運命とか、未来とか

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それから数日。
学校が終わった後、羽成に連れていかれたのは弁護士のところだった。
「なんかすごいビルだな」
事務所が入っている建物はいかにも高級な造り。
車が滑り込んだ地下の駐車場も入り口には警備室があって、窓からはモニターが並んだコントロールパネルが見えた。
「数人でやってる小さな事務所って言ってなかったか? なのにコレって、いかにも『まともな仕事以外で稼いでます』って感じだよな」
そんなどうでもいいことを呟きながら車を降りようとしたが、その瞬間にドアをロックされた。
「先に説明をしますので」
車内に閉じ込めるくらいだ。どんなに込み入った話なのかと身構えたが、実際はそれほど複雑な内容でもなく、十河の遺言により譲渡される物を読み上げるから、そのすべてを承諾するようにという指示だった。
「ふうん」
勝手にしろという気持ちを隠すことさえしなかったせいなのか、羽成からはいつになく厳しい口調が返ってきた。
「言われた通りにしていただけますね?」
「え……ああ」
曖昧に濁したところで、今さら父親のいる家に戻る気などない。
正直なところ、俺には十河が用意してくれた居場所が必要だった。
「分かったよ。言うとおりにすればいいんだろ」
溜め息交じりの返事が気に入らなかったのか、羽成は一度だけこちらにチラリと視線を投げたけれど、すぐにドアのロックを解除すると、先に車を降りて歩き出した。


ビルの外装に見合ったオフィスの入り口には、顔で選んだとしか思えない受付嬢が退屈そうに座っていた。
「氷上様ですね。お待ちしておりました。担当の者が参りますので、別室でしばらくお待ちください。それから、羽成様には先ほどお電話が―――」
差し出された伝言メモをチラリと見た後、羽成は俺だけを先に応接室へ案内するよう言いつけて事務所の奥に消えた。
「氷上様はこちらへどうぞ」
恭しく通された部屋は意外とシンプルだったが、馬鹿高そうな調度品から客層が透けて見えるような気がした。
「それでは、もうしばらくお待ちください」
ドアが閉められた後、ふっと息を抜いて目を閉じた。
「どうでもいいから、さっさと来てさっさと終わらせてくれないかな」
十河を見送った時は真っ白で空っぽだった自分の中が、今はどろりとしたもので重く淀んでいる。
できれば自分の部屋に篭って雲でも眺めていたいのにと、小さく呟いた瞬間ノックが響いた。
「……いちいち仰々しいんだよな」
きっとお茶でも持ってきたんだろう。
大きな溜め息と共に瞼を押し上げ、「どうぞ」と軽く返事をした。
だが、入ってきた女は俺の顔を見るなり、口元に笑いを作って「はじめまして」とシナを作った。

年は三十過ぎくらいだろうか。
スーツ姿なのにおよそ弁護士事務所に勤務しているようには見えなかった。
「羽成さんと一緒にいらした方ね?」
「そうですが」
羽成を知っているというなら、事務所関係の人間なんだろう。
そういえばまともな稼業という感じはしないな……と、ぼんやり考えていると、また別の質問が飛んできた。
「お名前をお尋ねしても?」
なぜそんなことを聞くのだろうと訝しく思ったけれど。
「氷上」
その疑問はすぐに解けた。
「ああ、貴方が十河社長の預かっていたという学生さんなのね?」
羽成が連れてきたと聞いて、どういう間柄の人間なのかを知りたくなったのだろう。
とするなら、あるいは彼女も十河の愛人だったのかもしれない。
そう考えると全てがしっくりくるのは、無意識のうちに彼女が十河の好きそうなタイプだと感じていたせいだろうか。
女は先ほどからずっとこちらを見ていたが、幾分わざとらしさを感じる笑顔のせいで、その存在の全てを鬱陶しくしていた。
口を開くのも億劫という精神状態でなければ、「用がないなら出ていってもらえませんか」と言っていたかもしれない。
だが、俺にできたのはわざと視線を外して溜め息をつくことだけ。
それを見た女は下世話な好奇心を漂わせながら意味ありげな笑いを浮かべた。
そして、次の言葉を発するために紅い唇を緩めた時、ドアが開いて羽成が入ってきた。

「あら、しばらく見ない間にまた一段と落ち着いたみたいね」
優雅な仕草で振り向いた女を見ても羽成は相変わらずの無表情で、「ご無沙汰しております」と型どおりの挨拶をしただけだった。
「貴方が若い男性を連れてきたって聞いたから、もしかしたらって思ったのに……。何のことはないあの人がマンションに置いてたっていう子なのね」
つまらないわと言いながら、細長い煙草に火をつける。
宝石をちりばめた、お世辞にも上品とは言えないライターが彼女の職業を物語っていた。
「それと……貴方がもらったんですってね、あの店。あの人が一番大事にしてたものだし、私も欲しかったのに」
これからは『社長さん』ってお呼びしないといけないわねぇ、という間延びした声が響いても、羽成が口を開く気配はない。
「お店か事務所か、どちらかを選べと言われたんでしょう? だったら、とりあえず事務所を継いでおけばよかったのよ。店なんて後からいくらでも買い戻せるんだし。みんな貴方が十河の後を継ぐものだとばかり思ってたのにいきなり放り出すから、今頃どの会社も大揉めよ。……ねえ、羽成?」
突然羽成を呼び捨てにした女が、艶めいた唇に笑みを浮かべる。
「――それとも、最初から足を洗うつもりだったの?」
口元とは対照的なほど冷たい瞳が羽成を見据えていた。
俺に用があるような顔をしていたくせに、本当の目的はそれだったのだろう。
嫌な女だと思った。
だが、羽成は女の性格も熟知しているのだろう。
予想の範囲内とばかりに落ち着いた声を返した。
「今の事務所に自分は必要ないと判断したまでです」
十河のいない場所に用はない。
そんな言葉も羽成が言うなら少しも不自然ではない。
むしろ当たり前すぎてつまらないくらいだ。
女も同じことを思ったのだろう。
「そこまで忠義を尽くさなくてもいいのに」
赤い爪の指先で煙草を揉み消すと、少し馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「十河はもう死んだのよ? 遠慮することなんてないじゃない」
まるでなんでもないことのようにサラリと吐き出された言葉が、カランと乾いた音を立てて響いた。
その瞬間、俺がどんな顔をして彼女を見ていたのかは分からない。
ただ、こちらに向けられていた羽成の目がわずかに色を変えて、彼女は部屋から追い出された。


「大丈夫ですか?」
「え?……ああ」
顔色が良くないと言われたが、それほど体調が悪いという自覚はなかった。
ホッとする間もなく、入れ違いに顔を出したのはダークスーツの男二人。
後ろにはお茶を載せたトレーを持った受付嬢が控えていた。
まるっきりどこかでこの遣り取りが終わるのを待っていたかのようなタイミングにうんざりしながらも、形だけ軽い会釈をした。
「お待たせしてすみません」
名刺を差し出したのは、事務所の主である吉留(よしどめ)という中年と羽成より少し上くらいの木沢(きさわ)という若い弁護士。
どちらも見た目はいかにもといった風情だったが、吉留と違って木沢は少し癖のあるタイプに映った。
「羽成さんからだいたいのところはお聞きしているんですよね? でしたら、手短にお話しいたしますが―――」
前置きはいいから早く済ませて欲しいと言いたいのを堪えてわずかに頷く。
この先の話をすっかり聞き流したところで、「すべて遺言どおりにしてくれ」と返せば済むのだから。
そう思った矢先、弁護士がゆっくりと読み上げた一文に言葉を失った。
「……え……?」
「お若い方ですとなかなかピンと来ない数字かもしれませんが」
吉留は笑っていたけど。
あのマンションとは別に、俺に遺されたのは高校生でなくても驚くような額で。
「けど、そんな金は―――」
言葉が続かなくてチラリと隣を見遣ったが、羽成はわずかに目線を動かしただけ。何も聞かずにすべてを承諾しろという意味に違いなかった。

―――こんなこととは思わなかったな……

さすがに返事をためらっていると、子供をなだめるような声が返事を促した。
「氷上さん、よろしいですか?」
「ああ……はい」
羽成との約束だからとか、そういうことではなく。
もうそれ以上何かを考える気力がなくて。
「……全部、遺言の通りにしてください」
結局、指示されたままの答えを返した。

金が要らないなら使わなければいい。
それだけのことだ、と思いながら。
「……でも、ひとつだけ」
自分が死んだ時にこれらを父親が受け取るようなことになるのだけは避けたい。
そう伝えると吉留が軽く頷いた。
「でしたら、後日あらためて氷上さんご自身の遺言を作成しましょう。念のためお伺いしますが、その場合の受取人はどなたに? ご家族はお父様だけと伺っておりますが」
尋ねられた瞬間、無意識のうちに隣を見ていた。
羽成はわずかに眉を寄せたけれど、それについて意見することはなかった。
「では、詳細は後日ということで。この後は木沢からいくつかお話することがありますので、もうしばらくお時間をください」
そんな言葉の後、吉留は羽成と二人で部屋を出ていった。



静まり返った部屋で、俺は無意識のうちに時計を見ていた。
それが「早く終わらせたい」という気持ちの表れだということを見透かしたのか、俺の正面に座りなおした木沢は営業の手本のような愛想笑いで話しかけてきた。
「『氷上君』って呼んでも?」
気さくさを装っていたけれど、それのわざとらしさが嫌で投げやりになった。
「……どうぞご自由に」
こちらの心情などすっかり見通していただろう。
それでも木沢は「じゃあ、お言葉に甘えて」と笑顔を見せた。
「難しい話じゃないから、楽に聞いてくれていいよ」
冷めた茶の代わりに運ばれてきたコーヒーを勧めながら、木沢が手帳を確認する。
わざわざ羽成を別室に追いやってまでする話とは何だろう。
いくらか身構えて木沢の言葉を待ったが、たいした内容ではなかった。
「――……というわけで、君が成人するまでの間は財産の管理者をつけることを承諾して欲しいんだ」
俺が譲り受けた財産の管理と素行の監視。
つまり、馬鹿なことに金を使わないよう見張っておくということだろう。
「日々の生活を束縛するわけじゃないけど、管理者にはマンションの合鍵を渡すことになるから、多少窮屈に感じるかもしれないね」
全ての説明が終わっても「ふうん」という気のない返事しかしない俺に、木沢は「まいったな」と言って軽く笑った。
「それは承諾と思っていいのかな。というか、『万事に無関心』って噂、本当なんだね」
そういう性格とは聞いていたけど……という言葉がやけに引っかかって、無意識のうちに険のある口調になっていた。
「それは羽成が言ってたんですか?」
「まさか」という顔で首を振る木沢はひどく楽しそうで、それもなんだか癇に障ったけれど。
次に告げられた言葉を聞いた瞬間に毒気を抜かれた。
「いや、十河氏がね。遺言を作った時に君のことを―――」

その時、十河がどんな話をしたのか。
知りたいと思ったけれど、聞く勇気はなかった。
何を聞いても平静ではいられない。
それだけは分かっていたから。

「じゃあ、それについては承諾してくれたってことで。あともう一つ。世話役は羽成氏でいい? 君が嫌と言うなら別の人間をつけるようにっていうのも遺言のうちなんだけど」
木沢の言葉が素通りしそうになるのを何とか引きとめながら。

――……それは俺じゃなくて羽成に聞けよ。

言えない本音の代わりに曖昧な答えを返した。
「別に誰でも。もう何でもいいから、後はそっちで決めてください」
結果だけ伝えてくれれば、その全てに「うん」と言うから、と。
投げやりに全て片付けようとしたが、木沢は肩をすくめて頭を振った。
「それが、そういうわけにもいかなくてね。えーと、じゃあ、質問を変えようか? 羽成氏とはどこまでの仲?」
「……『どこまで』って?」
あまりにも唐突で、何を問われたのかを把握することができなかった。
だが、俺がその意図を解するより先に笑いが返った。
「その反応からすると、まったく何にもないと思っていいみたいだね」
木沢の妙な笑いのおかげでやっと意味が分かり、思わず「馬鹿じゃないのか!」と怒鳴りそうになったけど。
吐き出す直前で何とか思い留まり、当たり障りのない言葉に摩り替えることができた。
「なんの心配してるんですか」
それでも不愉快は顔に出ていただろう。
木沢は「ごめんごめん」と軽く流して手帳を閉じた。
「いや、疑っていたわけじゃないんだけど、念のためってことでね」
これも仕事なんだと言い訳をしながら、またにっこりと笑ってみせた。
「じゃあ、今日はこれでおしまい。後から聞きたいことや相談したいことができたら、いつでも気軽に電話して。ここだと堅苦しいだろうから、今度はどこか別の場所でゆっくり話そう」
俺の右斜め前。テーブルに投げ出されいた名刺を長い指先でひっくり返すと、その裏側に携帯の番号を書いた。
「相続の話じゃなくてもいいよ。ちょっと飲みにいく相手が欲しいとか、いい店を教えて欲しいとか」
冗談にしてもそんな言葉を選ぶくらいだから、俺の夜遊びが過ぎることも十河から聞いて知っているのだろう。
「俺、未成年ですから」
そう答えると、案の定、クスッという意味ありげな笑いを漏らし、「そうだったね」と形ばかりの詫びを入れた。
「もう全部済んだんですよね。じゃあ、俺はこれで」
遺言なんてどうでもいい。
さっさとここを出てマンションに帰ろう。
この場で流してしまったことも戻ってからゆっくり考えればいい。
そう思いながら席を立ち、部屋を出ようとしたが、すぐに木沢に呼び止められた。
「十河さんからいろいろ聞いていたから、会う前はどんな子かと思ってたけど」
脚を組み、笑みを浮かべたまま、無遠慮にこちらを見ていた。
その後、二、三の言葉を交わしたけれど、部屋を出る頃にはもう何を話したのか覚えていなかった。
それよりも。
羽成は本気で事務所を辞めるつもりなんだろうか、とか。
もしそうなら、これからは何をする気なんだろう、とか。
そんなことばかりが気になってしかたなかった。



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