんだよ?」
そう聞いたらもっと眉を寄せた。
「ちょっと考えれば分かるだろ?」
今までの遣り取りと「彼氏を待っていたなら」の箇所を脳内で何度か反芻し、あまりにヒマそうだった俺にちょっと声をかけてみたんだろうってことだけはなんとか理解できたものの、それが宮添の不機嫌に繋がってるとも思えず。
もちろんいくらこの手の店でも、いきなりキスするのはさすがにちょっとやりすぎなのは確かだけど。
それにしても。
「それって宮添が怒ることじゃなくね?」
椅子から転げ落ちて病院に運び込まれたとかならともかく、まだ何も迷惑になるようなことはしてないはず。
なのに。
「だったら自分で怒れ」
宮添の目は据わったままだ。
「あー……まあ、次やられたら」
「ヤられる前に殴れ」
そう返した時も結構な不機嫌ぶりで、漫画表現ならこめかみにピキッと青筋が立っていたことだろう。
「宮添って意外と暴力的なのなー。いーじゃん、キスくらい。おまえともするしー」
飲んでる時ならナチュラルにしまくるくせにと思いながら何気なく呟いたのだが。
その瞬間、宮添は苦いものでも食べたみたいな微妙な顔をし、背後では突然誰かがプッと噴き出した。
なんで笑われてるんだろうと思いながら振り返ると、待っていたかのように「はじめまして」の挨拶。同時に名刺を差し出された。
どうやらそれが宮添の先輩らしい。
「あー……どーもはじめまして。久乃木です」
銀粉でも振りかけたみたいな紙切れに書かれていたのはまるっきりの源氏名。
ファーストネームだけをさらにニックネーム化し、カタカナ表記したそれは、字面だけでは男なのか女なのか分からない。
旅館の女将の息子だってのが本当なら、少なくとも苗字は磯村のはずだけど……などと考えていたら、目の前の口元が少し緩んだ。
客に対する営業的な笑いではなく、微笑ましいものを見てるような、それでいてどこか呆れているような微妙な雰囲気だった。
「噂通り仲いいんだな。付き合ってどれくらい?」
親しげな口調はいかにも「先輩」って感じだったけど。
「あー、えと、高校で席が斜め後ろでー」
何年来の付き合いかなんてあんまり考えたこともなくて、指を折って数え始めたらまた笑われて。
「そういうことじゃなくて。……マジで天然だな」
その後、「キスするような間柄になってどれくらいなのか」と聞き直されたけど。
「なんでそーなるンすか」
というか、それってどういう間柄だ。
「さっき『キスくらいおまえともするし』って言ってなかった?」
「あー、それはなんていうか、飲み会の罰ゲームで野郎同士のちゅーみたいなノリなんで」
じっくり思い返してみるとそれとも若干違うような気がしたが。
説明するのが面倒だったので、そのままさらっと流してしまった。
先輩は「ああ、そうなの」という軽い返事をした後、今度は宮添に向き直って、
「まだ言ってなかったのか」
そんなナゾの問いかけをした。
「まあ……なんかタイミングが。常にこんな感じなんで」
「確かにちょっとアレだね」
やけにヒソヒソとした遣り取り。チラッチラッと交わされる意味ありげな視線。
なんだか二人だけの世界って感じで、俺だけちょっと仲間はずれだ。
疎外感というヤツは人を寂しくさせる。
でもって、俺はそういうのがかなり苦手だ。
「なー、何の話?」
宮添から返ってきた言葉は「わりィ」と「また今度」で、ますますナゾが深まっただけ。
「『また今度』はともかく、『わりィ』は何だよ? なんかちょっと引っかかるぞ」
自分に関係がないなら考えようとも思わないんだが。
だったらコイツが謝るはずはない。
つまりそれは俺にとってよくないことなんじゃないのかと思ったけど。
「まあ、深く考えるな」
「ちゃんと説明しろー。なんで俺、謝られてンだよー」
大きな声を出すと酒が回る。
そうなると頭は働かない。
「あーもう。わけわかんね。まあ、いっか……明日考えよう。つか、明日教えて?」
いつものことなので宮添は呆れもしなかったが、先輩の視線は微妙に冷たい。
「久乃木君って、みーちゃんが言ってたとおりの能天気キャラなんだな」
俺についての事前説明をしたのが宮添って時点で、ロクな言葉で形容されてないだろうってことくらい簡単に想像できたが。
「なんだよ、どうせバカだよ。ってか、宮添だってバカのくせに。だって俺の友達だぞー? つか、『ミーちゃん』っておかしくね?」
文句を言ってたはずなのに、なんだか急に笑いが止まらなくなった。
「おまえ、笑いすぎだっての。飯田ラボは苗字の最初の二文字にちゃん付けで統一なんだよ。佐藤はサトちゃん、山田はヤマちゃん。俺も最初は『ミヤちゃん』って呼ばれてたけど」
気がついたら『ミーちゃん』になってたってことなんだろう。
「ミーちゃんってムダにかわいくね? 猫かっつーの。つか、『サトちゃん』はオレンジのゾウだっつーの」
あはははと笑い転げたらベシッと頭頂部を引っ叩かれた。
あまりの遠慮のなさにてっきり宮添かと思ったが先輩の手だった。
「この酔っ払いが。宮添、今からでもちょっと考え直せ。他にいくらでもいるだろ?」
モテるんだから、と言いながら薄く開けた口から煙を吐き出す。
服装も見た目も普通の男なのに、そういう仕草がなんだかそっち系のおネエさまっぽい。
この店で働く者として必要な演技なのかもしれないが、それにしてもやけに板についている。
実際どうなのか聞いてみようかとも思ったが、またぶっ叩かれそうなのでやめておく。
「そうだよなー。モテるよなー、宮添。なんで彼女作らないのか地球規模の謎」
いいよなーいいよなーと言い続ける俺に、宮添は「いろいろ事情があるんだ」と答えたけど。
なぜか先輩の手のひらが再び俺の脳天を直撃。
「ンだよ、暴力おカマ」
思わず口にしてからその失礼さに気付いたが、先輩のほうはあっさりしたものだった。
「久乃木君な、キミ、デリカシーなさすぎ。ってか、誰がオカマだ? まあ、実はそうだけど」
そんなことを言う間も俺はペチペチとおでこを叩かれ続け、そろそろ皮膚が赤くなるんじゃないかと思い始めた頃、やっと宮添からのフォローが入った。
「先輩、そのへんでやめといてください。それ、そいつの長所だから」
ちょっと苦笑い。
っていうか、俺と二人でいる時と雰囲気違うぞ、おまえ。
「これのどこが長所? 分かるように説明してくれ」
そういう先輩も苦笑いだ。
もういいじゃん。分からないままでも。どうせ世の中分からないことだらけなんだから……とか俺は思うわけだが、宮添は律儀に説明をしていた。
「常にそんなだから裏表なくて安心するんですよ」
「それって翻訳すると『隅々まで余すところなくおバカちゃん』ってことじゃないのかぁ?」
みんなに言われることだから別にいいけど。
一応俺の話だから反応はしておく。
「どーせバカだよー。否定しねーよー。なンとでも言えよー」
どんなに慣れても多少は拗ねるんだぞ、と言った瞬間、またベチッと引っ叩かれて。
「クダ巻いてるくせに、もう目ェ開いてないし」
カンペキ出来上がってんなと笑い声。
そうか、俺、目開いてないんだな。
どうりでなンにも見えないと思った。
「すみません。じゃあ、ちょっと早いですけど、もうコイツ連れて帰ります。ごちそうさま」
ガタンという椅子の音の後、宮添の手が俺の頬に伸び、無理矢理起こされて。
ついでにそのまま。
「……おま、俺が酔ってると思って、そーゆーこと。つか、外でちゅーとかすンな」
返しながらもなんだかダルくて、おもむろに重力に負ける。
立ち上がりかけたくせに、再びスツールに逆戻り。
その勢いで後ろにひっくり返りそうになって、慌ててブンッと身体を前に持ってきたら、今度は反動で額が机と衝突した。
でも、別に痛くはなかったのでそのまま潰れた。
「すげー酔ってんなぁ」
頭の上から先輩の笑い声。
宮添からはいつもの「ふうぅ」。
「久乃木。タクシーつかまえてくるけど、乗っても寝るなよ。万一寝ちまっても着いたら起きろよ」
抱き上げて運ぶなんて絶対ムリだからなと呆れ声が響く。
だが、眠くて返事ができない。
その間も会話は続く。
しかも、なにやら真面目な声色でひそひそと。
「なあ、みーちゃん」
「何ですか?」
「ノンケの子を騙すようなマネはやめとけよ」
若干の沈黙。
そして、また宮添の「ふう」。
「騙そうとは思ってないですよ。ちゃんと言えないだけで」
俺はもう少しでも気を抜くと夢が通り過ぎるような状態だったが、二人の雰囲気で内容は分かった。
他はダメでもこういう空気だけは読めるのが俺のイイところだと思う。
「あー……もしかして宮添の好きなヤツ知ってンの? コイツ、俺が何回聞いても教えてくンないんだけどさー。っていうか、宮添、そんなすげーマジメな顔でカノジョの話かよー。今日、なんか空気違うぞー」
俺だけ仲間はずれにするなと叫んだ瞬間、低い声が耳を抜けた。
「さっさと帰って大人しく寝ような、酔っ払い君」
そのままペシペシと座ってる尻を叩かれて。
「ンな酔っ払ってねーっつーの」
文句を言いつつ薄目を開けると、ヨロヨロと席を立った。
「じゃ、気をつけて帰れよ」
先輩の手で押さえられたドアの向こうに控えめなネオン。
いや、東京で派手な繁華街の看板に慣れただけで、ホントはこれくらいがちょうどいいのかもしれない。
「夜の街って感じだなー。いいぞいいぞー」
火照った顔に冷たい空気が気持ちいい。
思い切りアクビをしたら、前方から呆れ果てたような視線が。
「いいから早く来い」
いつの間にか宮添がタクシーを拾って待っていた。
開け放したドアから車内に転がり込むと、人の良さそうな運転手のおっさんがちょっと困った顔で俺を見る。
「大丈夫ですか、お客さん」
「ぜんぜん大丈夫。へーきへーき」
力いっぱい『大丈夫』な気持ちを込めて、ふふふんと笑ったら、おっさんの眉がハの字になった。
なんだか微妙な反応だ。
「ちょっと酔っ払ってますけど、車で吐いたりはしないんで」
「ああ、いや、具合悪くないならいいんですよ。あ、こっちの道路今ちょうど工事してるんで迂回しますね」
「お任せします」
「いや、最近なんだかあっちこっちで工事しててねえ、困ったもんですよ。この間も―――」
なかなか人の良さそうなおっちゃんだ。
こういう世間話は俺も結構好きなんだよなと思いながら笑っていたら、すぐ隣でまた宮添の「ふうう」が聞こえた。
「久乃木、着くまで寝るなよ。目ェ瞑ったらキスするからな」
「大丈夫だっーて起きてる起きてる起……きて……ぐー……」
柔らかい感触が唇に広がった瞬間、運転手さんの声がプツリと途切れた。
その替わりのようにラジオの音が流れ始めたけど、旅館に着くまで俺の瞼が開くことはなかった。
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