しばらくすると、十河の周辺は少し物騒になり、学校の帰りまで迎えの車が来ることが多くなった。
「そこまでしなくていいのに」
愛人なんて使い捨てだろうと思っていた俺にとってその待遇は少し意外で窮屈にさえ感じたが、万が一のことがあって足手まといになるのも嫌だったから、文句を言いながらも大人しく従った。
「このままだと、そのうち夜遊びだけじゃなく昼間の一人歩きも禁止されそうだな」
だったら今のうちに自由を満喫しておいたほうがいい。
そんな理由で午後から学校をサボった。
とは言っても昼間の繁華街に高校の制服は目立つ。
サボり場所に選んだのは裏門から徒歩十分の距離にある河原。
日当たりも見晴らしも良く、自宅で暮らしていた頃からの気に入りの場所だった。
心地よい風に誘われるように土手を歩き、犬が散歩に来るような賑やかな場所を避けて若干足場の悪い傾斜に寝転ぶと空を仰ぐ。
「たまにはこういうのも悪くないな」
一人きりだからそれほど目立つこともない。
十河の部下だって、まさか俺がこんなところにいるとは思わないだろう。
遠慮なく投げ出した手足が気持ちよくて、大きな欠伸が出た。
目に染みるほど鮮やかだった青が夕刻の色に近づいていくのを感じながら、そのままゆっくりと眠り落ちた。
やわらかな草の匂い、時折り吹き抜ける風。
いつもならすっかり日が落ちるまで死んだように眠っているのに。
近づいてくる人の気配に意識が戻った。
「……なんで迎えにきたんだ?」
まどろみを失うのが惜しくて、目を閉じたまま問いかけた。
煙草さえ滅多に吸わないのに、不思議と側にいることが分かる。
羽成はそういう奴だった。
「今夜はホテルにお泊まりください。向こうは少しゴタついていますので」
無愛想な声が手短に事情を伝える。
何があったのかを尋ねたところで、部外者である俺に教えるはずなどなかったが、さほどの興味もなかったので軽く流した。
「ふうん」
大きく伸びをしながら気のない返事をし、そのあとでふと思い当たって少し落胆した。
「……ってことは、今日からもう夜遊びはナシか」
だったら昼寝なんてしてるんじゃなかったと後悔しながら羽成を見上げると、いくぶん呆れたような表情が飛び込んできた。
愛人なんて気楽なもんだ。そんな心情なのだろう。
当然といえば当然。
だが、相手が羽成だと思うと意味もなく突っかかってしまう。
「何だよ、その顔。俺が十河を心配してどうにかなるものなら、いくらでもしてやるよ。だいたい『愛人なんて部外者なんだから』って思ってるのはおまえらの方だろう?」
だが、刺々しく吐き捨てた言葉にも顔色一つ変えず、羽成は淡々とした口調を返す。
「実際、貴方は部外者ですから」
こうなるともう、俺を苛立たせるためにやっているとしか思えない。
ついつい険悪になるのだって、こいつの態度がこんなだからだ。
「だったら、俺のことなんて放っておいて、おまえはさっさと十河のところへ行けよ。あいつにくっついてるのが本来の仕事なんだろ?」
俺が来る前、羽成は片時も離れず十河の傍らにいたと聞いた。
文字通り、朝から晩までずっとだ。
けれど、俺の監視役を第一に命じられてからはずっとこんな状態。
羽成の不満も溜まっていたのだろう。
「今夜はこちらで護衛をと言われています」
落ち着いた口調とは裏腹にその表情には不機嫌が透けて見えた。
「子供の相手なんて不本意だって顔だな」
苛立ちにまぎれて適当に投げつけた言葉だったが、それは図星だったらしい。
羽成がそれを肯定することはなかったが、その後は俺との会話を打ち切って道路に視線を投げた。
「車までご案内します」
面倒なことは切り捨てて終わり。
「俺、最近『慇懃無礼』って言葉を覚えたんだけど」
話しかければ「そうですか」程度の短い返事はする。
なのに、少しも俺の顔を見ない。
そんな態度がまたカチンと来る。
俺がここで逃げ出したらどうなるだろう。
一瞬、そんなことも考えたが、どうせすぐに掴まるだろうと思ってやめにした。
それにしても。
「まるっきりヤクザに誘拐される高校生だな」
口の中で小さく呟きながら、視界を塞ぐ背中を見遣る。
スーツ姿でも絶対サラリーマンに見えないというのがこの世界の連中の特徴だが、羽成も決して例外ではない。
どんなに丁寧な言葉で話しても「腰が低い」という状態から程遠いのも事実だ。
「こちらに」
開けられたドアから面倒くさそうに車に乗り込むと、すぐにシートの真ん中に追いやられた。 「出してくれ」
白手袋の運転手が「かしこまりました」と馬鹿丁寧な返事をした後、車はゆっくりと滑り出した。
後部座席の車道側に羽成、歩道側にもう少し下っ端の部下、真ん中に俺。
息が詰まりそうな狭苦しい状態で目的地まで揺られているしかなかった。
「おまえら、そうでなくても体がデカイのに……ったく」
流れる風景を見送りながら、わざとうんざりしたように溜め息をついた。
車が止まったのは都心のホテル。
やけに広い部屋には護衛と思われる男が二人待っていた。
「ずいぶん大げさだな。『俺って何様?』って感じだ」
しばらくはここで暮らせということなのだろう。
着替えも日用品も新しく買い揃えたものが用意されていた。
「できれば放っておいてもらいたいんだけど……って言ったら、一人にしてもらえるのか?」
尋ねてみたが、羽成は何の遠慮もなく「無理ですね」と突き放した。
「退屈で呼吸困難になりそうだな。俺はいつまでこんな状態で飼われてなきゃならないんだ?」
ストレートに文句を言ってみたが、返事はさらに俺の気分を逆撫でするものだった。
「ここが嫌ならお父上のいらっしゃるご自宅までお送りしますが?」
俺が何よりも自分の家を嫌っているのを承知のうえでそう尋ねた後、涼しい顔でこれからの予定を言い渡した。
「しばらくは外へ出ないようにとのことです。高校へも数日休む旨連絡を入れてください。それから―――」
事務的な口調で続けられる禁止事項が一つ増えるたびに俺の中の苛立ちは膨らんでいき、気がつくとその声を遮っていた。
「あー、はいはい。つまり『いいって言われるまでここで大人しくしてろ』ってことだろ?
分かったから、おまえはもうどこでも好きなところへ行けよ」
話し相手もしてくれないヤツなんてここに居る意味がない。
厭味を付け足してみたが、羽成からは何の返事もなかった。
その後は会話らしい会話もなく、ただ重苦しい沈黙が流れるだけ。それでも羽成は一晩中部屋の片隅に置かれた椅子に座っていた。
俺が眠った後も、多分ずっとそうしていた。
そのままホテルで五日を過ごした。
周囲の空気はいくらか緩み始め、護衛のため交代で来ていた下っ端連中もホッとした表情で事務所に戻っていった。
羽成は頻繁に事務所と連絡を取っていたが、相変わらず何一つ知らせようとはせず、それどころか自分から俺に話しかけることさえなかった。
四六時中側にいるくせに、こちらの存在はまったくの無視。
その事実は思った以上に俺の気分を逆撫でした。
「今夜はおまえだけなのか? だったら、退屈だから話し相手しろよ」
そうでなくてもむやみに広い部屋。
二人だけしかいない場所でお互いが終始無言というのはかなり奇妙に思えたのだ。
とは言っても共通の話題などない。
「足揉んで。髪梳かして。爪切って」
その代わりのように思いつく限りの世話を言いつけた。
学校まで俺を迎えにくるのさえ嫌々やっているのだから、そのうちにキレて投げ出すだろう。その時が見物だ。
俺にしてみれば、退屈しのぎの軽い興味にすぎなかった。
だが。
「自分の仕事は十河の指示に従うことで、貴方の面倒を見ることではありません」
案の定、羽成からは露骨に不機嫌な返事があった。
「あ、そう。なら、何にもしなくていいけど」
それでも今は俺をここに留めておくのがコイツの仕事だ。
「じゃ、遊びにいこうかな。ついてくるなよ」
放り出してあった上着を掴んでドアに向かうと、大きな体が行く手を遮る。
「外出は許可しないと申し上げたはずです」
剥き出しの感情が肌を刺し、互いの目線が空を切る。
体格差はもちろん、日頃から鍛えているはずの羽成を押しのけて出ていくことはまず不可能だ。
考えるまでもなく達した結論に、俺は素直に踵を返した。
「だったら大人しく部屋にいるから、ベッドまで水持ってこいよ」
駄々っ子のような物言いで背を向ける。
羽成もそれくらいなら、と思ったんだろう。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すとグラスに注ぎ、俺が踏ん反り返っているベッドまで運んできた。
「飲んだら休んでください」
互いにうんざりしているのは分かっていた。
これ以上の悪ふざけが良くないことも。
けれど、その夜の俺はどうかしていて、波風を立てなければ気がすまなかった。
手を後ろについたまま、わざとらしいほどニッコリ笑ってグラスを持った男を見上げる。
「口移しで飲ませてくれよ。してくれないなら、屋上から飛び降りる」
無論、羽成はそんな脅しに動じたりしなかった。
「客が屋上に出ることはできません」
軽く流すと俺の手を掴んで無理矢理グラスを握らせた。
「あ、そう」
虫の居所はもはや最悪だった。
本当は羽成が何と答えようが面白くはなかったのだと思う。
「じゃあ、今度十河が来たら、『羽成に無理やり犯られそうになった』って言いつける。今夜はおまえ一人だけだから、無実を証明するヤツもいないしな」
羽成を見据えたまま、笑って吐き捨てた言葉。
けれど。
次の瞬間にはもう羽成の右手は俺の首にかかっていた。
水の入ったグラスがテーブルに当たって鈍い音を立て、床に落ちるとクルクルと転がってあたりを濡らした。
その間も大きな手は俺の咽喉を締め付け、呼吸を奪う。
見下ろしていたのは怒りに満ちた目。
けれど、その口が感情を吐き出すことはなかった。
「……っ、離……せ……っ」
口を開けても声は出ない。
そして、どんなにもがいても、押さえつけられた体はピクリとも動かなかった。
このまま死ぬんだろうか―――
ぼんやりとそんなことを考えながら目を閉じたけれど。
それさえ怖いとは思わなかった。
羽成を止めたのは柿田だった。
今夜は俺と羽成の二人しか部屋に残っていないと聞いて様子を見にきたのだ。
「何やってんだ!?」
青ざめた顔でその手を首から引き剥がし、羽成をドアの前まで押し戻した。
それから、呆然と天井を仰いでいる俺に「このことは社長には黙っててくれ」と頭を下げた。
俺は返事をしなかった。
聞こえていたはずの羽成も何も言わなかった。
その日の深夜、フラリと現れた十河は上機嫌だったが、俺の首に残った爪痕に気付くと態度を豹変させた。
「どこかで喧嘩でもしてきたか? 外へは出るなと言ったはずだが」
あまりにも急で、俺には心の準備も適当な嘘も用意できていなかった。
「さっきちょっと……でも、別にたいしたことじゃ……」
明らかにうろたえる俺を柿田が青ざめた顔で見ていた。
なんとかこの場を取り繕わなければと焦ったが、気ばかりが急いて何ひとつ浮かんでこない。
「それよりも社長、先ほど―――」
柿田が慌てて話を逸らそうとしたが、十河が振り向くより早く、羽成がその正面に立った。
それから、なんの感情もなさそうな声で「自分が首を絞めた」と告げた。
「おまえが?」
「そうです」
答えた瞬間、十河は思い切り羽成を殴りつけた。
その後は音を聞きつけた駆け込んできた護衛さえ近寄ろうとしないほどの酷い光景が待っていた。
「待って、違うんだ、俺が―――」
羽成は少しも抵抗しなかった。
そして、俺がどんなに叫んでも十河の手が止まることはなかった。
十河の息が上がって、水を取りにいった時、やっと本当のことを話せたけれど。
その代わりに俺は過去最悪の扱いで組み敷かれ、翌朝、打撲と高熱により病院に運ばれた。
その日から、羽成はパッタリと姿を現さなくなった。
死んだのかもしれない。
漠然とそう思った。
動けなくなるまで殴られて、部屋から引きずり出されたところまでは自分の目で確認していたが、そのあと羽成がどうなったのかを教えてくれる者はいなかった。
もしそうなら、殺したのは自分。
羽成の代わりとして俺に付けられた男を見ながら後悔に苛まれた。
「羽成は死んだのか?」
ようやくそんな言葉を口にできたのは、半年以上経ったあと。
けれど、護衛の男も運転手も少し気まずそうな顔をするだけで、誰一人答えてはくれなかった。
そのまま忘れてしまおうと思った。
けれど、どうしてもそれができなかった。
さらに数ヶ月の後。
気がつくと十河に同じ質問を投げかけていた。
怒るだろうと思っていたのに。
「気になるか?」
十河は静かに視線を落とし、タバコの煙を燻らせながら薄く笑った。
ここのところ三日とあけずにマンションに顔を出し、俺を抱いていた。
気に入られているという自惚れがなければ、そんな問いも吐き出すことはなかったかもしれない。
「……まあね」
何故今になってこれほど気になるのか、自分でも分からなかったけれど。
陥れたのは俺なのだから、結末まで知る権利があるはずだ、と。
そんな理屈で答えを求めた。
十河はしばらくの間何も言わずに煙だけを吐き出していたが、やがてさらに意地の悪い笑いを見せて俺に問い返した。
「死んだ、と言ったらどうする?」
その時こちらを見ていたのは、何かを試すような目。
「……別に」
実際、それを聞いても悲しいという気持ちは湧かなかった。
その代わりに体の中心部にぽっかり大きな穴が空いたような錯覚に襲われていた。
「いつか後悔すると思うか?」
何年も経ってあの日のことを思い出したら、自分は苦しむだろうか。
それとも、その頃にはもう慣れ切ってどうとも思わなくなっているのだろうか。
「……どうなのかな」
ぼんやりとそう漏らした俺に、十河はふっと笑って。
それから、どこか諦めたような口調で言った。
「おまえがそんなに羽成を気に入ってたとはな」
その言葉に十河の目にも俺たちが険悪そうに映っていたことが窺えた。
だったら、どうして羽成を俺につけていたのだろう。
どうしてあのまま放っておいたのだろう。
腑に落ちないものを抱えたまま、それでも会話を続けた。
「……気に入ってたとか、そういうんじゃなくて……あれが原因で死んだかもしれないって思ったら、誰でも同じこと聞くだろ?」
そう告げる間も、十河は薄く笑っていたけれど。
「ならば、明日から羽成をここに戻してやってもいい」
後からポツリとそんな言葉を呟いた。
その時にはもう十河の視線は俺から外されていたけど。
意味ありげに緩む口元に、全て見透かされているような気がした。
「……生きてるのか?」
「ああ、そうだ」
嬉しいか、と問われたその時。
俺は「多分」と答えることしかできなかった。
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