夏休み。



-1-


今日から夏休み。
閉め忘れたカーテンの向こうはくっきりとした夏の空。
「うおー、まぶしー」
太陽ギラギラの快晴は一歩部屋を出てしまうとかなりうらめしいものだが、部屋の中から見るだけなら夏休み気分を最高に盛り上げるアイテムでしかない。
「天気はどうでもいいから、ちゃんと話を聞け。とりあえずシフトが大丈夫そうかを確認。休みが取れたら車借りる手配して―――」
4、5日バイトを休んで海に行く。
その前提で今日すべきことを俺に言い渡したあと、宮添は例の顔採用カフェへ向かった。
「つっても、バイトは午後からだしなぁ」
などと暢気にあくびをしていたら、わりと仲のいい女子からメールがきた。
『小山先生からの伝言だよ。昨日〆切のレポートが出てないので、単位欲しかったら今日の午前中に研究室来いって』
「……うぉっ?!」
開いた途端に変な叫び声を上げてしまった。
頭から瞬間冷却されたが、どうやら彼女も期限に間に合わなくて今日提出したらしい。
まあ、スッパリ忘れ過ぎてて一行も書いてない俺と一緒にしたら彼女に失礼だけど。
「どうすっかなー」
単位はもちろんだが、これを出さないと来年小山ゼミに入れてもらえないんじゃないだろうか。
学部一甘いと言われる小山以外のゼミで俺が卒業できるとは思えない。
その結論に行き当たるのと同時に携帯とサイフをカバンに突っ込み、全力疾走で大学に行って研究室に転がり込んだ。
「ああ、久乃木君か。ずいぶん慌てて来てくれたんだねえ」
経済学部なのに白衣を着ているちょっと変わったじーちゃん先生は、机に向かって家から持ってきたと思われる弁当を食べていた。
……朝飯にも昼食にも中途半端な時間だけど。
「おはようございます。あのレポートのことなんですが……すみません」
文字通り滝のように汗を流している俺に冷たい麦茶と椅子を勧めて、まったく怒ってはなさそうな笑顔を向ける。
「このへんに住んでるんだろう? まさに『近所の人』って格好だねえ」
慈愛に満ちた先生の目線の先は、短パンとヨレたTシャツ。
のんきそうな笑いの後、空になった自分のグラスにもお茶を足した。
「それで……あの……っ、レポートなんですがっ」
息を切らしたまま本題を急ぐ。
けど、のどが渇きすぎたために言葉が続かなくて、Tシャツの袖で顔の汗を拭きながらグラスの中身を一気飲み。
その間も頭の中は半分パニック状態だった。
何せ一から書くのだ。締め切りを一日二日延ばされたところで間に合うとは思えない。
一週間くらい猶予をもらう策はないものかと考え込んでいたが、良案など思いつくはずもない。
必死の形相だったと思われる俺に、先生が切り出したのはレポートとはぜんぜん関係のない話だった。
「ところでねえ、久乃木君。この張り紙、学生課に持っていってもらえないかな」
何かと思えばバイトの募集だ。
要約すると、『海の近くに別荘があるんだが、半年くらい放置してるので教授が使う日までに掃除を欲しい』という内容だった。
そのへんに放置されているA4のコピー用紙に手書きした、超テキトーな、むしろラクガキのような募集要項。
「もう休みに入っちゃったから、見てくれる人あんまりいないかもしれないんだけどねえ」
業者に頼んでもいいんだけど……と、ちょっと遠い目でポツリと呟く。
そこでやっと、「そうか俺はここに食いつけばいいんだな!」と気付いた。
「掃除なら俺行きますよ。バイト代とか要らないんで……」
先生がわざわざ俺のために用意してくれた交換条件。
ありがたすぎて涙が出そうだ。
「そう? 悪いね。いや、ホントはそう言ってくれるの期待してたんだけど」
その代わりレポートは休み明けに提出でOKということで話はまとまった。
「鍵は近所の人に預けてあるから、そこで受け取って。電気ガス水道は好きに使ってくれていいし、海にでも行くなら好きなだけ泊まっていいよ」
そのあと遠回しに「女の子は連れ込まないように」という主旨の注意を受けたが。
「あ、その心配はまったくありませんから!」
力いっぱい叫んだら「ふははは」と笑われた。
「そうは言っても久乃木君は話しかけやすい雰囲気だしね、本当はもてるんだろう?」
「……だったらいいんですけどねー」
返事の後、無意識で「はあああ」と大きな溜め息を引き摺ってしまった。
その反応が本心であることを人生の達人はすぐに見抜いたようで、「若いからまだまだこれからだよ」と慰めの言葉まで足してくれた。
「海はねえ、歩いてはいけないけど、まあまあ近いし。楽しんでくるといいよ」
車ならのんびり行っても15分はかからないらしい。
そんなにメジャーな場所ではないので、うんざりするほどの人込みに紛れずに済むというのもなかなかイイ感じだ。
「じゃあ、がんばって掃除しますから! ホントにありがとうございます」
何かあったら電話で確認することにし、番号とメールアドレスをやりとりしてから研究室を出た。
問題は。
「……宮添、もう休みの申請してるよなぁ」
すまないと思いつつメールを入れると、幸い「まだしてない」の返事。
ついでに。
『おまえのことだから、すんなり休みに入れるはずはないと思ってた』
そんな言葉がくっついていた。
思い返せば高一、高二の夏休みは赤点で補講、高三の夏休みはさすがに宮添と一緒に予備校だったけど、大学一年の時はケガ、去年は出席が足りなくて追加のレポート&試験。
それを思ったら今年はマシなほうかもしれない。
「というか、毎年宮添に呆れられてンな、俺」
まあ、とにかく。
海に行くのにはちょうどいい。
宿泊費はタダだし、掃除は宮添も手伝ってくれるだろうし。
これでもう隅々までキレイになることは保証されたようなもんだ。


休みを合わせたのは8月初旬の4日間。
初日はまるまる掃除や庭の草むしりで潰れるだろうけど、あとは自由だ。
布団や着替えを持っていくのでレンタカーを手配するつもりだったが、金がもったいないという理由で宮添の実家のを借りることになった。
「どうせ平日は誰も乗らないからな」
俺が運転して人んちの車に万が一のことがあっては大変なので、またしても宮添に任せることになるのが残念だが、まあ、しかたない。
「俺、教習所の先生に『うまいねえ』ってほめられてたんだけどなー」
披露できないのが残念だとつぶやくと、宮添に鼻で笑われた。
「こんな夏休みの真っ只中に、おまえが落ち着いてハンドル握れるとは思えねェな」
『はしゃいでる時はダメだ』って意味なら、遊びに行く時は漏れなく運転できないってことになるが。
まあ、その点についてはまた改めて考えることにしよう。
今はとにかく夏休みを満喫するのだ。



そして、いざ海へ!
……というその日。
天気は最高に良くて、気分も盛り上がりまくり。
宮添の三白眼の兄がこの間まで乗っていたという車の助手席でふんぞりかえりつつ大はしゃぎ。
ガンガンに冷房を入れて、音楽を流して、時々宮添に話しかける。
「なーなー、宮添。そういえばおまえ、休みの前の日かなんかに『明日とつぜん彼女ができるかも』って言ってなかったか?」
そうだ。あれはどうなったんだ?
いかにも女の子からの誘いですって感じの電話とか、意味深な発言とか。
あれだけ俺を心配させといて、そういうものがすべてすっかりなかったような今の態度は何だ?
体を起こして運転席を覗き込むと宮添がちょっと困った顔をした。
「あれは……おまえの話だろ」
何をどう繋げるとそうなるのか、まったくもってさっぱりわからん。
「なんで俺だよ?」
「北畠さんに何か言われなかったか?」
「なんかって……」
立ち話をしたことは覚えていたが、内容なんてすっかり忘れてた。
「夏休みは実家に帰るとかバイトするとかっていう普通の世間話だったような気がするンだけど」
うーん、と首を傾げる俺に宮添が言ったセリフは「だからおまえはダメなんだ」。
それから。
「まあ、俺には好都合だけどな」
そう付け足すのも忘れなかった。
あの夜、宮添がベランダで受けた電話は、北畠さんの友達から。
彼女が俺に告白してうまくいったら、4人でどこかへ行かないかという誘いだったらしい。
「で、宮添はなんて答えたんだ?」
「……別に。『行かねェ』って、それだけ」
いつものことながらひどいヤツだ。
と思ったんだけど。
「久乃木が鈍いせいだろ」
何故かこっちに八つ当たり。
「なんで俺のせいだよ?」
ちゃんと説明しやがれと思った次の瞬間。
「俺は自分のことでいっぱいいっぱいだったんだよ」
それくらい分かれと言われてしまった。
「あー……」
そういえば宮添が俺を高校に呼び出した前の日のことだ。
そりゃあ、人のことなんて気にしてる場合じゃないか。

あのあと、少なくとも表面的には何も変わらなかった。
けど、電車の待ち時間や一人で飯を食ってる時、ぼんやりテレビを見てる時なんかにふと考えてしまう。
こんなにもてるくせになんで俺なんだろう、とか。
告白するのにはどれくらいの勇気が必要だったんだろう、とか。
あとは、俺に「好きだ」って言うくらいでそんなに悩まなくてもよかったのに、とか。
まあ、そんなことだ。
「久乃木、何にもないとこジッと見つめるのはやめろ。顔がマヌケすぎて怖ェよ」
「わり。ちょっと考えごと」
「例のレポートか? 資料は揃ったのかよ?」
「おー。センセに借りた」
「さすが小山だな。デキの悪い奴に甘すぎる」
あれから数日。
ときどき思い出して、あれこれ考えて。
ようやく「好きだ」と言われたことが現実味を帯びてきた。
ついでに。
「んで、布団はさすがに借りるのも悪いし、一応一組だけ持ってきたからな」
「あー? あー……あー……そうだよな」
なんとなく、いろんなことを意識しはじめてしまったような気がする。



目的地に付いたのは約束の時間ぴったりの午後1時。
鍵を渡すために家の前で待っていたのは人の良さそうなおばちゃん、というか、おばーちゃん。
聞けば小山先生の妹らしい。言われてみると顔が似ている気がする。
定期的に掃除をしているし、先日ダニ退治の薬剤を噴射したばかりなので畳も大丈夫とか、そんな説明の後に足を踏み入れた家は実際ものすごくきれいだった。
「絵に描いたような日本家屋だな」
珍しいものでも見るようにあちこち観察する宮添を「都会の子なのね」とばーちゃんが笑っていた。
「二階は洋間なのよ」
「へー」
「つか、掃除する必要なさそうなほどきれいっすね」
「そうねえ……でも、お布団だけ干してちょうだいね。取り込んだらそこの部屋に広げて陰干しして。あとは草むしりかしらね」
確かに庭は結構すごいことになっていた。
雑草が青々と茂りまくり。
ときどきピョンと飛び出すのはバッタかなんかだろう。
庭木もあるのであちこちからセミの声。夜には虫の音も聞こえるに違いない。
虫取り用の網とかカゴとか、そういうものが無性に欲しくなった。
「ごめんなさいね。年を取ったせいでどうしてもかがんで草取りっていうのがね」
そんなことはぜんぜんOKなんだけど。
「ばーちゃん、俺、雑草とそうじゃないのの区別がつきません」
自慢じゃないがマンション育ちなのでまったく分からない。
祖父母の家はそこそこ田舎だが、庭の草など抜いたこともない。
そんなわけで、いきなり不安になったのだが。
「いいのよ。適当で」
「……そうですか」
さすがは小山センセの妹。性格まで良く似ていた。
とりあえず庭の中心部分、特に物干しの下とその周辺は間違いなく雑草なので抜いていいってことに。
「長袖着たほうがいいわねえ。蚊に刺されるから」
などと言いつつ、俺らに作業着のようなシャツと軍手と小さなスコップなどを渡す。
おそらくはこうして掃除要員となる学生に毎年貸し与えている作業セットなんだろう。ただならぬ手際の良さだった。
肌が出ている部分には虫除けスプレーを噴射しまくり、携帯虫除けを腰からぶら下げ、うだるような暑さの中、濡らしたタオルを頭に巻いてせっせと草を抜く。
「あちー」
ときどき庭の片隅にある水道へ。
顔を洗い、頭上のタオルをしめらせるためだ。
「なんかカッパになったみてー」
そう言ったら、縁側の拭き掃除をしていたばーちゃんが「この辺にはいないわねえ」って笑い、少し離れたところでは「どこにならいるのか聞いてみたいもんだ」と宮添が小さな声でつぶやいていた。
こうして、巨乳ビキニにデレデレしまくるはずの俺の夏休みは、なんだかやけにアットホームな雰囲気で始まったのだった。



Home   ■Novels   ■easy MENU     << Back     Next >>