その後の生活は想像したよりもずっと快適だった。
マンションに置いてあった女の持ち物も翌日にはすっかり片付けられて俺専用の部屋になり、高校生にしては多すぎるほどの小遣いを渡されて金に困ることもなかった。
おそらくは何人も愛人がいたであろう十河がそれほど頻繁に訪ねてくるはずもなく、放し飼い同然だったこともあって、不自由を感じることはなかった。
ただ一つ、ベッドでの扱いだけは本当に酷くて、体が慣れるまで何度も医者の世話になったことを除けば。


俺が刺し殺すはずだった父親の元には使いが行った。
どんなに卑怯なことをしていても世間体だけは気にするような男だから、このまま俺が戻らなければ警察に捜索願いを出すだろう。場合によっては十河に迷惑がかかるかもしれない。それだけは避けたいのだと話したら、意外にも十河のほうで手を回したのだ。
使いはごく普通のスーツ姿だったらしいが、どんなに表面を取り繕っても体に染み付いたものは滲み出てしまうのだろう。
「そういう事情でご子息の身柄を預かることになった」と伝えただけなのに、父親も愛人も蒼白になって震えていたらしい。
その後は二つ返事。
警察に届けることもなく、そのまま俺を厄介払いした。

「エリート会社員が聞いて呆れるな」
報告に来た男の話が終わるのを待たずに、十河は心底馬鹿にしたような顔で吐き捨てた。
そして、高校で使うもの以外は着替えさえ持ってこなかったことを知ると、その日のうちに衣類から日用品から必要なもの全てを買い与えた。
「ヤクザの愛人ってすごいんだな」
部屋に運び込まれた品物を見てさすがに目を丸くしたが、十河はまた呆れ顔で、「安上がりな奴だな」と言っただけだった。

それからは、まるで生まれた時からこうしているように。
あるいは、ここへ来た時から突然人生が始まったみたいに。
そんな顔で暮らしていくことになった。
十河は気が向けばふらりとマンションにやってきて俺を抱いたけれど、だからといってつぎ込んだ金に見合った奉仕など要求することもなかった。


羽成が来たのは、そんな生活を始めてしばらく経った頃だった。
「何かあればこいつに言うといい」
表向きは十河への連絡係ということになっていたが、すでに周辺はあまり良い状況ではなかったんだろう。
夜の外出には必ず同行させるようにと指示があった。
紹介された羽成はそれ以上ないほどの仏頂面で、ほんの少しも俺の顔など見なかった。
けれど、最初に会った時に俺を逃がそうとしてくれたことを覚えていたから、少なくとも自分にとっては良い相手だという印象は変わらなかった。
「あの時はどうも」
一応礼のつもりだったが、羽成はわざとらしいほどの無反応。
どうやら自分は歓迎されていないらしいということを察するには十分な態度だった。
「何だ、知り合いか？」
「俺が最初にここへ連れてこられた時、車を運転してた」
明るい場所で見る羽成は俺が思っていたよりもずっと若かった。
二十歳すぎとか、そんな年齢。
「なんか、デカイよね」
少しでも取っ掛かりをと思ってそんなことを言ってみたが、羽成は明らかに俺を良く思っていない様子で、
「あまり面倒はかけないでください」
挨拶も抜きにいきなりそんな言葉を突きつけた。
丁寧な口調とは裏腹な徹底した無愛想ぶり。
嫌なら連絡係など断ればいいのに、と思わなくもなかったけれど。
俺もまだ多少の無邪気は残していた頃。
「じゃあ、今からどっか遊びにいこう。車出せよ」
仏頂面の男を堂々と誘って、即座に十河から仕置きを食らった。


残っているのはそんな遣り取りと、鮮やかなようでどこか曖昧な記憶だけ。
その頃の羽成は、帰りが遅くなるとどこからともなく現れて俺を連れ帰る口数の少ない男でしかなかった。




与えられたマンションには十河の他にも顔を出す人間はたくさんいた。
いかにもなヤクザばかりだったが、十河の命じた仕事だったせいか誰もが比較的丁重な態度で俺に接した。
ただ一人、羽成を除いては。

「な、羽成ってなんで俺を嫌ってるんだろう？」
十河に言いつけられて部屋の点検に来ていた若い男に聞いてみると、「ああ」と頷きながらも首を傾げた。
「羽成さんは若いけど社長の側近の一人だからな。いきなり男の愛人囲ったってのが気に入らないんじゃねえの？」
しかも相手は子供だしな、と笑いながら頭を撫でられ、少々ムッとしながら昨日羽成が置いていった俺用の携帯を見遣った。
「そんなくだらない理由かな」
「ああ見えて社長に心酔してるって噂だから。実際、どんなメチャクチャな指示でも文句ひとつ言わないし」
「ふうん」
だから俺の迎えも引き受けたのか、と妙に納得すると同時に落胆に似た気持ちを味わった。
「まあ、とにかくこれからは学校も羽成さんが迎えにいくらしいから、揉め事起こしたりすんなよ」
傍から見ても俺と羽成の相性は最悪に見えるらしく、言葉の端々からそれが窺える。
「俺は別に嫌ってないけどね」
向こうが勝手に険悪にしてるんだ、と言い訳をしながらも、本心は何を考えているか分からないあの男が少し苦手だった。
「ここだけの話、羽成さんは誰にでも冷たいカンジだよ。なんか変に凄みがあるし、俺らみたいな下っ端はみんなちょっと近寄りがたいって思ってる」
十河はそこが気に入っているんだろう、という男の説明を聞きながら、小さく溜め息をつく。
「まあ、俺だけじゃないんなら別にいいか」
そう答えてはみたものの、本当は自分だけが特別に嫌悪されていることも分かっていた。
実際、何度顔を合わせても羽成は終始仏頂面で、わざと険悪な空気を流しているとしか思えなかった。
「そんなに嫌なら断ればいいのにな」
送り迎えくらい誰でも構わないのだ。
立場上、羽成から言い出せないというなら、こちらから十河に頼めばいいだけのこと。
そう思いながら十河の来訪を待ったが、こういう時に限ってなかなか顔を出さない。ようやく訪ねてきたと思ったら、その夜は過去最悪の機嫌で、しかも手がつけられないほど酔っていた。
「なんか嫌なことでもあったのかよ？」
心配したつもりの言葉が逆に十河の神経を逆撫でしたことに気付いたのは、乱暴にベッドに投げ出された後。
この分だと明日は医者の世話になるのだろうと覚悟を決めたが、後に続いたのは予想外の言葉だった。
「今夜は羽成におまえの相手をさせよう」
嬉しいだろう、と聞かれて耳を疑った。
「奴が来たら、『抱いてくれ』と頼むんだ」
笑いながら見下ろす目には狂気に似た何かが見え隠れしていて、背筋に言いようのない寒気が走った。
「何わけの分かんないこと―――」
思わず呟いた瞬間、ピシャリと頬を叩かれた。
「いいな？」
冷淡な声で念を押し、俺の返事を待たずに携帯で羽成を呼びつけた。


駐車場にでもいたのか、羽成は五分ほどで顔を出した。
「お呼びですか？」
「用があるのはコイツだ」
ベッドに腰かけたままムッとしていた俺を目線で指し示す。
十河の機嫌は本当に最悪なんだろう。
ピリッと音を立てて空気が緊張していくのが分かった。
言われたとおりにしなければ、医者どころか葬儀屋の世話になりそうな気配さえ漂っていた。
なのに、どうしても従うことができなくて、口を閉ざしたままプイッと顔を横に向けた。
「どうした？ 自分の口から『抱いて欲しい』と言うのが嫌か？」
また容赦なくピシャリと平手が飛んできた。
「……嫌だ」
それが羞恥心なのかは自分でも分からなかった。
ただ、今まで味わったことのないほどいたたまれない気持ちをかみ締めていた。
「あまり俺を怒らせるなよ」
反対側の頬に赤い手形がつけられた後も口を閉ざしたきりの俺に焦れて、十河はまた手を振り上げた。
けれど。
「―――お断りします」
ドアの方から響いてきたのは羽成の声。
いつもと変わりなく落ち着いていた。
「おまえから拒否するとは珍しいこともあるものだな」
十河の口元がわずかに歪み、冷ややかな視線が羽成を見据えた。
「理由は？」
「子供には興味がありませんので」
「女ならどうだ？」
薄笑いの交じった問い。
これ以上怒らせたらどうなるのか、俺には予想もつかなかった。
羽成も同じ事を思ったのかもしれない。
「それがご命令なら」
あっさりと承諾の言葉を返した。
十河は一度頷いた後、サイドテーブルの電話を手に取った。
「柿田、事務所に金を受け取りにきた女をすぐここに寄越せ」
一分もしないうちに連れてこられた女は水商売風の派手な格好をしていたけれど、その顔はいつだったかテレビで見た記憶があった。
「今夜はこいつの相手をしろ。終わったら金を渡す」
目線で示されたのは隣室への入口。
十河が書斎として使っている、デスクとソファしかないような場所だった。
「羽成」
「はい」
「ドアは開けておけ」
羽成は十河の命に逆らうことはない。
周囲の人間は皆そう言っていたし、それは今夜も例外ではなかった。

俺が座っていたベッドからはソファもデスクも見えなかったけれど、中の様子は手に取るようにわかった。
女の喘ぎと嬌声と、衣服が擦れ合う音まで全て聞こえ、生々しい空気がこちらまで流れてくるようだった。
十河はしばらく笑いながらドアの方を見ていたけれど。
やがて乱暴に俺を抱き寄せ、無理矢理服を剥ぎ取った。
「どうした？ 今夜はやけに泣くな。何が気に入らない？」
十河が何を思ってこんなことをしたのかなんて俺に分かるはずもなく、ただ泣きながら首を振った。



やがて隣りが静かになると、十河はすぐに羽成を呼びつけた。
「女を事務所に連れていけ。それと」
ネクタイを置いていけと言われ、羽成はまだ結びかけのそれをスルリと襟から抜き取った。
シャツのボタンは二つほど外れていて、覗いたのは口紅のついた胸元。
その途端、吐き気に似た不快感がこみ上げ、そこから目を背けた。
「女の抱き心地はどうだ？ 欲しければくれてやるぞ」
そんな言葉にも羽成は何ひとつ返さず、すぐに隣の部屋に戻るとドアを半分だけ閉め、そのまま彼女を連れて事務所に戻っていった。


人の気配がすっかり消えると、十河は口の端で笑いながら煙草に火をつけた。
「まったく尻の軽い女だ」
もとは十河の愛人だったのだろう。
そんな呟きを聞きながら、少し前に話題になった舞台女優だということを思い出した。
「拒む気があるだけおまえの方がマシだな」
命じられれば誰とでも寝る女など抱く気にもならない、と。
吐き捨てるように言ったけれど。
本当は俺だって何も違わない。
もしもあの時、羽成が承諾していたなら―――

そんなことを考えた時、半開きのドアの向こうを横切った女の背中が思い出され、自分と重なった瞬間また嘔吐がこみ上げた。


そのあと羽成のネクタイは俺の手首を縛る道具になったが、予想に反してそれほど酷い扱いはされなかった。
来た時とは打って変わって十河の機嫌は良くなり、「欲しいものがあったら買ってやる」という言葉も出たほどだったけれど。
「……別に……何も」
頭の中はまだ淀んだ空白に占領されていて、現実的なことは何一つ考えられなかった。

その時、脳裏に浮かんでいたのは、はだけた胸元についた口紅とネクタイを解いた羽成の指。
曖昧で、ひどく淫靡な残像だった。