運命とか、未来とか

-19-




翌日、定期連絡の日でもないのに監視役の男がマンションを訪ねてきた。
しかも、思いきり早朝だった。
「……なんですか、こんな時間に」
不機嫌というわけでもなかったが、寝起きでひどくぼんやりしていて、ドアにもたれていなければ立っていることさえできないような有様だった。
空が白むまでずっと眠れなくて、ついさっき浅い夢に入ったばかり。
うとうとし始めてからまだ一時間も経っていないというのに。
「羽成さんがどうしてもすぐに様子を見てくるようにとおっしゃって……」
そこまで言われてやっと、何度も電話をかけたことを思い出した。
尋常な回数じゃなかったことは自分が一番良く分かっている。
鬱陶しく思うのはむしろ当然のことだ。
「……じゃあ、『酔っ払ってました。すみません』って伝えてください」
そんな伝言だけで済ませるにはあまりにも人騒がせな行為だという自覚はあったが、どうにも頭が働かず、それ以上の答えは浮かばなかった。
「そうですか。でしたらいいのですが……随分とご心配されていましたので」
だったら自分で来ればいいのに、と。
咽喉まで出掛かったが言葉にはできず、ペコリと頭を下げて男を見送った。


「まったく……―――」
足を引き摺るようにしてベッドルームに戻るとバフッと布団の上に倒れこんだ。
薄目を開けて見た空は青々としていて、もうすっかり朝だということを物語っていたけれど。
羽成に会いたいという気持ちはまだうっすらと残っていて、そんな自分をまた持て余した。
「もう一回かけて『今から来い』って言ったら、あいつ、どうするかな――」
眠気に紛れてそんな考えが過り、心底呆れ果てた後、「もう忘れよう」と口の中で呟いて無理矢理まぶたを閉じた。




それからしばらくの間は木沢のことも忘れていた。
もう二度と誘ってこないだろうと心のどこかで思っていたが、翌々週にはまた電話がかかってきた。
『今夜の予定は? 食事の後、羽成氏の店で飲まない?』
行ってみたいでしょう、と言われて、なぜかドキッと胸が鳴る。
「別……に」
言い淀んだせいなのか、電話の向こうで木沢が笑みを殺すのを感じた。
『まあ、社長が店に出てるとは思えないから、心配しなくても本人に会うことはないだろうけどね』
―――別に会いたいわけじゃない
反射的に咽喉元まで出かかったが、それではわざわざからかうためのネタを提供してやるようなものだ。
眉を寄せながらも一旦口を閉ざしたけれど、その後で短い承諾を返した。



前回と同じ時間、同じ待ち合わせ場所。
予備校のすぐ傍なのだから、知り合いに会ってしまうのも当然といえば当然だった。
「あれ、氷上じゃない?」
木沢の車の前に立っていたのは同じクラスの女。
他にも二人いたが、そちらは知らない顔だった。
「弁護士のセンセだって言ってたよ? 氷上とどういう関係?」
もらったばかりの名刺をペラペラと弄びながら、露骨に怪訝な顔をされた。
木沢は……といえば、この間とは別の、もっと言うならさらに高そうで派手な車にもたれて意味ありげに笑っているだけ。助けてくれる気などさらさらなさそうだった。
「……ちょっとね」
面倒くさいと思ったのが顔に出ていたのだろう。
木沢はおかしそうに笑うと彼女たちに向き直り、「仕事の途中だから」と柔らかい口調で詫びを入れた。
「じゃあ、行こうか、氷上君」
目線で助手席を促し、ドアが閉まるのを待ってゆっくりと車を出した。


「同じ予備校の子?」
彼女たちが見えなくなってから、木沢が口を開いた。
そういえば一度も予備校の中で見かけたことがない。
「違う。学校の」
「そう」と短く答えた木沢の機嫌は悪くなさそうで、この様子だとあとは勝手に一人で世間話をするだろうと思って息を抜いたが、その気の緩みを突くように思いがけない問いが降った。
「氷上君、もしかして女の子が嫌い?」
一瞬言葉に詰まって、反射的に隣りを見てしまったけれど。
「……嫌いじゃないよ。好きでもないけど」
同じ年頃の人間は性別問わずに苦手だと話すと、木沢はその理由も尋ねてきた。
「別に、理由ってほどのものは――」
大人なら愛想なんて悪くても「今時の子は」で済ませるのに、年が近いとそうはいかない。それが面倒なだけだと正直に答えた。
「なるほどね。自称『友達』は君の意思とは関係なく、強引に距離を縮めようとしてくるから鬱陶しいってことか」
分かるような気はするけど、と言いながら、チラリと視線を投げて寄越す。
「僕は大人だから、そんなことしないよ」
「……わかってるよ」
木沢の誘いを受けるのは、多分そのせい。
面倒なことを「面倒だ」と言ってしまえるのが楽だからだ。
そんなことを考えた直後。
窓の外を流れる街並みを眺めながら、自分はいったい何に対して言い訳をしているのだろうとハッとした。



食事の後、すぐには目的の場所へ行かなかった。
「少しドライブしようか。大学生になったら彼女を連れていってあげられるようなところがいいね」
楽しげな口調で前置きした後、夜景の綺麗な場所や朝まで営業しているという小洒落たカフェを転々とした。
ようやく車が店の駐車場に滑り込んだのは、もういい加減日付が変わる時刻。
それまで欠伸をかみ殺していたのに、見覚えのある建物が目に入った瞬間、心臓がギュッと絞られるような錯覚に陥った。
「着いたよ。酒を飲む気なら未成年だってことは言わないようにね」
やけに早くなった鼓動を感じながら、木沢の後をついて重々しいドアをくぐった。
「いらっしゃいませ」
一瞬、ふわりと甘い風が抜け、独特の空気に足を止めた。
「大人の匂いがする?」
振り返った顔は意味ありげに笑っていたようだったが、店の雰囲気に圧倒されてしまい、まともに周囲を見る余裕はなかった。
「……そうかもね」
木沢が手にしていた会員証は全体が黒っぽくて隅に小さく銀色の文字で店の名が書かれているだけのシンプルなもの。
「普通はこのカードだけどね、特別待遇の客はロゴまで真っ黒なんだよ」
明るい所で見ないと文字が読めないというそれはかなり特別な客にしか渡さないらしい。
「吉留先生が持ってるんだよね。あの人、酒飲めないから滅多に来ないのに」
おかげで事務所名義で入れたボトルは飲み放題だよ、と悪戯な笑みが向けられた。
「それで……どう?」
「『どう』って、何が?」
「いい店でしょう?」
感想を求められたところで、普段は適当に目に付いたバーにふらりと入って漫然と飲んでいるだけの自分に良し悪しが分かるはずもない。
漂う空気が十河を思い出させるせいか、懐かしいような、それでいてどこか息苦しいような、微妙な気分だった。
「四つある店の中ではここが一番雰囲気がいいよ。いかにも密談のために用意されているような個室もなくて、ごく普通って感じだからかな」
ほどよく落とされた照明がやわらかく店内を映し出す。
テーブルについている女性はみな露出の少ない衣服で、どこか知的な印象を与えた。
「まあ、客はみんな『社長』か『先生』って呼ばれるような人種ばっかりで退屈だけどね。何にしても庶民が足を踏み入れる場所じゃないってことだな」
自分も「先生」と呼ばれる立場、しかも一千万は下らないだろうという車で乗りつけたくせに、どの口でそれを言うのかと思ったけれど。
木沢はこういった場所をよく思っていないらしく、終始別世界を遠くから観察しているような冷めた視線を投げていた。



スーツ姿の女性が酒の準備を終えると、木沢は「ちょっと二人で話したいから」と言って彼女を遠ざけた。
どうせくだらないことなんだろうと思っていると、さりげなく目線で対角にあるテーブルを指し示した。
「彼、知ってる?」
ゆるりと視線を動かすと、そこには見知った顔。
「事務所で会ったことがある」
確か村岡という名で、十河の盟友だと名乗っていたはず。
愛人なら大切な客の接待くらいしろと横柄な態度で命じた男だ。
「以前は代議士の秘書だったらしいけど、今は情報収集なんかをしてるらしい。こうやって見るとすっかり裏稼業って感じだけどね」
木沢はおそらく代議士の方を知っているんだろう。
村岡を見る目に憐憫が込められていた。
「つまり、体よく切り捨てられたってことか」
何気なくそう尋ねると、木沢がまた含み笑いを見せた。
「世の中のことには全く関心がないのかと思ってたけど、意外とそうでもないのかな」
まあその方が安心だけどねと言いながら、テーブルの下でそっと手に触れる。
咎めるつもりで視線を送ったが、木沢はいつものようににっこり笑い返しただけ。その後は何もなかったように話を続けた。
「代議士のほうは相当やり手らしくてね。彼がこんな仕事に甘んじてるのもそんな理由からじゃないかな」
表に出せない汚い部分を完璧に隠せるだけの力があるということなのだろう。
誰だって勝てない相手を敵に回したくはないよね、と告げた口調はそれを面白がっている様子だった。


しばらく二人で飲んだ後、トイレに行くと言って席を立った。
軽く顔を洗った後もまだ妙な酔いが残っていて、そのままテーブルに戻る気になれず、薄暗い店内をフラフラと歩き回りはじめた。
外の空気を吸ってこようかと思ったが、店員に尋ねると奥に風に当たるために用意されたスペースがあるという。
「こちらです」
案内されたのは中庭に向けてテラスのような作りになっている場所。
煙草を取り出して火をつけようとしたが、仕切りの向こうに先客がいることに気付いてまたポケットに戻した。
青白い薄明かりの中、床にチラつく影は二人分。
ひそひそと何か話しているのが漏れてきた。
そっと近づいて様子を窺うと、こちらに背を向けて立っている村岡の姿があった。相手は恰幅のいい中年の男。
煙草の火を借りるような仕草で交わされる、声を落とした会話の様子からしても相当親しい間柄なのだろう。
それを数分続けた後、村岡は作ったような笑顔で中年男を促した。
「そろそろお時間ですから、もうお車に―――」
十河の事務所に来ていた時とは別人のような態度。
ゆさゆさと体を揺らして歩いていく男を見送った後は、そそくさとどこかに姿を消した。

ああいう輩が出入りするにはそれ相応の理由がある。
いわゆるフロント企業とは違う位置づけで経営してきたから目立たないだけで、もともとは十河の息がかかった店。ただのクラブであるはずがない。
どんなに怪しげな密談が繰り広げられていても、従業員は見て見ぬふりをするのだろう。
世間話に見せかけた村岡の噂も、「顔見知りだからと言って迂闊に声をかけるな」という木沢なりの忠告だったのだろう。
「……そろそろ戻るか」
辺りに目を遣り、誰もいないことを確認した後でフッと息を抜いたが、見つからないように気を使っていたせいか身体が酷く強張っていた。
軋む足で踵を返し、賑わうフロアに出たが、その時、不意にドクンと心臓が鳴った。
受付方向から歩いてくる人影。
店は相変わらず薄暗く、しゃべっていたとしても声など聞こえるはずのない距離。
なのに、なぜ気付いたのか。
そこに立っているのが間違いなくそうだと確信した瞬間、呼吸が止まりそうになった。
「……社長は店に出ないんじゃなかったのか?」
動揺を抑えるため、一度足元に視線を落として大きく息を吐く。
ようやく顔を上げた時、羽成は先ほどの中年に名刺を渡しているところだった。
客を前にしても特別愛想が良いわけではない。
本当に何も変わらないなと少しだけ笑ったけれど。
もう二度とあの男が自分に傅くことはないのだと思った瞬間、見慣れたはずの横顔がすっと遠のいた気がした。
―――もう、帰ろう……
「疲れたから」と言って店を出て、大通りでタクシーを拾って。
その後はただ空を眺めながら、何も考えずに眠るだけ。


重い気分で足を踏み出した時、羽成が肩越しに振り返った。
本当に一瞬。
けれど、確かに目が合った。

―――羽成……

名前を呼びそうになって。
けれど。
その瞬間、こちらを遮断するように向けられた背が全ての熱を奪っていった。

仕事中なのだから当然だ。
自分に言い聞かせる間ずっとその場に立ち尽くしていた。
通りかかった者が訝しく思うのも無理はなかっただろう。
けれど、背中に降ってきたのは不審者にかけるものとは明らかに違う、特有の棘を含んだ声だった。
「お客様、社長のお知り合いですか?」
顎を高く上げ、見下すような目線を投げていたのは若い女だった。
下品にならない程度に体に沿ったスーツ。しっかりと手入れされた髪と爪。
年は俺とそれほど変わらないくらいに見えたが、しとやかに取り繕った見目に反して、やけに擦れた印象を受けた。
「社長にご用でしたら、こちらへお呼びいたしますが?」
先ほどとは少し異なる問い。
だが、どこか挑戦的な視線は変わらない。
「……いいえ」
後ろめたいことなど何もないのに。
辛うじて曖昧な否定を返した後は、逃げるようにその場を離れた。


「お帰り、氷上君。向こうに彼が来てるね」
もう知ってるだろうけど、と言って笑ったのは、多分こちらの表情を読み取ってのことだろう。
「年配の紳士はJ社の会長じゃないかな。隣はそのご令嬢みたいだけど、こういう店に愛娘を連れてくる理由ってなんだろうね。まさかお見合い?」
斜め向かいに座って水割りを作っていた女性に投げかけた問いは、「さあ、わたくしには」という言葉で控えめにかわされた。
だが、女の表情に浮かんでいたのはあからさまな肯定の色。
それに気付いた時、木沢がまたこちらを見てクスッと笑った。
「じゃあ、そう遠くない将来に結婚……なんてことになるかもしれないね」
その時は君も式に呼ばれるんじゃないの、と薄く笑った唇が問う。
苛立つようなことじゃない。
なのに、ツキンと痛みが走って、次の瞬間には口にしてはいけない言葉を吐き出していた。
「元ヤクザのところに大事な娘をやるとは思えないけど」
抑え切れない感情がざらついた声になる。
その間も、こちらに背を向けた羽成が何度も過ぎって苛立ちに変わった。
「まあ、その辺はね。向こうも健全企業ではないかもしれないし、あるいは娘だって手駒にするような人間かもしれないし」
なんとも言えないよね、と女性に同意を求めて笑いながらも、木沢は時折りこちらに視線を投げてくる。
「金回りのいい企業の社長令嬢でももらって、それと引き換えに出資を受けるっていうのもありがちな話だしね」
ただの世間話だ。
確かにそう思っているはずなのに。
その瞬間、自分の中で何かがプツリと切れた。
「羽成がそんなこと―――」
するはずがない。
確信を持って投げつけたはずの言葉も次の瞬間にはあっけなく崩されていた。
「この店は十河氏が特別大切にしていたものだよ。それを守るためだとしても有り得ないって言い切れる?」
冷ややかな声が耳を抜け、目の前から色が消える。
力の抜けた体を支えることができずに座り込んだ俺の前には、すぐに新しいグラスが置かれたけれど、とても手に取る気になれなかった。
「もっとも羽成氏に決まった相手でもいれば別だろうけどね」
俺と目が合うのを待ってから、わざとらしく遠い場所へ移動させた目線。
そこには、さきほど声をかけてきた女の姿があった。
華やかな笑顔で見つめている先には、席を立ったばかりの羽成がいて。
「羽成氏はああいう子が好み?」
「……さあ」
「彼が店の女と一緒に車に乗るのを何度か見かけたことがあるけど、あれは彼女だったかもしれないな」
煽るために投げかけられる言葉に会話をする気も失せて、その意思表示のようにプイッと視線を背けた。
早く帰りたい。
そう思っているのは顔に出ていただろうけれど。
木沢はまるでこちらの様子を楽しむかのように先を続けた。
「十河氏と好みが似てるって噂が本当なら、彼女って線もありだと思うけど」
どうかな、と問われて。
思い出したのは羽成の持ち物。
それを見る限り、確かに十河とは趣味が似ているような気がしたけれど。
「……羽成のことは―――」
俺には分からない、と言いかけて。
でも、すぐに口を閉ざした。
木沢からは「そう」という独り言のような呟きが返ってきたけれど。
それを聞き流してグラスの水滴を指でなぞっていたら、不意に顔を覗き込まれた。
「疲れた?」
週末だから無理もないね、と微笑んだ後、木沢はわざと手が届きにくい場所にライターを落とし、それを拾い上げるのに苦戦している女を横目に意味ありげな笑みを向けた。
そして。
「僕の部屋においで。……ただし、今日は君を帰す気はないよ」
耳元でそんな言葉を吹き込んだ。



Home   ■Novels   ■運命 MENU     << Back     Next >>