運命とか、未来とか

-16-




目が覚めた時、車は止まっていた。
周囲はありふれたサービスエリアの駐車場。
夕飯時なのか、やけに人が多かった。
羽成はちょうど電話を切ったところだったが、車を出す気配はなく、携帯でメールか何かをチェックしはじめた。
「なんかあったのか?」
「この先、二か所で事故渋滞だそうです」
言われて周囲を見回してみると、確かにどことなく慌しい空気が漂っていた。
「今日中に帰れるのか?」
東京まではまだかなりある。
なのに、もうすっかり日は暮れ、星が出ていた。
とすると、目覚める直前に薄っすらと聞こえてきた「今日は出られない」という言葉は仕事のことだったのだろう。
それに気付いて、申し訳ない気持ちになった。
これ以上羽成の手を煩わせたくない。
だが、空き地で寝ている間に風邪でも引いたのか、全身は鉛のように重く、シートにもたれていた体を起こそうとしただけで背筋が軋んだ。
無意識のうちにふっと息を吐き出してしまい、ハッとしたが、その時にはもう手遅れだったらしい。
「早めに休んだ方がいいですね」
今夜はホテルに、と言ったあと、高速を下りる車の列に続いた。
まばらな家並みが途切れ、ゆるやかな坂を上る。
「寝るだけなんだから、どこでもいいのに」
嫌でも目に付く煌びやかな看板を見送りながら呟いてみたが、運転席からは何の返事もなくて。
その後は、まるで通い慣れた道のようにハンドルを切る羽成の横顔を、どこか不思議な気持ちで眺めていた。



着いた場所は大きなホテル。
ゲートを抜け、緩やかに昇ったアプローチを進むと、白と薄いグレーを基調とした建物が目に入った。
事故のせいなのか、オフシーズンの、しかも中途半端な時間帯にもかかわらずロビーは混雑していて、息苦しささえ感じるほど。
座って待っているようにと言われ、一度はソファに腰を下ろしたが、なんだか落ち着かなくて結局フロントまでついていった。
「普通の部屋にしろよ」
十河がいる時は大きな部屋以外に泊まったことがなかった。
それを思い出して後ろから小声で釘を刺したが、案の定、羽成は怪訝そうな表情を浮かべ、理由を聞いてきた。
「なんでって……俺はもうどっかのヤクザの愛人じゃないってこと」
返ってきたのは「わかりました」という答えだったけれど。
案内された部屋はスタンダードなツインより明らかに広くて、これのどこが「普通」なんだと眉を寄せてしまった。
「おまえ、全然俺の話聞いてないだろ」
文句を言われてもなお涼しい顔で食事の手配をする男を見ながら、溜め息をつき、その後で羽成にとってはこれが「普通」なのかもしれないと思いなおした。
―――……まあ、いいか
十河が生きていた頃なら、どんな状況であっても二人きりで一つの部屋に泊まったりはしなかっただろう。
変わっていないようで、変わっている。
でも、すっかり変わったわけでもない。
フロントから届けられた風邪薬と体温計を受け取る背中をぼんやりと眺めながら、そんなどうでもいいことばかり考えていた。


部屋で食事を済ませ、シャワーを浴びてベッドに潜り込む頃には体温もすっかり上がっていた。
「電話をしてきますので、先に休んでいてください。アルコール類は――」
風邪薬と、グラスを満たす冷たい水。
意外と口やかましいのも相変わらず。
「おまえ、いちいちうるさいよ」
わざとらしいほどうんざりした面持ちでつぶやきながら。
携帯を取ろうとして、バッグのポケットから出ていたストラップを引っ張ると、プツンと切れる感触が指先に伝わった。
「ったく……引っ張ったくらいで切れるなっての」
意思のないものに文句を言ったところで仕方ない。
切れたストラップをゴミ箱に向かって投げるとまた溜め息をついた。

金ならいくらでもある。
こんなものの一つや二つ、また買えばいいだけの話だ。
なのに、何もかもが上手く回っていないような気になるのは、気持ちの整理ができない自分に苛立っているせいだろうか。
手帳と携帯を持って部屋を出ていく羽成の背中を見送りながら、額に手を当てる。グラスの冷気が移った手のひらはひんやりとしていて、自分のものとは思えないほど心地よく感じた。


羽成が帰ってきたのは三十分ほど経った頃。
窓辺に立ち、ぼんやりと外を眺めていた俺を見て、呆れたように声をかけた。
「寝なかったんですか?」
その時、こうやって話しかけられるたびに気持ちのどこかが逆撫でされる理由が分かった気がした。
「いいだろ別に。それより、おまえ、いい加減その口調やめろよ」
十河はもう死んだのだから、と。
自分で口にしておきながら、現実感はなく。
羽成もまたそうであるなら、丁寧すぎる話し方くらいは仕方がないと諦めるつもりでいたけれど。
返ってきた答えはそういうものからは遠い雰囲気だった。
「しばらくの間は我慢してください」
何故しばらくの間なのか、それがいつまでなのかを問い返す気力もなく。
「……鬱陶しい奴」
そう吐き捨てると、思い切り背を向けた。
ガラスに手をついて見下ろした地上には、凝ったライティングが施されたテラスと中庭。
その向こうにはガーデンプールの青い水面がゆらめいている。
「……カーテン、開けたまま寝てもいいか?」
寝転んでしまえばどうせ空しか見えないけれど、それを咎められることはなかった。
「お好きなように」
その後、部屋に流れた沈黙は重くもないかわりに心地良くもなく、本当にただ静かなだけだったけれど。
清潔に整えられたホテルの部屋に、漂うかすかな甘い香りに酔いながらベッドに潜り込んで。
そういえば、羽成は煙草なんて滅多に吸わないんだよな、と。
何故かひどく安らかな気持ちでそう思った。
「……今日、付き合わせて悪かったな。……おやすみ」
「おやすみなさい」
背中に穏やかな声が響くと、少しだけ体が軽くなって。
やっと、すべてを忘れて眠れる気がした。





迎えた朝は本当にあっという間で。
目を開けた時もまだ、脳裏には夕べの星空が鮮明に残っていたほど。
「起きられますか?」
ベッドから数歩離れた位置から羽成がこちらを窺っていた。
「……う……ん」
目を開けてから、何分経っただろう。
その間に脳がはっきりと認識できたのは、「空が青い」ということだけ。
しばらくは自分と現実が繋がらず、意識はただぼんやりとどこかを彷徨っていた。
「……何時?」
「もうすぐ八時です」
起き上がってみると、自分が思い込んでいたほどは怠くなかったけれど。
「念のため、もう一度熱を測っておいてください」
体温を確認した後、用意された朝食と薬と水をすべて胃の中に流し込むまで、羽成は俺から目を離さなかった。
「……おまえ、ホントうるさいよ」
人が見たら過保護だと言うだろう。
けれど、それは俺を心配しているわけじゃなく、主が生きていたら命じられたはずのことをしているだけだ。
「大丈夫ですか?」
もう、十河はどこにもいないのに。
「……多分ね」
この先もずっと続くのだろうか。
そんなことを思うたび、また何が現実なのか分からなくなる。




遅くならないうちに、とホテルを出たのが十時過ぎ。
会話のない車内に飽き飽きし、窓に張り付くようにして風景を眺めた。
晴天の空は東京に近づくにつれ、だんだんと色をなくして。
それが少しだけ寂しく思えた。
「家に帰る前に寄り道してもいいか?」
手の中でクルクルと携帯をひっくり返しながら、わけもなく気持ちが沈んでいくのを感じた。
「どちらへ?」
「ストラップ買うから、適当なところで下ろして」
このまま一日中羽成を引っ張りまわして、思いつく限りの物を片っ端からねだろうか。
頭の中でそんな愚行を描いた後で、いっそう薄暗い気持ちになった。
それでもこいつは何も言わずに金を払うだろう。
今でも変わりなく。
十河が生きていたら俺にしたはずのことを、ただ同じようにするだけなのだから。

もう、これで終わりにしようと決めて、有名ブランド店の前で車を止めさせた。
何万もするストラップを手に羽成を呼びつけ、当たり前のようにそれをねだる。
「これがいい」
十河の残した金があるのだから、こんなものくらい自分で買えるのに。
羽成はやっぱり何も言わず、そして俺の手に握られたストラップを見ることさえなく財布を取り出した。

十河の代わりに。
俺が欲しがるものを買い与えるために―――

会計を終えても礼は言わなかった。
十河にだって一度もそんなことをしなかったのだから。
それと同じなのだ。

「他に必要なものは?」
そう聞かれたけど。
「……もう、いい」
現実を確認するのには、これで十分。
ようやく決心して。
その翌日、吉留の事務所を訪ねた。




「今からでも大丈夫ですか?」
自分の保護者役には羽成以外の誰かをつけて欲しいと申し出た時も、吉留は別に驚いたりはしなかった。
「それは構いませんが……理由をお聞きしても?」
コーヒーの入ったカップをテーブルに置くと、穏やかな笑みを湛えたままそう尋ねた。
理由らしい理由なんてない。
だが、それでは納得しないだろう。
どんな答えなら信じてもらえるのか分からず、しばらくの間沈黙したけれど。
「……早く忘れたくて」
羽成の顔を見るとどうしても思い出すから、と。
なんとなく頭に浮かんだ言葉を口にしながら、それも理由の一つには違いないとぼんやり思った。
「……そうですか。彼に任せるのが一番良いだろうと判断したのですが」
仕方ないですね、と言いながら頷く様子がひどく落胆しているように見えて、なんだか不思議な感じがした。
「それで、羽成さんにはご自身でお話しになりますか?」
問われる間も顔を上げることができなくて、昨日買ったばかりのストラップを弄びながら首を振った。
このまま放り出しても吉留なら上手く当たり障りのない言葉を選んで伝えてくれるだろう。
厄介ごとを他人に押し付けているだけと承知しながら、そんな自分に呆れ果てる気力もない。
「わかりました。では、夕方羽成さんがこちらにお見えになった時にでもお伝えしておきましょう」
何かあったらこれからも遠慮なく来てください、と。
そんな言葉で送り出されて。
「……ありがとうございます」
形ばかりの礼を言って、逃げるように事務所を後にした。


後日紹介された「監視役」は、吉留よりもさらに年配で人当たりの良さそうな男。嫌な印象は持たなかったけれど。
「よろしくお願いします」
まともに顔を合わせたのは挨拶をした時くらいで、あとは週に一度の電話で健康状態や近況を尋ねるだけの仕事しかしなかった。
それが何かの役に立っているとは思えなかったけれど。
正直なところ、その希薄な関係に安堵した。

全て自分が望んだとおり。
羽成に会うことも、代わりの誰かに干渉されることもなく、ただ時間をやり過ごす。
平穏で退屈で、どうしようもない日々の繰り返しに全てが麻痺していくのを感じながらも、その淀みから抜け出そうと思うことはない。
木沢に声をかけられたのは、そんな時だった。



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