運命とか、未来とか

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それからしばらくの間、十河は顔を見せなかった。
今までなら、好都合とばかりに出歩いていただろう。
けれど、その頃にはもう夜遊びへの興味も薄れていた。
「……いつまで忙しいんだろうな」
具体的に何が引っかかるというわけでもなかったのに、胸騒ぎのようなものが消えなくて。
わけもなくいろんなことがグルグルと巡り、寝不足に陥った。


「どうした、冴えない顔して」
朝、マンションのエントランスで偶然すれ違った柿田に声をかけられたのもそれが理由だったと思う。
「え……ああ、ちょっと―――」
適当な言い訳をすればよかったのに、うっかり「風邪かもしれない」と漏らしてしまったおかげで、帰宅した時には当然のように医者が待っていた。
「お久しぶりです、氷上さん」
「……どうも」
この近くで開業している中年の医者だ。もともと十河のお抱えだとは聞いていたが、弱みでも握られているのか、呆れるほどつまらない用事でも呼びつけられると断れない様子だった。
ベッドでの扱いに慣れるまではずいぶんと世話になったが、目の前の男が自分の記憶よりもずいぶんと老け込んでいたせいか、なんだか遠い昔のことのように思えた。
「お元気そうで何よりです」
「おかげさまで」
風邪くらいでわざわざ出向かなくてもいいのにとぼやいてみたが、医者はそれを聞き流し、聴診器を取り出した。
咽喉を見て、熱を測り、簡単な問診をした後でいくつか薬を手渡した。
「今夜は温かくしてゆっくりお休みください。胃が荒れているようですので、消化の良い物を。深夜に召し上がるのは控えてください。それから、アルコール類も―――」
テーブルに置かれた煙草や酒類を見ても説教をすることはなかったが、医者として必要最低限の注意は忘れなかった。
実際、「ああ、はいはい」と生返事をする間でさえ何度も欠伸が出るような有様で、体調は思わしくなかったが、寝不足が響いただけなのだから少し休めばすぐに治るだろうと高を括っていた。
コイツが帰ったら一眠りし、その後で出かければいい。
そんな不埒なことを考えていた矢先、
「最近、十河社長のお加減はいかがですか?」
医者が何気なく口にした言葉にハッとなった。
向こうにしてみれば間を持たせるための世間話のつもりだったのだろう。
だが、ぼんやりしていたはずの俺の脳は些細な言い回しに素早く反応した。
「……十河の『お加減』? 『ご機嫌』の間違いじゃなくて?」
その問いに、医者は「しまった」という表情を浮かべ、嫌な予感が的中したことを知る。
「アイツ、どっか悪いの?」
ドクン、と。
頭の中に反響するほど重い音で心臓が鳴り、鼓動はそのまま早くなった。
「あ、いえ、そういうわけでは……じゃあ、私はこれで」
そそくさと出ていこうとする姿に居ても立ってもいられなくなり、行く手を塞ぐとスーツの胸元を鷲掴みにした。
「ちゃんと説明しろ。アンタが拒否するなら直接十河に確認する。それでもいいのか?」
半ば脅迫するように強い口調で問いただしたが、医者は首を振るばかり。返ってくる答えは変わらなかった。
「いえ、本当に私は何も―――」
心の中では舌打ちをしながらも蒼白になった男を解放し、その姿がドアの向こうに消えるのと同時に羽成にメールを入れた。

『十河の病気って何? 俺には言えないことなのか?』

けれど、いつまで待っても返信はなかった。イライラしながら何度も何度も同じ内容を送った挙句、最後には医者に告げたのと同じ脅迫をした。
『おまえに教える気がないなら、本人に聞く』
これで何も言ってこなかったら俺もキレるぞと思った翌日の昼過ぎ。
やっと来た返事は、『直接お話しします』だった。



待ち合わせた場所は俺がいつも昼寝をしにいく河原。
こんな日に限ってやけに風が冷たくて、それが絶望的な気分を煽った。
「……じゃあ……ホントなのか」
呆然と立ち尽くす俺とは対照的に羽成の声は落ち着いていた。
「もう長くはないかもしれません」
万が一の時はどうするつもりかと問われて、全身から力が抜けていくのを感じた。
ずっと一緒にいられると思っていた。
たまに部屋に来て、時々呼び出されて。
ただ、それだけの日々が続くのだと。
「考えたこと……なかった」
立っていることさえできず、その場に崩れ落ちた。
しばらくは口も利けなくて。
再び言葉を吐き出した時には、もう日は暮れかかっていた。
「……前に、『死んだら一緒に埋めてくれ』って言ったら断られたんだ」
あの時だって、十河はもう自分の行く末が見えていたはず。
どんな思いで言葉を返したのだろう。
「社長が手元に置いている相手は一人だけではありませんから」
「そんなこと、分かってる。そうじゃなくて――」
呆然と混乱が押し寄せる。
言いたいことはたくさんあるのに、上手く言葉にならない。
見開いているはずの目には夕暮れの風景さえ映らなかった。
「ご心配なさらなくても、貴方が就職するまでの間は今の生活を維持できるようにしますので」
羽成の口調はいつだって、こんなで。
本心はほんの少しも見えない。
それが悔しくて。
それから。
少し淋しくて。

「……いいよ、俺には何も残さなくて」

その時は、全部忘れよう。
ここでのことも十河のことも、何もかも忘れて。
また、違う生活を始めればいい。

「金なんてなくても、もうヤクザの事務所になんか出入りしないで、他のヤツを好きになって、大学は奨学金もらって、安い部屋見つけて……相当サボったって試験とレポートでなんとかなるし、バイトすればなんとかやっていけるし、それでもダメなら大学はやめて働いても―――」

もう十河に拾われた時とは違うのだから。
世の中がどう成り立っているのかも少しは分かる。
生きていくだけでいいなら、どうにでもなるはず。

「だから、何もいらない。十河にはそう言っといて」

何か一つでも残されたら。
俺はきっと十河を忘れることができなくなるだろう。

「そうですか」
羽成はただそんな返事をして。
その後は口を閉ざした。

河原を吹き抜ける風は一層冷たくなって。
それが俺を酷く寂しい気持ちにさせた。

「な……羽成。もし、おまえが『もうダメかもしれない』って思ったら、代わりに『ありがとう』って伝えといて。俺、多分、自分では言えないから」

呟きながら。
涙が溢れて、顔を上げられなくなった。

「……じゃあ……俺、歩いて帰るから、おまえは仕事に戻れよ」
膝を抱えて俯いたままそう告げても、羽成はやっぱり何も言わなかったけど。
足音はすぐに少しだけ遠ざかり、数メートル後ろで止まった。
そして、俺が泣きやむまでそこを動かなかった。






その翌日。
俺は本格的に熱を出した。
少し無理をして学校に行ったが、家に帰り着く頃には見事に悪化していた。
全身を包む薄ら寒さを消すため、残っていた酒を呷って寝室に入ったまではよかったが、その後は一切の記憶がプツリと途切れた。
夢の中で、「カーテンを閉めればよかった」とか「エアコンのスイッチくらい入れればよかった」などというつまらないことでうなされたのも、制服を着たままベッドに倒れ込んだ寝苦しさのせいだろう。
解きかけのネクタイが首に巻きつき、さらなる悪夢に変わる。
染み込んだ汗のせいでシャツが肌にはりつき、不快感を倍増させた。
「……ぅ……ん、水―――」
寒さと吐き気と悪い夢に苦しみながら、半分しか覚醒していない状態で起き上がろうとしてベッドから転げ落ちる。
そのまま這い上がる気力も体力もなく、じゅうたんの模様を見ながら意識を失った。



どれくらい眠っただろう。
身体にまとわりついていた重苦しい衣服が取り除かれたことに気付いて、わずかに目を開けた時、部屋は真っ暗だった。
視界はまだ霞がかかっていて、はっきり捉えることができたものなど何もなかったけれど、すぐ近くに羽成がいることだけは分かった。
肌に当たる心地よい感触は乾いたタオル。
汗を拭き取り、その後、パジャマを着せたのも羽成の手。
「……今、何時?」
枕もとに置かれた時計を探そうとしたが、自分の腕がやけに重く感じて思うように動かせない。
布団から片手を出した時点で息が上がってしまい、その先は諦めざるを得なかった。
「けど、もう夜だから……遊びにいかないと」
自分が何を口走ったのかさえ分かっていないような有様だったが、羽成から返ってきた声が呆れ果てていたので、馬鹿げた内容だったのだろうということだけはなんとなく察しがついた。
「39度ありますから、外出はしないでください」
「……最高気温? 今、夏だっけ……?」
「貴方の体の話です」
まともな会話にならなくても、羽成は淡々と自分の仕事をこなす。
「いつから寝ているんですか? 昼食は?」
少なくともまだ明るいうちにここへ来たんだろう。
夕飯を食べていないことは承知しているという口調だった。
「授業……全部、出た。食事は、いらな……い」
「でしたら、点滴を。すぐに医者を呼びますので」
「やめろって―――」
声を荒げた俺を羽成は少し怪訝そうに見つめていた。
「……ちゃんと食うから」
あの医者と顔を合わせる気になれなかった。
十河のことを考えるのがつらかったからだ。


羽成が持ってきた皿には、マンションの近くにあるカフェのロゴが入っていた。
「食事の間だけ一人で起きていられますか?」
顔を覗き込まれて「大丈夫」と答えたくせに、体を起こした途端いきなりふらついて。
結局、食事を終えるまで羽成が背中を支えていた。
温め直したリゾットはもうすっかり柔らかくなっていて、なのに、水と一緒にのどに流し込むと、「ちゃんと噛んで食べるように」と真顔で注意するのがなんだかおかしかった。

薬を飲んだ後、また体を拭かれて、新しいパジャマに着替えて。
もう一度ベッドに横になって窓の外を眺め始めたら、いきなり頭上から説教が降ってきた。
「今日に限って携帯を切っている理由は何ですか?」
「そんなの別にいいだろ?」
おまえに関係ない、と言いかけたけれど。
「また勝手に出歩いて、電波が届かないような場所で遊び呆けているのかと」
そう指摘された瞬間、少しヘコんだ。
確かに羽成の言うとおり。そう思うのが普通だろう。
だが、俺にはその発想がなかったのだ。
「……『今日は構わないでくれ』っていう意思表示のつもりだったんだけど」
逆効果だったのかと呟きながら溜め息をついて。
その時、視界の外に立っている男が少しだけ笑ったような気がした。

何がおかしかったのだろう。
そんなことを頭の片隅で考え始めた時、ふと気になったことがあった。
「……な、十河は……俺が寝込んだこと知ってるのか?」
まだ気付いてないならこのまま内緒にしておけよ、と。
念を押したけれど。
よくよく考えてみれば、過去にはあれだけ酷い扱いをした男なのだから心配などするはずがない。
自惚れも大概にしろと自分で突っ込みながら、なんだか急に気恥ずかしくなったけれど。
羽成はごく当たり前のように頷くと、承諾の言葉を口にした。
「治るまで大人しく寝ていると約束するなら」
そんな答えに違和感を覚えたのは、それが羽成らしくなかったとか、そんな理由じゃなくて。
今までこいつからこんなに多くの言葉をかけられたことがなかったせいだ。
「……分かったって言ってるだろ」
一緒にいた時間は決して短くはないのに、まともな会話をしたことは数えるほどもない。
もともと羽成が無口だというのもあるけど。
一番大きな理由はそれじゃないだろう。
「それと、学校へは―――」
突き詰めたなら、全ての不具合は自分に原因があるような気がしたけれど。
今はただ真っ直ぐに向けられる言葉が心地よくて。
「まだ何かあるのかよ」
文句を言いながらも、体の奥に響くその声に耳を傾けながら目を閉じた。
「それから、『暗くなったら夜遊びに出なければいけない』という認識は改めてください」
思いつく限りの注意事項すべてに「わかった」と言わされたが、不思議と嫌な気はしなかった。
「……おまえ、説教臭いよ。とか言うと、また『仕事だから』って答えるんだろうけど」
以前はその返事が無性に腹立たしくて、むやみに突っかかったりもしたけれど、今はそんなこともない。
昔と違って多少の棘なら表情一つ変えずにサラリと流してしまう羽成に、悪態を吐き続けるのが馬鹿らしくなったせいかもしれない。
「後でまた様子を見に来ます」
そっと閉められたドアの音がやけに耳に残って、あーあ、と一人溜め息をもらした。
「……そう言えば、あれ以来、『仕事ですから』って言わなくなったんだよな」
首を絞めた時の羽成の目がまだ鮮明に記憶に残っているから、今だって嫌々世話をしているとしか思えなかったけれど。
「別に……どうでもいいか」
全てを切り捨てるつもりでゆっくりと目を閉じたけれど。
いつまで経っても羽成の顔だけが瞼に残っていた。


風邪薬と安堵が浅い眠りを運んでくる。
どうにもならないことを考えながら、夢と現実の間をふらふらさまよう。

十河には、あとどれくらいの時間が残されているのだろう。
その後はいったいどうなるのだろう。
羽成に言った通り。
俺は本当に一人で生きていく気があるんだろうか―――


深刻な問題は、大きくなり始めた睡魔にあっけなく追い払われて。
残ったのは少し苦い解放感。
何にしても、その時はもう羽成の本心など気にしなくて済むのだ、と。
深く眠り落ちる寸前に思ったのは、そんなくだらないことだった。



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