そんな日々を過ごすうち、いつの間にか十河は俺にとって居て当たり前の存在になった。
最初の頃が嘘のように。
そして、うっかり気を抜くと、家族か恋人のような感覚にさえ陥ってしまうほどに。
相変わらず自分の中には整理し切れていないものがごちゃごちゃと山積みになっていたけれど、それを抱えたままでも別に困りはしないということも分かりはじめていた。
与えられた部屋はもうすっかり自分の城となり、居場所があるという安心感が精神的な安定に変わっていった。
気がつくと、羽成との間にも以前のような険悪な空気はなくなっていた。
いつだったか、十河の盟友と名乗る男がフラリと事務所に現れたことがあった。
「ああ、君が例の……十河社長の幸運の鍵か」
村岡というその男は、俺の顔を見るなりそんなことを言った。
ヤクザがたむろする場所で高校の制服姿では嫌でも目に付いたのだろう。
「ずいぶんといい学校に行っているんだな。さほど勉強しなくても付属でそこそこなら進学は容易いって理由で遊び呆けてるってわけか?」
後から聞いた話では、村岡は代議士の私設秘書か何かで、十河とは個人的な知り合いらしかったが、盟友と呼べるほどの間柄だったのかは疑わしい。
何にしても、外面と腹の中がまったく違う上、権力には媚び、格下の者は虫けら同然の扱いをする、そんな最低部類の人間には違いなかった。
「ここじゃ随分な待遇らしいが、所詮は愛人なんだろう? だったら、主人の友人くらい愛想良くもてなしたらどうだ。それとも、主人以外の男には茶さえ出すことを禁じられているのか?」
十河が事務所に来るのは、早くても一時間以上あと。
ネクタイを緩めてボタンを外していた胸元に男の舐めまわすような視線を感じたが、事務所に控えている連中はそれを承知で顔を背けていた。
「……いいえ」
周囲の態度からしても特別な客だということは察しがついたものの、自分がどうすべきなのか、断ったらどうなるのかは見当もつかない。
それでもとりあえず茶くらいは出しておこうかと立ち上がりかけた時、客の後ろで電話をしていた羽成がこちらを見ていることに気付いた。
「わかりました。それでは事務所でしばらく―――」
電話はまだ続いていたけれど。
こちらにしっかりと視線を合わせたまま、羽成が少し険しい顔で首を振るから。
俺も「わかった」というつもりで、一度目を伏せてから座り直した。
チラリと村岡を盗み見ると、あからさまに苛立ちを含んだ表情を向けていた。
だが、電話を終えた羽成が茶を入れて戻ると同時に、それは社交辞令的な笑みに摩り替わった。
「これは、これは。十河社長の跡目と噂される方にお茶を入れてもらえるとは。ここでは愛人の方が立場は上ってことなのか?」
遠慮のない厭味にも羽成はいつもとまったく変わらない態度で、サラリとその言葉を流すと当たり障りのない答えを返した。
「彼は事務所の人間ではありませんので、大切な客の接待を任せるわけにはいきません」
「ふん……なるほど。その点、ここを継ぐ自分なら、ってわけか」
「そういうことではありませんが」
会話の間もチラチラとこちらに飛んでくる村岡の視線。
それに気付かないふりをして、俺はデスクに置いてあった雑誌をめくった。
村岡はその後しばらくの間、「あの女は十河のお下がりなのか」とか「飽きたら系列店にでも売り飛ばすんだろう」などと不躾な質問を羽成に飛ばしていたが、誰かが手配したらしい水商売風の女が高級そうな酒を運んでくるとそちらに興味を移したようで、俺が座っていたデスクにもすっかり背中を向けた。
その瞬間、また羽成から視線が飛んで、俺は小さく頷くと、そのままこっそり事務所を抜け出した。
それからはいつもそんな調子で。
俺が事務所で十河を待っている間は必ずと言っていいほど羽成が近くにいて、困ったことがあればそれとなく助けてくれた。
それだって俺のすべきことを目線で促す程度だったけれど、何を言おうとしているのかは不思議なほどよく分かった。
特別それがどうというわけじゃない。
でも、そんなことを繰り返すうちに羽成との関係もやっと落ち着き所を見つけたように思えた。
「羽成とは相変わらずなのか?」
「……え?」
十河もそれを察知していたのだろう。
思い出したようにそんなことを尋ねては、俺の返事を求めた。
しかも、いつだって答える前から少し笑っていて、それがいっそう言葉を返しにくくしていた。
「……まあ、相変わらずって言えば相変わらずだけど。でも、最近はそこそこ頼りにしてるよ」
途中からなんだか声が弾んでいることに気付いて、チラリと視線を上げると目の前の口元がまたさらに緩む。
「何笑ってるんだよ。俺は別に―――」
嬉しかったのは羽成とうまくやっていることじゃなくて、こんなふうに十河と共通の話題が持てること。
なのに、十河はそれさえ誤解していたのだろう。
羽成にあんな遺言を残したのも、きっとそのせいだという気がする。
何にしても、当時の俺に十河の意図など分かるはずもなく。
ただ横顔をぼんやりと眺めながら、首をかしげるだけだった。
「そうやって羽成のこといつも聞くけど……俺が羽成とうまくいかないと、まずいことでもあるのか?」
十河からは「さあな」という曖昧な返事だけ。
きっと俺には言えないことなんだろう、と根拠もないのにやけにはっきりと思って。
それから。
こんな一見暢気そうな会話の中に、ひどく嫌な胸騒ぎを覚えた。
何を尋ねたら、この燻りが解消できるのだろう。
焦りに似た気持ちが自分の中を侵食していく。
冷たい汗を背中に感じたその時、十河がやけに真面目な顔で俺を見た。
「おまえは……いつまでこうしているつもりだ?」
「え?」
不意に問われて口ごもる。
今まで一度だってそんなことを尋ねられたことはなかった。
「いつまで……って」
咄嗟に思い描いた未来は、ただ真っ白なだけで。
その後は言葉をなくした。
「まあ、いい」
立ち上った煙が薄く淀む部屋で、十河は少し面倒くさそうに俺の手を掴んだ。
「急がなくても、おまえにはまだ十分な時間がある」
煙草を咥えた口元に緩く笑みを湛えたまま。
やっぱり何か言いたそうで。
でも、それを聞くことはできずに。
「そうかな―――」
何一つ明確なものはないというのに。
それでも、今ここにある安堵だけ噛みしめながら体を預けた。
「……でも、今はここにいたい」
呟きは、ガランとした部屋に吸い込まれて消えていった。
白く煙る部屋に十河と自分。
何も変わらない、いつもの夜が流れていく中。
こんな時間が永遠には続かないってことにさえ、俺はまだ気付いていなかった。
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