運命とか、未来とか

-15-




マンションに戻ると、着替えもしないでベッドに寝転んだ。
いつの間にか家具やファブリックが整えられた部屋は、全体的にシンプルで色調も落ち着いている。
十河の、というよりは羽成の趣味なのだろう。
何もなかったときに比べ、ずいぶんと大人びた印象を受けた。
間取りもインテリアも窓の向こうの風景も、まだぜんぜん見慣れていないはずなのに、不思議なほど安堵する。
十河の隣りで思い描いていたとおりの部屋は、わずか数日の間にすっかり自分の居場所となっていた。
「……なんか、疲れたな」
広々としたベッド。
空が一番よく見える位置で手足を伸ばす。
しばらくぼんやりした後、ポケットから取り出したのは、十河の文字が並ぶメモ用紙。
裏側からでも薄っすらと文字が読めるそれを見て、十河らしいと少しだけ笑った。
「……わざわざここまで行けって?」
住所からは何一つ思い当たらず、意図を量りかねた。
「行ったからって、どうにかなるわけじゃないだろうけどな―――」
少しでも十河の存在を感じる場所なら、それでいいと思った。
生きている間は一度だってこれほど強く願ったことはなかったのに。
どんなに望んでも叶わないと分かっている今だからこそ。
ただ、会いたかった。




翌朝、あまり眠ることもできないまま新幹線に乗った。
メモを見ながら辿り着いたのは、予想していた以上に何もない場所。
だだっ広い空き地には枯れた雑草が揺れていて、傍をゆるやかに流れる河には大きな橋がかかっていた。
その上を馴染みのない色合いの電車がカタン、カタンと暢気な音で走っていく。
どこまでものどかな風景。
「どう見ても墓地って感じじゃないよな。っていうか、なんだよ、ここ」
墓どころか石一つ置いてないその場所に見覚えはなく。
もちろん思い出の地であるはずもない。
「……十河と出かけたことなんてないんだから、当たり前だけどな」
いつも会う場所はマンションかホテルで。
ふらっと現れては乱暴に抱くだけ。
思い出と呼べるような記憶など何一つないことに気付く。

それでも、吉留の言葉を聞いて、どこかで期待していた。
十河が俺に渡すように言ったのなら、ここに何かがあるはずだ、と。
けれど―――

「……こんなところまで何しに来たんだか」
馬鹿だな、と呟きながら。
溜め息をついて草の上に寝転がった。
空気が澄んでいるのか、仰ぎ見た空は東京とは比べ物にならないくらい鮮やかな色をしていて。
それがやけに目に染みて、ふと遠い日が蘇った。

「……思い出って言えば、思い出なのかな」

十河と過ごす夜はカーテンも窓も開け放しで。
妙な時間に目が覚めるたび、寝転がったまま明けていく空を眺めた。
いつの間に起きたのか、気がつくと隣で十河が笑っていて。
こういう朝焼けの時はどんな天気になる、なんて。
くだらない俺の話を何も言わずに聞いていた。

「俺、空が好きだと思われてたんだろうな―――」
他に話すことがなかっただけなのに、と目を閉じたまま呟いてみたけれど。
今の俺にはそれが良い思い出なのかどうかさえ分からなかった。
何にしても、空を見せるためにこんな場所に誘導したわけじゃないだろう。
知りたいことはたくさんあるのに、十河が死んだ日から思考全体が麻痺していて、どんなに考えても答えらしきものは見つからない。
そんな自分に苛立つ気力もなく、ただ全てが流れていく。

溜め息と、気だるさと。
目の前にある空と。

十河の元で過ごした月日は決して短くなかったのに。
何を考えていたのか、どんなものが好きだったのか。
それどころか、正確な年齢も誕生日も、何一つ知らない。
「十河って結婚してたか? 子供なんていたのかな……」
すべてがいまさら過ぎて、なんだか無性に馬鹿らしくなった。

―――何してるんだか……

その後はもう本当に何もかもがどうでもよく思えて。
深呼吸の後、手足を投げ出して目を閉じた。


東京とは違う、土や草のやわらかな匂いと風の温度。
浅い眠りを中断させたのは、少し離れたところから聞こえる電車の音。
「……日、まだ高いんだな」
ぼんやりと目を開け、寝転がったままゆっくりと首だけ動かすと、不揃いな背丈の草木が心地よさそうに揺れているのが見えた。
それから。
こんな空き地にはそぐわない大きな花束も。
「……あんなもの、あったか?」
眠る前の記憶を呼び戻そうとしたが、もう全てが褪せていて何一つ思い出せない。
重い体をやっと起こしてその場所に近づいてみたが、脳も体もまともに機能しなくて、空き地に立ち尽くしているだけの自分を認識するまで相当な時間を要した。
「……もう半分は死んでるって感じだな」
この先ずっと自分の頭はまともに働くことさえないのかもしれないと思いながら空を仰ぐと、かすかな風が頬を掠めた。
それに少し遅れて耳に届いたのは、枯れた草を踏む乾いた足音。

誰だろうと思うこともないまま。
緩い動作で振り返ると、見慣れた男がコンビニの袋を持ってこちらに歩いてくるのが見えた。
「――……やっぱり、おまえか」
普段着ということは仕事のついでではないんだろう。
「なんで来るんだよ。忙しいんじゃなかったのか?」
俺にメモを渡したことを吉留が伝えたのか、それとも偶然なのか。
訝しく思いながら尋ねたが、それについての答えはなく、
「一人で出歩くなと言われませんでしたか?」
反対に問い返された。

怒っているわけでも、呆れているわけでもなく。
何の感情もこもっていないことを証明するように、淡々と響く声を聞きながら。
今でもこれがおまえの仕事なんだな、と冷めた気持ちが過ぎる。
その後、返事をするために唇を緩く開いたけれど。
結局、言葉にならなくて黙り込んだ。


羽成はしばらくこちらを見ていたけれど。
それ以上何かを求めることもなく、ただコンビニの袋から酒を取り出すと、ジャバジャバと地面にこぼした。
側近の一人だったのだから、俺と違って本当の墓に参ることを止められたりはしないはずなのに。
それでも、気持ちの整理ができない自分に付き合ってくれるのだと思ったら、こみ上げた何かが咽喉元でつかえて、息ができなくなった。

外に溢れ出なかった涙を飲み込んだ時のように目の奥に痛みが走って。
それを悟られるのが嫌で、地面に小さくうずくまった。
後ろで羽成が振り向く気配を感じたけれど。
自分の中でぐちゃぐちゃになっているものを抑えるのが精一杯で、顔を上げることはできなかった。


目の前で風に揺れる雑草を眺めながら、自分がここにいる理由を考える。
墓参りくらいさせて欲しいと俺が駄々を捏ねることも十河はちゃんと分かっていて、その時のために吉留にこのメモを預けた。
旅行気分で往復すれば少しは紛れるだろう。あとは、一緒についていった羽成が何とかするだろう、と。
多分、それだけのことなのだ。
「……付き合わせて悪かったな。もう、帰るよ」
無理矢理結論を出した後、ゆっくりとそう呟いて心の裏側に燻り続けているものを切り捨てた。

もう、いい。
何にしても。
ここに十河はいないのだから―――



辺りにはもう薄っすらと夕方の気配が漂って、西にはかすかなオレンジが差しはじめていた。
鮮やかに色を変えながら暮れていく空と、形のある雲と。
時折り通り過ぎる見慣れない列車と、川の流れと。

「向こうに車を止めてありますから」
「……うん」

ここで夜を迎えたら、星に手が届くだろうか――――
そんなことを思いながら、またしばらく空を仰いで。
ふと地上に視線を下ろすと、車のドアを開けて待っている羽成が見えた。
急かすことも苛立つこともなく。
静かに立っているその姿に、ズキンと痛みが走る。
「どうかしましたか?」
以前なら、俺がせがまない限り、隣になど座らせてはくれなかったのに。
「……別に」
その手が助手席のドアにかけられているのを、不思議な気持ちで眺めながら。

そうだ、十河は死んだのだ……と。
不意にそう思った。



カーナビもつけずに走り出した車は大きな橋を渡り、高速に入る。
「この車もおまえがもらったのか?」
「昨年の春に」
「……ふうん」
続かない会話。
単調な車窓の風景。
気まずいとは思わなかったが、ぼんやりしていたせいで聞かなくていいことを口にしていた。
「……おまえ、結婚してるのか?」
「いいえ」
即答だったけれど。
言葉を返す間もサングラス越しの目はチラリともこちらに投げられることがなく、うるさいと思われているのは明らかだった。
そんな態度がまたどこかに引っかかって、くだらない我が侭にすり替わる。
「退屈だから何か話せよ。人と話すの嫌いなのか?」
自分だって好きではないくせに……と乾いた笑みが浮かぶ。
たとえば羽成が何か話しはじめたとして、自分こそ会話を続ける気はあるのだろうか。自問していると、長い指が少し面倒くさそうにラジオをつけた。
「……なんだよ、それ。愛想のない奴だな」
文句を言いながら、どこかでホッとして。
シートを少しだけ倒して、ふうっと息を抜いた。

信号のない真っ直ぐな道路。
ラジオから流れる音楽は穏やかで、どこか懐かしい響き。
「あ……これ、なんだっけ―――」
どこの国の言葉なのかも分からない歌詞が耳を抜け、眠気を誘う。
タイトルを聞いてもまだ何の曲なのか思い出せないような有様だったけれど。
「……好きだったんだ。いつも聞いてた」
そんなことを言いながら。
俺の存在など抹消しているかのような愛想のない男の横顔を見ているうちに、いつの間にか、また浅い眠りに引きずり込まれた。


現実が遠くなり、次第に音も薄れていく。
必死に探し当てようとしていた時には何一つ浮かんではこなかったくせに。
夢の中でやっと。
それがいつも十河と見ていたニュースのエンディングだったことを思い出した。



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