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 「……どこ行くかな」
 予備校のトイレで私服に着替え、持ち物をロッカーに放り込むと、地下鉄の駅に向かった。
 十河が死んだ後も、表面的には何も変わらず、このまま今の成績を維持すれば大学への持ち上がりは決まっていた。傍からはむしろ順調に見えたかもしれない。
 予備校に行くのだってただの時間潰しで、周囲が言うように決して「勉強熱心だから」などではなかった。
 忙しさに紛れていればあれこれ考えずに済むというだけの理由。
 自由で、退屈で。
 なのに、気持ちのどこかはいつも苦しい、そんな日々でしかない。
 夜になれば発作的に繁華街に足を向け、酒を呷る。
 そんなことをしても気分が晴れるわけではなく、もういい加減行き詰まっていることも感じていたけど。
 うんざりしながらも全てを断ち切ることができなかったのは、十河が遺してくれた部屋で空を眺めることに未練があったせいかもしれない。
 
 
 違う駅、知らない通り、見慣れぬ看板。当てもなく街をふらついて、なんとなく目に留まった店のドアをくぐる。
 毎夜繰り返される行為も、実際は表面の皮一枚が違うだけ。中身は少しも変わらない。
 顔見知りのいない場所で酩酊し、意識の大半を麻痺させてベッドに戻る。それだけのことだ。
 「いらっしゃいませ」
 足を踏み入れた途端、妙な趣味の内装に眉を寄せ、同時に前にも一度来たことを思い出し、心の中で舌打ちをした。
 ほんの少しでも誰かの記憶に残りたくない。
 無意識のうちにどこかでそう思っていた。
 店側にしたら常連でもない客のことなどいちいち覚えてはいないだろうが、それでもわざとらしくない程度に前髪で目元を隠し、案内にきたフロアスタッフに「できるだけ目立たない席がいい」と希望を告げた。
 こちらの挙動を不審に思う様子もなく、カクテルメニューを抱えた男はいかにも接客という微笑みを浮かべながらカウンターの隅を指し示した。
 「あちらへどうぞ」
 一度は離れた視線が再び自分の顔や衣服に戻り、盗み見るようなその目が俺の年齢を推し量る。
 疑っているのは明白だったが、最終的には何食わぬ顔でビールを運んできた。
 「どうも」
 細かい水滴で曇ったグラスに口をつけ、もう一度辺りを見回す。
 もっと強い酒にすればよかったと後悔しながら目で店員を探し始めた時、不意に肩を叩かれて心臓が跳ねた。
 「未成年の飲酒は法律で禁じられていますよ。お一人ですか? 親御さんは?」
 繁華街と言っても高校生がごちゃごちゃとたむろするような場所じゃない。
 やはり少し不自然だっただろうかと内心冷や汗をかきながらも、何食わぬ顔を装って振り返った。
 けれど。
 「こんばんは、氷上君」
 立っていたのは見覚えのある男。
 「……木沢、さん……」
 にっこりと笑って会釈をした相手はいかにも仕事の帰りといった様子で、アタッシュケースのようなカバンにきっちりと着込んだスーツ姿だった。
 相変わらず掴み所がなく、不思議な空気をまとっていたが、こういう場所で会ってもやはり弁護士という職業を感じさせる。
 「久しぶりだね。元気そうで何よりだけど、その恰好で堂々と飲酒は感心しないな」
 指摘されて改めて自分の服を見たが、特別子供染みているわけでもない。
 少し離れたテーブルにいる大学生らしき集団に交じったら、すんなり溶け込める自信があった。
 「ごく普通の服装だと思いますが」
 いくぶん強気な口調で言い返したけれど、木沢はニッコリと笑って俺の手からグラスを取り上げた。
 「そう、とても普通だよ。でもね、普通の服っていうのは高校生が着ると高校生に見えてしまう。目立たずに飲みたいなら、もっと同世代の人間がたくさん集まる店に行くか、せめて新入社員系のスーツにするべきだね」
 それなら人目を引くことはないし、万一の時も店の人間が言い訳しやすいだろうと妙な忠告をしてから、木沢は中味を飲み干した。
 「弁護士がそういうことを勧めてもいいんですか?」
 突っかかり気味の言葉にも口元の笑みを絶やすことはなく、
 「全ての弁護士が道徳的とは限らないってことだよ」
 さらりと言い切って、傍らの伝票を手に取った。
 「それにしても、夜遊びと酒が過ぎるとは聞いてたけど、わざわざ外に出て一人で飲むほどとは思わなかったな。酒は強いんだろうけど、身体は大丈夫なの?」
 覗き込むようにこちらを見る。その表情からその意図を見極めようとしたが、店内はかなり薄暗く、微妙なニュアンスまでは読み取れない。
 「説教するために声をかけたんですか?」
 ストレートに投げかけると、笑みを湛えたまま頭を振った。
 「そうじゃないけどね。……氷上君はもう18になった?」
 その質問に何の意味があるのだろうと訝しく思いつつ、「まだです」と手短な返事をすると、木沢は足元に置いていたカバンと伝票を持って席を立った。
 「時間、大丈夫なんでしょう? 場所を変えて飲み直そうか」
 不道徳な誘いを軽く口にした後、こちらの返事も聞かずに歩き出した。
 そのまま手際よく勘定を済ませ、さっさと店を出る。
 慌てて追いかけると、外にはもうタクシーが止められていた。
 「どこへ行くんですか?」
 「いくら悪徳弁護士でも未成年―――しかも高校生と外で飲むわけにはいかないから」
 部屋においで、と。
 場合によっては意味ありげに取れる言葉の後、そっと背中を押して車に乗るよう促した。
 「心配しなくてもすぐ近くだよ。事務所のあるビルの前から歩いて数分ってところかな」
 帰りは家まで送ってあげるから、と。
 子供に見せるような笑顔の意味を測りかねて、無意識のうちに目を逸らした。
 
 
 
 見覚えのある街の一角でタクシーを降りた。
 吉留の事務所が入っているビルも視界に入っていたが、フロアの明かりはもうまばらになっていて、昼間とは大分印象が違う。
 木沢はこんな都心に住んでいるんだろうかと思いながら、ぼんやりと夜空を仰いでいたら、不意に肩を抱かれた。
 「どうしたの? 入っていいよ」
 いつの間にか入口のロックは解除されていて、開いたドアの向こうに天然石を敷き詰めたエントランスホールが見えた。
 「五階の一番奥だから」
 動いていることを感じさせないエレベーター、廊下に敷き詰められたカーペット。
 隅々までホテルのような雰囲気で統一されたマンションは、いくら弁護士と言えど、簡単に借りられるものではないはずだ。
 「ずいぶんいい所に住んでいるんですね」
 小洒落たドアの前に立ち、斜め上方に取り付けられている監視カメラを見ながら尋ねると、木沢は軽く頷いた。
 「僕の部屋じゃないよ。事務所で借りてるんだ。向こうは人の出入りも多いし、いろいろと面倒でね。集中したい時はこっちでやってる」
 何かあったらいつでもおいでと言いながら、ドア脇のパネルに暗証番号を打ち込んだ。
 「散らかってるけど気にしないで」
 玄関先からキッチンも見えたが、使っている様子はない。
 客が来ることは意識されているのか、靴箱には新しいスリッパがいくつも並んでいた。
 メインルームも隅々まできちんと整理されていたが、デスクの上だけはまるで異質で、山積みのファイルとパソコン、ボイスレコーダーや盗聴器まで置かれている。
 気付かないうちに怪訝そうな顔をしてしまったのだろう。
 こちらの反応を窺っていた木沢が大袈裟に肩をすくめた。
 「我が職場ながら怪しい限りだね。とても法律事務所の分室とは思えない」
 ちょっとばかり道徳に反した職業の依頼者が多いから、いつもこんな感じなのだと笑った後、俺の肩に手を回して隣の部屋に誘った。
 「こっちだよ」
 メインルームと違ってこちらは生活空間らしく、グレーと黒で統一されたインテリアが若い男の部屋という雰囲気を醸し出していた。
 「適当に座って。もらい物が腐るほどあるから遠慮なく飲んでいいよ。吉留さんは酒はやらないし、溜まる一方なんだ」
 何をやらせても手際がよく、そつが無い。木沢はそういうタイプなのだろう。
 用意が整ったテーブルの上を眺めながらそう思った。
 グラスに氷を入れる時、カランと心地よい音を立てたのも、あるいはわざとなのかもしれない。
 注がれた茶色い液体がやけに美味そうに見えた。
 「すみません、何も手伝わなくて」
 ゆるい動作で顔を上げると、意味ありげな笑いを浮かべた木沢と目が合った。
 「氷上君、しばらく見ない間に落ち着いちゃったみたいだけど、僕には丁寧語なんて使わなくていいよ」
 学校の友達だと思って気楽にどうぞと、グラスを手渡された。
 「……別に落ち着いたわけじゃ……」
 言いかけたけれど、それさえ途中で面倒になり、続きを話す代わりに冷たい液体を飲み干した。
 
 
 その後は適当に相槌を打つだけ。どんなに会話を重ねても気持ちが入っていかなかった。
 「弁護士って面白いですか?」
 興味などないくせに、そんな話を振る。
 「仕事?」
 「そう」
 「どうかな。うちの場合、特にスリルを味わえる案件が多くて、かなり刺激的なのは間違いないけどね」
 命がけだから、と軽く笑う。そんな言葉にも本意は見えない。
 こういう職業だからなのか、それとも子供相手にリアルな説明をする必要はないと思っているせいなのか。
 「腹立つ客もいるけどね。頭からお茶ぶっかけたくなってもにっこり笑ってないといけない時もあるし」
 みんな君のようならいいのに、と。
 女でも口説くような甘い声が響く。
 「同じものでいい? それともワインでも開けようか?」
 手持ち無沙汰でなんとなく胃に流し込んでいるだけなのに、グラスが空になるたび現実は少しずつ遠くなる。
 「誘った甲斐があるよ。どんなにいい酒があっても、一人で飲むのはつまらないからね」
 曖昧に頷きながら、ふと頭を過ぎったものが何だったのか。
 自分でそれを突き止める前に、木沢がニコリと笑った。
 「羽成君は―――」
 その言葉に思わずむせ返りそうになったのをぐっとこらえて、顔を上げると悪戯な視線が絡みつく。
 「呼び方が変だったのかな。僕の方が年上だから、個人的な用事の時はいつも君付けだったんだけど。もういくつも店を経営する社長だし、その辺りも考え直さないといけないね」
 前にも誰かが同じようなことを言っていた。
 チラリと過ぎる派手なライターと赤い爪。
 木沢と違って、あの女の顔には、昨日までただの若造だと思っていた男がいきなり高級クラブの社長になったことが面白くないのだとはっきり書いてあった。
 「もっとも、傍目にどちらが落ち着いて見えるかを尋ねたら、彼に勝てるとは思わないけど。あれも十河氏譲りなのかな」
 最近一段と貫禄ついたよね、と話を振られたけれど、何も言えずにまた俯いた。
 記憶の中の羽成はストラップを買ったあの日で止まったまま。
 もうずっと声さえ聞いていない。
 「彼の店に行ったことはある?」
 「……外から見たことなら」
 たまたま店の名前を知って、ほんの出来心で立ち寄って。
 でも、外観からして一般人を寄せ付けない雰囲気で、ドアの前に立っている警備員に羽成の所在を尋ねることさえできなかった。
 「まあ、会員制だし、未成年一人じゃ入りにくいか」
 今度一緒に行こうか、と誘われたけれど。
 それも煮え切らない返事で断った。
 「そう? ……まあ、何もわざわざ僕と行かなくても、あらかじめ羽成氏に言っておけば顔パスなんだろうけど」
 ごく普通の、むしろ退屈なやりとりなのに、乾いた感情には容易に傷がつく。
 理由なんて自分でも分からないのに、苛立つのは何故だろう。
 「……羽成とは、もう―――」
 顔を見ることはもちろん、電話で話すこともなく。
 それどころか、今どうしているのかさえ知らないというのに。
 「へえ、そうなの。定期連絡くらいはしてるのかと思ったのに、ちょっと意外だな。彼が会いに来たことは?」
 「ないよ」
 「抜き打ち検査もなし? 世話役が変わった後も君の部屋の鍵は持ってるはずなのに」
 その瞬間、心の奥底に何かが突き刺さった。
 「……羽成が?」
 「そうだよ。聞いてない?」
 「何も―――」
 なぜ電話の一つもしてくれないんだろう、と身勝手すぎる問いが過ぎっていく。
 忘れたいのだ、と。
 そんな理由で、自分から遠ざけたくせに。
 「まあ、何にしてもこれで良かったんじゃないかな。彼も一番大変な時だし。君の今後を引き受けることを前提に店を譲り受けた以上、自分からは言い出せなかっただろうしね」
 俺のことなど、本当は早く切り捨てたいのだ、と。
 羽成はそんな話を木沢にしたことがあったのだろうか。
 全てを知っているような顔で告げられ、しばらくの間返事ができなかった。
 そんな条件を呑んでまで羽成が手に入れたかったのはどんな場所なんだろう。
 ここで聞いても何も分かりはしないだろうけど。
 それでも問わずにいられなくて。
 「羽成の……店って、どういう感じ?」
 視線を上げると木沢が微笑んだ。
 「会員制の、いかにも高級って感じのクラブだけどね」
 どんな内装で、広さはどれくらいで。
 そんな答えを予想していたのに。
 まるですっかり見通しているかのように、にっこりと笑った。
 「羽成氏にとってどんな店なのかって意味なら、『十河氏が一番大事にしていた場所』ってことだと思うよ」
 誰だって欲しい物のためなら、多少の面倒は仕方ないと思うだろう。
 それだけのことなのに。
 羽成が時間を割いてまで俺の世話を焼いたのがその代償だったのだと思ったら、酷く傷ついた気分になった。
 
 フッと息をついて、グラスに視線を落とす。
 もう帰ろうかと思い始めた時、空洞になった内面をかき回すように次の問いが降ってきた。
 「ね、氷上君。十河氏はどんなところが魅力だったの?」
 遠慮なく踏み込む木沢を疎ましく思うことはなかったけれど。
 話せば楽になるのだろうかというかすかな期待と、話したところで他人に分かるはずなどないという尖った気持ちが入り交じって、上手く言葉にならなかった。
 「……俺は……十河が外でどんなだったかなんて知らないから」
 「いいよ、氷上君に対してどうだったかってことで」
 死んだ男のことなど少しも興味はないくせに。
 なぜ俺から答えを求めようとするのだろう。
 「十河は……表面的には優しくなかったかもしれないけど、でも」
 口に出さなくても、欲しいものを差し出してくれた。
 自分でも気付かなかったようなものまで、全部用意して。
 なのに、「与えてやった」という顔をしたことなど一度もなかった。
 「ふうん。人の気持ちが分かる人だった……ってことかな。つまり、十河氏自身が欲しいと思った相手を落とすことなんて容易かったってことだね」
 それが事実だったとしても。
 俺には関係ない。
 「……別に、どうでも」
 
 ただ側にいてくれたら。
 それでよかったのに――――
 
 
 吐くつもりのなかった溜め息が漏れて。
 なんの前触れもなく木沢の手が俺の頬に触れた。
 冷たい指先がくすぐるようにそっと肌の上をすべって。
 顎の下まで来ると、少しだけ力を入れて床に落としていた視線を上げさせた。
 「まだ、全然忘れてないって顔だね」
 返す言葉がなくて。
 フイッと目を逸らすと、視界の片隅にうっすらと微笑む口元が映る。
 「君の、そういうところが可愛かったんだろうね」
 顎を離れて、首筋に落ちる。
 爪の先が胸元に触れた時、無意識のうちに払いのけて立ち上がった。
 「……帰るよ。明日も学校だし」
 何ヶ月もかけてようやく、十河がもう二度と戻ってはこないということを理解しはじめたけれど。
 そこから先へ進むことはできないまま、気持ちは今でも同じ場所を行ったり来たりしているというのに。
 今はまだ他人の手など煩わしいだけ。
 「送っていくよ」
 「……いい。タクシー拾うから」
 そんな遣り取りが耳を抜けていく、その傍らで。
 ふと、羽成は元気なんだろうかと脈絡のないことを考えていた。
 
 会いにいったら、どんな顔をするだろう―――
 
 魔が差したみたいにそんなことを思ったけれど。
 それもすぐに木沢の声に消された。
 「次回はもっとゆっくり話そう。泊まれるように準備しておいで」
 近いうちにまた誘うから、と。
 そう言われて。
 一瞬迷った後で、結局、わずかに頷いた。
 
 
 
 
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