てっきり行き先はこの間のマンションなのだろうと思っていたが、タクシーは少し入り組んだ路地を縫うように進んでいった。
「着いたよ」
都心からは少し外れた閑静な住宅街。
目の前の細長い建物はデザイナーズマンションか何からしく、少し変わった外観をしていた。
「ここって―――」
「もちろん僕の部屋」
７階の一角、足を踏み入れた場所はまるっきりモデルルームのような印象で、事務所の側に借りていた部屋よりもさらに生活感がなかった。
「やけに片付いてますね」
「忙しくてなかなか自分の部屋に戻ってこられないから、散らかることがないんだよ。……って言いたいけど、本当は君を連れてくるつもりだったから掃除したただけ」
女の子の髪が落ちてたりすると冷めるかもしれないしね、と軽く笑ってスリッパを並べた。
「そんなに何人もいるんですか？」
その全部が一夜限りだというなら、気が咎めることもない。
けれど、まともに付き合っている女がいるというなら、踏み込みたくはなかった。
どうせ自分にとっては時間を潰すだけの相手。そのために誰かの幸せを壊すことはない。
「ここへ連れてくるような間柄の、ってこと？」
「そう」
買ったばかりのようなスリッパに足を入れながら頷くと、木沢は口元にゆるい笑みを浮かべた。
「そうだな……数えてもいいけど、正確な人数を知りたいなら少し時間がかかるかもしれないよ」
どうする、と。
木沢らしい問いかけに曖昧に頷いたけれど、そのとき心の大半を占めていたのは安堵だったかもしれない。
「……数えなきゃならないくらいいるっていうのが答えなら、それでいいけど」
木沢の生活に興味があるわけじゃないのだから、答えは最低限でいい。
「本当に冷めてるよね」
もう少し喜ばせてくれてもいいのに、と薄く笑ってそっと肩を抱く。
「先にシャワーを浴びておいで。着替えは用意しておくから」
開けられたバスルームの洗面台には真新しい歯ブラシが置かれていて、木沢が言っていた通り、最初からそのつもりだったことを物語っていた。



バスルームを出て、用意された服を着る。
木沢のものと思われるシャツは少し大きくて、いかにも清潔そうな香りがした。
濡れた髪を拭きながらリビングのドアを開けると、当然のように酒とグラスが並べられていた。
「何がいい？」
何種類ものボトルから、一つを選んで開ける。
ゆるやかなカーブを描くグラスが勝手に満たされていく。
「……俺、まだ何も言ってないけど」
「そうだね。でも、答える気がなさそうに見えたから」
確かにそれは当たっていたし、何度も返事を求められたら、きっと面倒になってすぐに部屋を出ていっただろう。
「気が向かなければ返事なんてしなくていいし、嫌だと思ったことは何もしなくていい。ここではお互いが好きなように過ごす。それだけ」
本当にそうしたら、他人と二人でいることが成立するはずはないのに。
そうと分かっていても、囁かれる言葉は虚ろな気持ちに刷り込まれていく。
まるで性質の悪い呪文のようだと思った。
「なんでも遠慮なく飲んでいいから」
そう言い残してバスルームに消えていく木沢の後ろ姿を眺めながら、無意識のうちに羽成と重ねている自分に気付く。
目が合った後、すぐに背中を向けるような奴なのに――
不愉快な記憶を洗い流すように、グラスの中身を一気に飲み干した。


「ハイペースだね。一人だといつもこうなの？ それとも今日は酔いたい気分なのかな」
寛いだ服装で戻ってきた木沢は、わずか数十分の間に中身が半分ほどになったボトルを眺めて笑ったけれど、すぐに別の酒を用意した。
「潰れても構わないよ。明日は僕も久々の休みだし、一日ゆっくりできる」
当たり前のように隣に腰を下ろし、「乾杯」と言って笑う。
いつの間にか体に回された手が薄い布越しにその温度を伝えた。
「華奢っていうわけじゃないけど……でも、まだ男の子って感じだね」
指が肩のラインを辿り、腕の輪郭を確かめる。
「……そうですか」
咽喉に流し込んだアルコール量に比例して酔いは回っていく。
その時にはもう、シャワーを浴びたばかりの木沢の手より自分の身体の方が温かいのだと自覚するのにさえ少しの時間を要するほどだった。
けれど、意識が掠れるばかりで睡魔は来ない。
今夜も深く眠り落ちることはできないのだろうと思うと酷く落胆した。
「……なんで俺に声をかけたんですか？」
どうでもいい会話をするために小さく口を動かす。
それだけの行為さえ、もう面倒になりかけているというのに。
なぜ自分はこんなことを尋ねているのだろう。
「気になる？」
唇を緩めて笑いながら、思わせぶりな様子で聞き返す。
「……少し」
木沢自身に興味はなかったけれど。
それを問うことで十河が自分を側に置いた理由が推し量れるなら、と。
そう思ったのかもしれない。
「そうだな……最初に見た時に可愛いと思ったから、かな」
羽成と吉留の事務所に行ったあの日、自分はどんな恰好をしていただろう。
木沢とは何を話しただろう。
記憶を手繰り寄せてみたけれど、やっと思い出すことができたのは紅い唇や置時計や冷めたコーヒー。
この会話に結びつきそうなものは何も浮かばなかった。
「それと、『何も欲しがらない子なんだろうな』って思ったのも理由の一つ」
相続の話にも無関心。十河が残した金もマンションもどうでもよさそうで。
羽成に言われた通りに答えてるのだけなのがあからさまに分かる態度だったと言ってまた笑う。
「『どうでもいいから早く帰りたい』って顔に書いてあった」
そんな性格なら、金も派手な生活も弁護士の恋人というステータスも、そして木沢自身のことさえも。
「何も欲しがらないんだろうって思ったから」
どんなに時間を重ねてもお互い深く入り込むことはない。
いつまで経っても、ただ身体を繋ぐだけの関係でいられる相手。
「そういう子が良かったんだよ」
にっこりと笑う唇はいつもどこかが冷めていて、ほんの少しも本心は見えない。
「……ふうん」
自分の声を遠くに聞きながら。
十河は俺の身体になど興味はなかっただろうとぼんやり思った。

記憶の中。
鮮明に残っているのは抱かれている時のことじゃなくて。
明日の天気の話をする俺の隣で、どうでもよさそうに煙草を吸う姿。
そのまま少し乱暴に抱き寄せることもあれば、触れ合ったまま眠ることもあった。
ただそれだけの、どうってことない時間。

「もしかして、また十河氏のこと考えてる？」
「……だったら、何？」
突っかかるような言い方に、木沢はほんの少し笑って。
それから、俺の生乾きの髪に手を伸ばし、ゆるく梳いた。
肌に触れる指先にゾクリとして身体を引くと、またその唇に笑みが浮かぶ。
「早く忘れた方がいい。世の中にはどうにもならないことがたくさんあるよ」
今さらどんなに望んでも叶わない。
それは俺だって分かってるけど。
「十河氏だけじゃなく、誰かの最期はその人が生まれた時から決まってるものなんだよ」
だから仕方ないのだ、と。
宥めるような口調が刷り込まれて呪文に変わる。
木沢なら、どんなに大切な人の死でも「仕方ない」という言葉で受け止められるのだろうか。
「けど、十河は刺されたばっかりだったんだから……もっと気をつけていれば―――」
もっと生きられたかもしれないのに、と。
今日まで何度同じことを悔やんだだろう。
「そんなものだよ。特に永久に何かを失った時はね。でも、たとえば君の言うとおりにその時をやり直せたとしても、結果は同じだったと思うよ」
そういうものなのだ、と。
木沢にしては珍しく真面目な顔で言い含め、それから、またそっと肩を抱き寄せた。



空になるたび、新たに注がれる茶色の液体。
自分がどのくらい酔っているのかも分からないまま。
いつまでこんなふうに時間を潰していけばいいのだろうと自身に問いかけた時、不意に鳴り響いた音にビクッと体が跳ねた。
「ああ、ごめん。電源を切っておけばよかったね」
聞き慣れない着信音が放つ違和感。
ウィンドウを覗き込んで立ち上がる木沢は苦笑いをしていた。
「ちょっと失礼」
携帯を掴むと立ち上がって窓辺に向かう。
部屋を出ていかないということは聞かれても困らない話なのだろう。
「……ああ、僕です。貴方も店にいらっしゃってたんですか？」
声をかけてくれたらよかったのに、と。
いかにもな社交辞令を口にして、木沢はこちらに背を向けた。
仕事絡みではなさそうだが、だからといって友人や遊び相手の類でもない。
そんな口調だった。
「ああ、彼ね……そう、ちょっと雰囲気のある子でしょう？」
時々こちらに向けられる視線と含み笑いは意味深だったけれど。
すっかり回ってしまったアルコールのせいで、頭の中をただ素通りしていった。
あと五分放っておかれたら眠ってしまうだろう。
ぼんやりとそう思った時、
「ええ、それでは、また」
軽い挨拶と共に電話は切れた。
「まったく世間が狭すぎて参るよ」
しっかりと電源を落とした携帯を一度こちらに見せてから、外した腕時計の横に置く。
「せっかくの夜に水を差したね。飲み直そうか」
濃すぎる水割りがグラスを満たし、条件反射のようにそれを受け取ったが、その瞬間クスクスという笑い声が耳元で響いた。
「大丈夫？」
「……何が？」
問い返しながら冷たい液体に口をつけようとすると、木沢の手がそれを止めた。
取り上げられたグラスはテーブルに置かれ、濡れた指先が顎にかかる。
「どんなに飲んでも顔には出ないのかと思ったけど、今日は綺麗に染まったね」
言いながら、ゆっくりと唇を塞いで。
それから、また瞳を合わせた。
「そろそろベッドに誘ってもいい？」
視線の先。
開け放されたドアから、寝室の明かりが漏れて。
気だるさと同時に身体に熱を感じた。
「……弁護士っていうのは、みんな善人だと思ってた」
「善人かどうかは職業とは関係ないよ」
「そうみたいだな」
部屋に来ることを承諾した時点でＯＫしたのと同じこと。
今さら拒むつもりもなかったけれど。
「羽成氏はどう？」
少しずつ増していく酩酊感のせいで、木沢がここでその名前を出す理由も分からないまま。
「……俺のこと、嫌ってるよ」
自分の声が遠く聞こえて、フッと目を閉じた。
どんよりと淀む記憶の中。
引っぱり出した横顔はどれも不機嫌そうで。
本当は今でも。
俺なんていなければいいと思っているような気がしてならないのに。
「十河が生きていて、俺のこと殺していいって言ったら、あいつは喜んで俺の首絞めると思うよ」
意識が霞み、時間の経過も麻痺して。
なのに、背を向けた羽成だけはまだ深く鮮かに刻まれたまま。
「彼の話をする時は一段と投げやりだね」
本当にどういう仲なんだろうね、と問うその笑みが、やけに気分を逆撫でした。
「何度も言っただろ。羽成とはそういうんじゃ―――」
どんなに声を荒げても木沢の表情は変わらない。
「分かってるよ。ちょっとからかってみただけ。それに、彼にそういう趣味がないことは十分承知しているから」
十河が俺を囲った時も露骨に呆れ果てたくらいだから、と。
笑って告げられた言葉に心臓を抉られた。
「……そう……なんだ」
身体から力が抜けてぐったりと天井を見上げていると、目の前の唇がゆるくほどけた。
「ねえ、氷上君。羽成氏、下の名前なんて言うの？」
また。
知っているはずのことを問う。
「な……んで？」
「別に。ちょっと聞いてみたくなっただけ」
その意図に気付く事もないまま。
「……ひろ……ちか」
答えると木沢はまた笑って、それから、俺の体をソファに横たえた。
「素直だね」
「……何が？」
曖昧な表情の裏側。
「さあ、なんだろうね？」
悪戯な笑みを隠すように唇を塞いで、めまいがするほど深く呼吸を奪っていく。
「ん……っ」
もがくようにしてやっと顔を背けると、火照った頬を少し冷たい手のひらが包んだ。
「Ｓｅｘは嫌い？」
「……別に」
よかった、と。
かすかに笑ったままの唇がまたやわらかく肌に触れて。
「じゃあ、ゆっくり楽しもう」

そんな言葉に頷いたかどうか、自分でも覚えてはいなかった。
けれど、差し出された手に引かれるままベッドまで歩いていった。