運命とか、未来とか

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普段なら、「朝っぱらから俺を送るためだけにスタンバイしていなくてもいいのに」と文句を言う場面だろう。
だが、こんな時はちょうどいい。
羽成だって側近の一人。十河の周辺には詳しいはずだ。
「十河の知り合いに、『タカキ』とか『タカシ』とか、そんな感じの名前のヤツいないか? それも、かなり親しい間柄で」
すぐに分かるだろうとタカをくくっていたのだが、羽成からの返事は「ありふれた名前なので名簿でも見ないことには分からない」というそっけないものだった。
「ふうん。……まあ、大人って下の名前で呼ぶことなしな」
少なくとも側近の中には該当者はいないという返事だけはもらったが、引っかかったのはその後だった。
「―――それが何か?」
正直なところ、羽成がこの話題に関心を示すとは、ほんの少しも予想していなかった。
「え……ああ、たいしたことじゃないんだけど。寝言で十河がそんなこと言ってたような――」
少なくとも十河はもうすっかり起きていて、部屋を出るところだった。
寝惚けているはずなどない。
だが、ここはごまかしておくのが正解だという気がした。
「まあ、俺も半分夢の中って感じだったし……多分、聞き間違いだったんだろうな」
うやむやにするつもりで付け足した。
その瞬間、羽成がふっと目を逸らしたことに気付いて。
同時に何かが心臓を抜けたような、妙な感覚に襲われた。

―――もしかして……

そう思った時には、直感のままを口に出していた。
「おまえって……下の名前、何?」
きっとそうなんだろう。
確信に近い気持ちさえあった。
だが。
「寛周(ひろちか)」
まるっきり無関心な様子で返ってきた答えと共にチラリと見せられた免許証。
「……ふうん」
寛周。
どう見ても「タカキ」や「タカシ」と読むには無理がある。
――外れ、か……。
わずかに落胆しながら。
そして、一方ではかすかに安堵しながら。
羽成が運転する黒塗りの車に乗り込んで窓の外を眺めた。


マンションまでは二十分足らず。
その間、羽成はいつもの仏頂面で、車内は俺がしゃべらなければずっと静まり返っている。
「CDくらい置いとけよ。退屈で仕方ないって」
何にしても、事務所にいる連中の誰かでないとするなら、俺に分かるはずはない。
きっと聞き違いだったんだろう。
あるいは、朝から十河が酔っていて、俺と誰かを間違えた可能性もある。
いずれにしても言った本人に確認しなければ、答えは出ないに違いない。
「っつーか、羽成って案外まともな名前なんだな。似合っているような、硬すぎるような―――……まあ、それもどうでもいいけど」
適当に話を終わらせた時、車はちょうどマンションのゲートをくぐって駐車場に滑り込んだ。


「ふああ……さすがにダルいな」
部屋に入ってすぐ、大あくびをしながらテレビをつけた。
遊びにいく気配など少しも見せなかったつもりなのに、羽成にはしっかりと予防線を張られた。
「今日は大人しくしていてください。外出する時はこちらに電話を。それから、事務所には絶対に出入りしないように」
十河が刺されたばかりだから、周辺が物騒なのは言うまでもないし、俺もそこまで馬鹿ではないつもりだった。
だが、片隅にはまだ例の件が引っかかっていて。
「ああ、いいよ。俺もう一回寝るから。それに宿題溜めてるし、やりたいゲームあるし」
インドアな予定をでっち上げた後、早々に羽成を追い払った。
通りに面した窓から身を乗り出し、黒塗りの車がすっかり視界から消えるのを見届ける。軽くシャワーを浴び、その後はキーだけを掴んで部屋を飛び出した。



非常階段を降り、事務所のドアを半分だけ開ける。
「入ってもいい? なんかやけに慌しいんだな」
素知らぬふりで声をかけた相手は柿田だった。
「今日はこっちへ来るなって言われなかったか?」
いつでもそこそこ好意的に話をしてくれるこの男なら、よほどの事情でもない限り答えてくれるだろうと踏んでのことだ。
「ああ、うん。羽成がそんなこと言ってたかな。それより、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「聞いたらすぐに部屋に戻るよ」という前置きで、先ほど羽成にしたのと同じ問いを投げたが、柿田の返事は「知らない」の一言だけだった。
「おまえでも分からないのか。じゃあ、仕方ないな」
あっさり引いた振りをしたのは、変に粘って羽成に告げ口をされるのを避けるため。
さらりと諦めたような顔で柿田を撒いてから、事務所で一番の古株という男を捕まえにいった。
「『タカキ』か『タカシ』?……ああ、そういやあ、昔、そんなのがいたな」
根本というその男は、年齢で言ったらもう初老の域。
若かった頃はあまり十河と接点がなかったようだが、それでも当時のことはいくらか覚えていた。
「社長もそん時はまだ二十歳かそこらの若造でな。自分ちのように入り浸ってたクラブのホステスのガキが『タカキ』だった」
子供は幼稚園に行ってる程度の年で、顔も性格も母親に酷似していた。
十河は文字通り猫可愛がりしていたが、顔の愛らしさからは想像できないほど気性の激しい子供だったという。
「実は十河の子って線は?」
十河が二十歳だったとしても、就学前の子供なら可能性は十分にある。
「さあ、そこまでは知らんね」
女は若くしてそこそこ大きなクラブを一つ任されるほどの切れ者だったが、ヤクザとの繋がりが仇になり、トラブルに巻き込まれて死んだらしい。
だが、細かいところは曖昧で、思い出したことすべてが確かなのかという点についての保証はなかった。
「それって新聞にも載った?」
「ああ、それこそ後ろのほうに小さくな」
だが、所詮はヤクザ絡みのゴタゴタ。適当に片付けられてたいした話題にもならなかったらしい。
「事件の後、ガキの噂もパッタリ聞かなくなったな。……ってことは死んだのかもしれんがね。まあ、また何か思い出したら教えてやるよ」
そんな頼りない約束だけをもらって事務所を後にした。


「その計算からすると、『タカキ』は俺よりもかなり年上。ってことは……同じ学校のヤツとかじゃないことだけは確かだな」
なおかつ事務所の人間でもない。
だが、そんな相手をわざわざ俺に「頼む」必要があるだろうか。
やはり十河の言葉を聞き違えたか、あるいはそんな場面自体が夢だったのかもしれない。
「だいたい『頼む』って何をどうしろってことだよ」
一度そう思い始めると、その後はすっかりそんな気になってしまった。
「人騒がせな……って、自分だけどな」
普段なら気にも留めないようなこと。
やけに引っかかるのは、きっと十河のことで動揺しているせいなんだろう。
病気のことを聞いた矢先に、刃物で切りつけられる事件。
平坦な日々を送っている自分には刺激が強すぎたのだ。
「やっぱり今日は大人しく寝てるか」
羽成の顔を思い浮かべながら階段を上がり、部屋に戻るとすぐにベッドに入った。
もとより夢か現実か自分でも分からないようなことだ。
一眠りすればどうでもよくなるだろう。
そんな予想通り、俺は意外なほどあっさりとその件を忘れ去った。




十河はまたしばらく顔を見せなかった。
当分は来られないだろうということは羽成からも聞いていたから、それは気にならなかったけれど。
「ケガはもう大丈夫なのかよ?」
それだけはどうしても気になってしまい、羽成の顔を見るたびに同じ質問を繰り返した。
「声くらい聞けないのか?」
電話でいいのに、と。
思わずそんなことを呟いた時も羽成は何も答えなかったけれど。
その夜、十河はフラリと俺のマンションに現れた。
「珍しいな。おまえがこんな時間に部屋にいるとは」
椅子の背に上着を掛けて、ポケットからライターを取り出す。
「いきなり抜き打ち検査かよ」
そんな答えに、煙草を咥えたままの口がわずかに緩む。
何も変わらない。
言葉や仕種の一つ一つにそれを確認しながら、内に広がっていく安堵が他の全ての感情を流していった。

その後はいつもと変わりない手荒な情事。
また風邪でも引いたんじゃないかと思うほど熱を持った体を持て余して、十河の背中に手を回す。
「……あ……あっ……っ」
乱暴に突き上げられて、全身を仰け反らせるほど感じながら。
けれど、一方ではまだどこかに言い知れない不安がわだかまる。
霞む意識の中、見えたのは笑った口元と灰皿から立ち上る白い煙。
ただ、それだけだった。


再び目を開けた時、十河はすぐ隣にいた。
「……今度、いつ来るんだよ」
今までは意識的に自分の中で消していた問いを、少し寂しい気持ちで口にしたけれど。
目の前で煙を吐き出していた男は、いつ来るとも、しばらく来ないとも言わなかった。
短くなった煙草を灰皿に置くと、その手で俺を抱き寄せ、思案顔で呟く。
「俺の留守中に何かあったら羽成に言え」
「……うん」
ちゃんと返事をしたつもりだったのに。
十河には聞こえなかったのかもしれない。
「金がないとか迎えにこいとか、それだけじゃなく。何もかも全部だ」
そう言って念を押した。
でも、小遣いが欲しいとか、遅くなったから迎えにこいとかなら、それは初めから羽成の仕事だったし、その上「何もかも全部」などと言われても、他の用事など一つも思いつかなかった。
「って言われてもな……」
そんな問いにも十河は呆れることなく、いつもよりゆっくりと言葉を返した。
「何でもいい。おまえが他人にして欲しいと思うことの全てをあいつに言えばいいだけのことだ」
どんな無茶でも、わがままでも。
他の誰かに言うくらいなら羽成にしておけ、と。
「そう言われても何にも思い浮かばないんだけど……暇潰しに付き合えとか、八つ当たりしたいとか?」
もちろん冗談のつもりだった。
でも、十河は笑って「そうだな」と答えた。
「……俺はいいけど」
羽成は嫌がるだろうなと溜め息を吐きかけた時、十河がフッと笑いを漏らして、どこか遠くに視線を投げた。
「アイツも見た目ほどは大人じゃないからな」
何を思ってそんなことを言うのか、俺には分からなくて。
「おまえもたまには少しくらい甘えてやれ」
付け足されたそんな言葉にまた首を傾げる。
「……それって……」
どんなに真剣に考えても「大人じゃない」ことと「甘えてやる」ことの繋がりが見つからず、その後は何分も黙り込んだ。
大人じゃないなら尚更、嫌いな相手に甘えられるのなんて鬱陶しいだろう。
どういう理屈なのかをグルグルと考え込んでいると、十河の口元がまた薄く開いた。
「心配するな。羽成にはよく言っておく」
一応は頷いたものの、心から納得はできないまま。
「……なんか、よく理解できてないんだけど。頭悪いかな」
眉を寄せて呟く俺を十河はしばらく笑って見ていた。
そして、その後でまた以前と同じ言葉を告げた。
「本当に、おまえはいつまで経っても染まらないな」
言われるたびに十河との間に線を引かれたような気分になるのに。
それでも、やっぱり変われないものは仕方ない。
どんなに近づきたくても。
ずっと側にいたくても。
どうにもならないってことも分かっていた。
「普通、そんな急には無理だろ。だいたいこんな世界に興味もないのに……」
投げやりとも取れる返事に、十河は少しだけ頷いて。
「それでいい」
そう呟くと、また新しい煙草に火をつけた。


その後はいつもと同じ。
俺が一方的に話す日々の出来事に散々笑って。
それから、やっぱりいつもと同じように「欲しいものはないか」と尋ねた。
「また、それかよ。じゃあ、次に来る時までに考えておく」

腕の中。
胸に頬を押し当てたまま、そんな返事をしたけれど。



それが、十河と交わした最後の言葉になった。



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