運命とか、未来とか

-12-




翌朝、早い時間に羽成はやってきた。
あまりにもいつもと変わりなくそこに立っているのを見て、十河のことも本当は夢だったんじゃないかと思った。
毛布に包まって窓際に張り付いていた俺に、仏頂面のまま新しい着替えを渡す。そんな態度もいつもどおり。
「駐車場で待っていますので」
見下ろした視線も、抑揚のない口調も。
昨日までと何も変わらないのに。
泣き明かした目にはすべてが霞んで見えて。
「……うん」
それを悟られたくなくて、視線を逸らしたまま短く頷いた。


十河の死の詳細は羽成も教えてくれなかった。
車の中、気を紛らわすためにつけたテレビで、店の見回りを終えてビルから出てきたところを撃たれたと知った。
報道されている通り、これはヤクザ同士のいざこざで一般人には関係のない事件。
世間はそう思いながらニュースを聞き流すのだろう。
「……刺したのと同じヤツだったのか?」
「いいえ」
敵の多い人間なのだろうということは薄々感じていたけれど。
外にいる時の十河がどんなだったのかを俺は知らなかった。
「……ふうん」
たとえば無慈悲で冷酷な男だったと言われても、そうなのか、と答えるだけ。
もっと多くを知っていたなら、あるいは気持ちの整理もできたのかもしれないのに。
そんなことを考えた直後、コマーシャルが流れ始めたテレビを切って、今さらそれが何になるのだと瞼を伏せた。


連れてこられた場所は都心から少し離れたマンション。
特に金のかかった造りでもなくて、十河の持ち物でないことは一目で分かった。
誰が住んでるとか、そんな前置きもないまま車を降りた羽成は、目線だけでついてくるよう促した。
無言でエントランスをくぐり、エレベーターのボタンを押す。
「迎えに来るまでここにいてください」
通学に必要なものはもう運び込んであるから、と言われたけれど。
「……学校は休む。今は何にもしたくない」
呼吸をするのさえ酷くおっくうで、できることならこのまま止めてしまいたいと思うほどなのに、大勢の無遠慮な他人の中に身を置くことなど考えられなかった。
「おまえは……これから何すんの?」
その問いにも無表情のまま。
十河の残した用事を片付けるために遠出をするから、次にここへ来るのは早くても8日後になると答えた。
「予定通りに済めば、日曜の夕方には迎えにきますので」
仕事が長引くようなら電話をするので、出かける時も携帯は持っていくように、と。
今どき親でもそんな心配はしないと思うようなことまで指示された。
「いいよ、もう。放っといてもらったほうが気が楽だ」
投げやりに吐き出したところで、サラリと聞き流されるだけ。
案の定、羽成は何も答えることなく、少しひんやりとしたエレベーターに乗り込んだ。
必要なこと以外しゃべらないのはいつものこと。
でも、その横顔は普段以上に俺を持て余しているように見えた。


四階で降りると、またすぐに歩き出す。
静かな廊下には朝日が差し込み、羽成の靴音だけが冴え冴えと響いた。
突き当りを曲がったところで、半開きになっていたドアの中から人影が覗く。
「どうぞ」
小さな声で俺たちを迎え入れたのは、いつか十河が事務所から連れてこさせた女だった。
羽成が抱いた、あの―――
「……羽成の彼女になったのか?」
背中でドアが閉まるのを待ってそんなことを尋ねたのは、『欲しかったらくれてやる』と十河が言っていたことを思い出したからだ。
だが、その瞬間に羽成は眉を寄せ、女は「え?」という表情を見せた。
「……なんだ、違うのか」
「店の従業員です」
面倒くさそうにそれだけを説明した羽成は、廊下に積んであったダンボールを玄関脇の部屋に運び入れた。
「ふうん。……だとしても、おまえのその反応って失礼だよな」
そんなに露骨に嫌そうな顔をする羽成を見るのは久しぶりで、どこかで少しだけホッとしていた。
まだ自分にも見える本心があるのだ、と。
それだけのことが何かの救いになるような気がした。



荷物を運び終えると、羽成は何の説明もせずに俺を置いて帰っていった。
「氷上君の部屋はそこね。少し狭いけど中から鍵もかかるし、小さいけどテレビもあるから」
わざわざ空けてくれたと思われる部屋は、もともと衣裳置き場か何かにしていたのだろう。
6畳ほどの広さだったが窓はなく、壁際にはクローゼットが並んでいた。
「一週間くらいなんだから、廊下で寝てもよかったのに」
新しいマンションでもなく、ホテルでもなく。
彼女の部屋に俺を置いていくことにいったいどれほどの意味があるのか。
「え、それだけなの?」
安堵と落胆。
彼女の表情からはそのどちらも読み取れて、なんだか不思議な気分になった。
「あいつ、他人を預けるのに日数も言ってなかったのかよ」
羽成が彼女に伝えたのは「しばらくの間」という曖昧な期限。
それも、仕事中にいきなり現れて、「明日から預かってくれ」と言うとまたすぐにいなくなったのだという。
「必要なこと以外は何にも話さないから」
ただの従業員なんだから当たり前だけどね、と軽い溜め息の後。
「氷上君には違うのかな―――」
独り言のようなその呟きにドキリとした。
「俺にもそうだけど。さすがに今回は『日曜の夕方に迎えにくる予定』ってことは言ってた」
慰めのつもりで軽く口にした言葉。
でも、それは彼女の失望を大きくしただけだった。
「……やっぱり、戻ってくるのね」
十河が死んだら足を洗うだろう。
ずっとそう信じていたのに、と。
ひどく虚ろな目で口元をゆがめた。
「羽成にも……都合ってものがあるんだろ。それに」
俺だって思わないわけじゃない。
十河のいなくなった場所にもう未練などないだろう、と。
でも。
「ヤクザやめるのって大変なんだろ?」
彼女だって分かっているはず。
だとしても、吐き出さずにはいられないのだろう。
「だって、彼はいつもあの人のことばっかりで……だから、もう―――」
事務所に戻れば嫌でも跡目の椅子が待っていて。
一旦そこに座れば行き着く先も見えている。
「羽成の……どこがいいんだよ」
無愛想で、十河の言うこと以外は聞かないようなヤツなのに。
「俺なんて首絞められたこともあるのに」
そんな言葉まで足してみたけど。
いつまで待っても彼女からは溜め息以外の答えは返らなかった。


女と二人だけの部屋で。
こんなふうに沈黙することは気まずいものだと思っていた。
けれど。
十河から気持ちが離れない自分と。
今この瞬間も羽成を思っている彼女と。
お互いぜんぜん違う所を見ていることは分かっていた。
同じ部屋にいても、向き合ってなければ一人でいるのと変わらない。
他人といても別に邪魔にはならないものなんだな、と。
ぼんやりしたまま、そんなことを考えた。

時間の流れさえ感じない部屋で、時折り自分の口から漏れるため息で現実に戻る。
何度かそんなことを繰り返した後。
「……お茶でも入れるね」
サラリとした髪をかき上げ、曖昧な吐息を飲み込んで立ち上がる。
ちょうとその時、放り出してあった鞄の中で携帯が鳴って、華奢な背中がビクリと跳ねた。
「ごめん、脅かして。どうせ羽成だ」
いつも以上に面倒くさそうに電話に出たのは、彼女に対するポーズだったのかもしれない。
内容は相変わらずこれからの予定だけで、電話は三十秒もしないうちに切れたけれど。
「なんだか……変な感じね」
「何が?」
「彼から当たり前みたいに電話が来るなんて」
吐き出した呼吸は今度こそ本当の溜め息だったけれど。
思考が擦り切れた頭には慰めの言葉など浮かんでこなかった。
「これがアイツの仕事だから。十河に言われたんじゃなかったら、関わりたくないって思ってるよ」
俺と羽成との間にある微妙な空気など、他の人間には分かりようがない。
何度も思った。
見えないだけで、羽成の本心は今でも首に手をかけたあの時と少しも変わってないかもしれない、と。
それでも、何も知らない彼女には羨ましく思えたのだろう。
「『いいわね』って言ったら、笑われるのかな」
「……別に」
できることなら替わって欲しいくらいだと思いながら、こちらまで溜め息交じりになる。
「俺と羽成って見た目よりずっと険悪なんだけどな」
十河がいた頃だって、俺は羽成との距離を測りかねていた。
向こうだってきっと同じ。
俺だけここに残していったのだって、本当はそれが理由なのだろう。
そんな事実に行き当たると、また気持ちが塞がった。
「……俺、ちょっと部屋で休むから」
十河になら、そんなくだらないことでも当たり散らすことができただろう。
それが甘えだったことにも今になって気付く。
「寝るならちゃんとお布団かけてね。ご飯の時間には起こすから。好き嫌いとかないといいんだけど」
迷惑そうな顔など少しも見せずに世話を焼く。
優しい女なのに、と。
自分には関係のないことを思いながら。
でも、そんな言葉を流して部屋に逃げ込んだ。




三日後、予定より早く俺を迎えにきた羽成は、礼さえ言わずに金の入った封筒を彼女に渡した。
「お金なんて……」
俯いたままつぶやいた後、少し寂しそうに俺たちを送り出した。
ビルの合間に曇り空だけが見える短い廊下。
無言でエレベーターに向かう俺たちがすっかり見えなくなるまで、彼女はそこに立ち尽くしていた。
「―――酷いヤツ」
その言葉の意味を羽成は正確に分かっていただろう。
けれど、やっぱり何も言わずに俺を車に乗せた。




十河の葬儀の日。
側近であるはずの羽成は、何故か事務所の手伝いもせず俺と一緒にいた。
理由を問うと、「急ぎの仕事を片付けるために日曜まで遠出していることになっているので」と答えた。

家族でも部下でもない俺は葬儀に出ることはできない。
けれど、それはごく当たり前のことで、肩身が狭いとか悔しいとか、そんな感情は湧かなかった。
「これで最後ですから」
そう言われて、少し離れた場所に止めた車の中からそっと出棺を見守った。
閉ざされた車内は、ただ乾いた空気があるだけ。
あんなに泣いたことさえ、まるで嘘のように思えた。
「なんか……白々しいよな」
羽成に言われて初めて身にまとった黒いスーツは自分の目にも不似合いで。
棺の中の十河はきっと笑っているだろう、なんて。
つまらないことを考えながら、ゆっくりと過ぎていく車を見送った。

真っ直ぐな道路から黒い影が消えて、その残像だけが脳裏に焼きつく。
あの中に十河がいたのだという実感など少しも持てないまま。
これで全てが終わりなのだと自分に言い聞かせた。

「俺のおもりさえなければ、おまえはちゃんと見送れたんだろう?」
こんな最後にさせて悪かったな、と謝ってみたけれど。
羽成はやはり何も言わずに車を出した。


信号をいくつか越えても、見知らぬ風景はまだ続いていた。
自分の中はどこをひっくり返しても白く空っぽで。
なのに、揺られるたびに何かがサラサラとこぼれていくような気がした。
「マンションに帰りますか?」
たったそれだけの質問にさえ、答えが返せず口ごもる。
新しい部屋が気に入らないとか、居心地が悪いとか、少しもそんなことはなかったけれど。
「……時間が大丈夫なら、このまま適当に走って……別にどこでもいいから」
一人になるのが嫌で、そう返した。


あてもなく走る車に揺られながら、流れていく看板や街路樹を見送った。
オフィスビルはやがて居住用のマンションに変わり、道路沿いにちらほらと公園や学校が見え始める。
そんな風景にかすかな安堵を覚えたのは、都心から遠ざかれば長い時間こうしていられると思ったからだろうか。
考えることもままならない頭に、とりとめもなく巡っていくごちゃ混ぜの感情。
少しでも何かを掴みたくて、口先だけで言葉を吐き出した。
「おまえは……これからどうするんだ?」
窓に顔を向けたまま発した問いがガラスに跳ね返って空気を揺らす。
本当は組のことなどどうでもよかったけれど。
自分の行く先には少しも興味が持てなくて。
だから、羽成の未来を尋ねただけ。
「まだ仕事が残っていますので」
答えは予想通り。
具体的に何をするのかは少しも分からなかったけれど。
俺には関係ないことだから、と。
そんな言葉で、整理のできない気持ちに蓋をした。


背の高い建物がまばらになった頃、車はエンジンを止めた。
少し歩くと広い河原で、わずかに冷たい風が心地よく吹き抜けていた。
コンクリートの堤防に並んで座る。
羽成は珍しく煙草を取り出し、俺はなんとなく水面を追って。
「おまえも……いつかこんなふうに死んでいくのかな」
こぼれていく心の奥底を隠すように。
仰いだ空は、今日も変わりなく、青く、遠く。
「そうかもしれません」
フッと吐き出した煙と共に、その言葉まで吸い込んでいった。
「そしたら、俺に説教をするヤツもいなくなるんだな」
本当に一人になった時、自分にはいくつの選択肢があるのだろう。
それとも。
選択肢などいくつあっても意味はないのだろうか。
「……その前に、俺が死んでるかもな」
呟いた視界の片隅。
わずかに映った羽成の横顔はぼんやりしていて。
その向こうに透かした未来は、ひどく曖昧で薄暗かった。



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