運命とか、未来とか

-18-




二度目の誘いは、その翌週。
夕方、不意にかかってきた電話だった。
『よかったら一緒に食事でもどう?』
受験勉強の合間も息抜きは必要だよ、と。
それが表向きの理由であることも承知の上で、木沢の誘いに肯定の言葉を返した。
「……予備校あるし、終わるの遅いけど」
『いいよ。じゃあ、都合のいい時間に電話して』
車で迎えにいくからと、それだけ告げて電話は切れた。
確かに「また誘う」とは言っていたけれど、どうせ社交辞令だろうと思っていたのに。
「……OKするんじゃなかったな」
気乗りがしないまま、それでも全ての授業が終わるとメールを見ながら約束の場所に向かった。


待ち合わせは予備校の斜め前のコンビニの駐車場。
「こんな時間まで勉強なんて大変だね」
こちらを確認するなり片手を上げて微笑む男を見て、わずかに引いたのは車のせい。
「これ、いくらするんですか?」
シートベルトをしながら尋ねてみたが、木沢は笑ったまま軽く返した。
「分からないな。スポンサーからの貰い物だから」
いかにもな高級車を「貰い物」で片付けてしまえるというのはどんな神経なのだろう。
まともな弁護士でないことは承知していたが、正直言ってここまでとは思っていなかった。
「どうかしたの?」
こちらの躊躇いなど見透かしているくせに、わざとらしい笑顔を向ける。
けれど、それほど苛立つことがないのは、木沢の言動にあまり関心を持っていないせいだろうか。
「……車で食事って、行きはいいとしても帰りはどうするんですか?」
アルコール類は飲まないということなのか、それとも堂々と飲酒運転をするつもりなのか。
どちらにしても、この男はどうとも思わないだろうけど。
「今日は君が一緒だし、帰りはタクシー。事務所の近くの店だから、車は明日まで置かせてもらうよ」
いつもそうなんだ、と軽く笑って車を出した。

他人の命など惜しいとは思ってないくせに―――

そんなことを考えていると絶妙のタイミングで木沢が口を開く。
「君を乗せて飲酒運転なんて、うっかりどこかの社長さんの耳にでも入ったら怒鳴られるくらいじゃ済まないだろうからね」
意味深な笑みが口元に浮かんだが、ぼんやりしていたせいで言葉は素通りした。
やっと木沢の台詞が頭の中で意味を結んだ時、信号が赤になり、車は静かに止められた。
「……『どこかの社長』って?」
歩道を眺めながら聞き返すと木沢はおもむろに手を伸ばし、助手席のシートベルトを外した。
それから、そっと肩を抱き寄せると緩いキスを落とした。
点滅する歩行者用の信号。
横断歩道を渡る人たちがあれほど急いでいなかったら、一人くらいこちらに視線を向けたかもしれない。
気付かれたからと言ってどうというわけではなかったけれど、仮にも弁護士という立場なのに、ここまで人目を気にしない木沢の心中は理解できなかった。
車の波がゆるりと前に流れ始め、木沢の目線も正面に戻る。
「もちろん羽成氏だよ」
答えが返った頃にはもうすっかり先ほどまでの遣り取りを忘れていたけど。
それが何に対する返事なのかを思い出した瞬間、眉を寄せてしまった。
「羽成がそんなことで怒るはず……」
そもそも「もちろん」などと言われるような間柄でもない。
木沢は根本的に何かを勘違いしているんだろう。
呆れたように見返した時も、
「そうかな?」
こちらの反応を探るように、意味ありげな笑みを浮かべてみせた。




「まずは軽く食事をしよう」
そう言って車を止めたのは、重厚で風格のある外観の店だった。
会員制とまではいかなくても、ふらりと気軽に立ち寄れるような雰囲気ではない。
「お待ちしておりました、木沢様」
「久しぶり。無理を言って悪いね」
これみよがしな外観を裏切らないインテリア。
しかも案内されたのは奥まった場所にある半ば個室のようなスペースで、いかにも特別な客という扱いだった。
店員もほとんど目配せだけで木沢の注文を察し、目の前の男は俺に向かって微笑んでいるだけ。
「いつもこんなところで?」
高級車を贈るようなスポンサーがいるくらいだ。こんな場所での食事も当たり前なのかもしれないとさえ思ったが、木沢はおかしそうに笑い始めた。
「普段の食事はほとんど仕事をしながら簡単につまめるもので済ませるって感じだな。まあ、デートの時くらいはまともな店で食べたいよねってことで。……ワインでいい?」
会話の間も背中に店員の視線を感じた。
それなりに落ち着いた服を選んだつもりだったが、かっちりとしたスーツやドレスのようなワンピースという客層の中ではかなり浮いているのだろう。
「未成年と酒を飲むのはまずいんじゃなかったっけ?」
「誰も見ていないよ。それに、食事の時のワインは水と同じ扱いだから」
値段の書かれていないメニューから適当に選んだものは木沢の舌を満足させたのだろう。
だが、俺にその価値が分かるはずもなく、グラスの中で波打つ液体を無言で見つめていた。
「好きなだけ飲んでいいからね」
十河も金銭感覚に関しては相当なものだったが、世の中には案外こういう人種はたくさんいるのかもしれないと今さら思う。
「じゃあ、遠慮なく」
そう言って無作法に飲み干したが、その後で何故か溜め息が口をついた。
「心配しなくても大丈夫だよ。これくらいで氷上君の明るい未来に傷がつくようなことはないから」
気が塞ぐのは多分この時間が無意味に思えるせいだ。
現に会話をするのさえ面倒で仕方ない。
「そんなもの、別に―――」
一度だって考えたことがないのに。
そう思った瞬間、木沢がクックッと笑い出した。
「本気でどうでもいいみたいだね。自分の将来は気にならない?」
「ならないよ」
「達観してるって言うべきなのかな」
そう言葉を足した後も心底おかしそうに笑い続けた。



一時間ほどで食事を終えると、木沢は静かに席を立った。
「中二階がバーになってるんだ」
軽く飲もうと誘われて抜け道のような細い階段を上がると、夜の海を思い出させる黒と紺の空間が広がった。
正面の壁半分を占領する横長の窓からは、ライティングされた中庭と都心らしい夜景が見えた。
流れる音楽がわずかに聞こえるだけの静かなフロアには二組の客がいたが、どちらも男二人という組み合わせで、カップルが目立つ普通の店とは明らかに違っていた。
「ここ、テーブルにパソコンが繋げるんだよ。仕事帰りにちょっと寄って、飲みながら簡単な打ち合わせをする客が多いんだ」
言われてみると、確かに全員がスーツ姿。
ますます自分の存在が不自然に思えたが、木沢はまったく気にしていないようだった。
「弁護士の仕事相手は大人だけじゃないからね」
従業員全員が木沢の職業まで知っていて当然と言わんばかりの口ぶりに思わず乾いた笑いが漏れる。
だが、こういう店に好んで出入りするような人間なら、少なからずそういう部分があるのかもしれない。
「ちゃんと家まで送るから、安心して飲んでいいよ」
テーブルに並べて置かれたボトルとグラス。
これを空けるまでの間、また気持ちの入らない会話を適当に流すのかと思い、うんざりしかけた時、木沢が思いがけない問いを発した。
「お母さん、自殺なんだって?」
「え……?」
いきなりそんな話題を振られるとは思っていなかったから少し面食らったものの、気分を害することはなかった。
母親の死など、別にどうでも良かったからだ。
「ああ……うん。ずっと死にたがってた」
表面的にはうまくいっている時期でさえ、息子である自分を通り越してどこか別の場所を見ていた。
精巧に作られた人形のような瞳は、永久にあの男以外に向けられることはないのだと、子供心にどこかで感じていた。
だが、祖父母が残した資産のすべてを注いで尽くした相手には、結婚前から付き合っていた女がいた。それを知った彼女にはあんな結論しか出せなかった。それだけのことだ。
「お母さんのこと嫌いだった?」
「別に何とも。けど―――」
我知らず溜め息が漏れ、憂鬱な気分が押し寄せる。
幼い頃からずっと父親にも母親にも似ていないと言われていたけれど、月日を重ねるにしたがって、彼女の気持ちだけが分かるようになっていく。
受け継いだ血の重みを、いつか思い知る日がくるのかもしれない。
「……似てるんだ。自分の中の整理ができないところとか、そういうのが」
何かに追い詰められたとか、苦しみから逃げ出したいとか、そんなものは一切なくて。
目の前にはただ淡々とした日々が平穏に横たわっているだけだというのに。
ごちゃごちゃになったままの自分が嫌で、いつか何もかも捨てたくなる時が来るかもしれないと思う時がある。
彼女と同じように―――
「別に、真剣に生きていくことが恰好悪いとか、そんなことは思ってないんだけどね」
ただ。
この先は、もうなくてもいいと思う。
十河が死んでから、そんな気持ちは一層強くなって。
ふとした瞬間、血溜まりに横たわっていた彼女の姿と重なっていく。
「こんなこと話したら、医者に行けって言われるんだろうけどね」
母親の言動が歪み始めた時、父親は俺まで一緒に病院に入れようとした。
子供の面倒を見るのが嫌だったのか、あるいは、俺が母親に似ていることに気付いていたせいなのかはわからないけれど――

しばらくぼんやりしてしまったのだろう。
視線を感じて顔を上げると、木沢がにっこりと笑った。
「これじゃ、十河氏が心配するわけだね」
また不意を突く。
その話が苦手なことは承知しているはずなのに。
「十河は俺の心配なんて―――」
「してたよ。最期までね。現に彼の『愛人』で遺言に名前があったのは君だけだ」
羽成氏は何も言ってなかったの、と問われて首を振った。
「ということは、吉留さんが渡した空き地の住所に天井が透明の家を作って君にあげるって話も聞いてない?」
今は羽成の名義だというあの場所に、そんな予定があったことにも驚いた。
「十河氏は意外とロマンチストだったと思うよ。君が喜ぶ顔が見たいなんて言ってあれこれ用意していたくらいだからね」
来るたびに「欲しい物はないか」と尋ねた。
理由なんて考えたことはなかったけれど。
「君が空ばっかり眺めているから、現実世界にあるものに関心を持って欲しかったんじゃないかな」
いつだって予告もなくフラリと現れて、乱暴に抱くだけ。
部屋に転がっていた酒や煙草を咎めることもなくて、およそ心配などしているようには見えなかった。
そんな十河の気持ちの裏側。
どれほど気にかけていたのかなんて。
今になって知っても、どうすることもできないけれど。
「……ふうん」
大きな窓から空の見える部屋。
寝転ぶと、空と風になびく背の高い草しか見えない場所。
「俺、気に入られるようなこと、何にもしてないのにな……」
十河が残してくれたものを思いながら。
ただ、愛されていたのだと自惚れておけばいいのだろうか――――



滲んだ視界に木沢の笑みが見えて、フイッと顔を背けた。
「冷めてるように見えるのに、よく泣く子だね」
頬を拭う指と、深く塞がれる唇。
「もう、十河の話は―――」
全てはもう過去のことで、どうすることもできない。
そんなことを何度も確認しながら。
なくしてしまったものを現実として少しずつ理解していくけれど。
それと同時に眠っていた感情がゆっくりと覚醒して、何かを蝕みながらじわじわと喪失感に変わっていく。
「今日はもう送っていこうか? 一人でいたくないなら僕の部屋に泊まってもいいけど」
どんなに望んでも、もう二度と会えないのだ、と。
思うことが、苦しくて、悲しくて、どうしようもなくて。
「……帰るよ。一緒にいても他のことは考えられそうにないから」
最後に共に過ごしたあの日、あの朝。
十河を引き止めていたなら、未来は変わっていただろうか。
今でも、その隣りにいられたのだろうか、と。
そんなことばかり。
思わずにはいられなかった。



その夜、一人になってから羽成に電話をかけた。
けれど、何度かけても繋がることはなくて。
泣くことも眠ることもできなかった。



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