目が覚めた時、日が差しはじめた部屋には薄く白い筋が流れていた。
「おはよう。もしかして煙は苦手?」
無意識のうちに顔を顰めていたのだろう。木沢はそんな問いと同時にまだ長い煙草を揉み消した。
「……そんなことない。自分でも吸うし」
気持ちが曇ったのは、記憶の向こうにこんな朝を見つけてしまったせい。
違う季節、別の場所、他の相手。
似たような風景を重ね合わせても、深く刻まれたものと混ざることはない。
溶けていくように広がる煙を眺めていると、木沢はすべてを見透かしたように穏やかな笑みを浮かべた。
「十河氏はヘビースモーカーだったでしょう?」
事務所でも良く吸っていたよ、と少し懐かしそうに告げた後で、そっと瞳を覗き込んだ。
「……どうだったかな」
言葉を濁したのは、大事にしまいこんでいたものの中に他人を踏み込ませたくなかったからだ。
あからさまに答えを避けても、木沢は笑みを絶やさず、穏やかに語りかける。
「羽成氏はあまり吸わないね。十河氏に勧められた時くらいだったかな」
吉留の事務所に来ると、十河は必ずと言っていいほど羽成にも煙草を勧めた。
そして、手持ちがなくなると今度は羽成のポケットから勝手に新しい箱を取り出した。
「とは言っても、羽成氏は自分が吸うためにポケットに常備してたわけじゃないんだろうけどね」
そんな話をする間も視線はこちらから外れることがなく、反応を見ていることは明らかだったけれど。
今はただ少しでも長く十河の記憶に浸りたくて、何も言わずに耳を傾けた。
「文字通り片腕って感じで、いつも連れて歩いてたから、十河氏のいないところで煙草を吸ってるのなんて見たことないかもしれないな」
不意に頭を過ぎったのは、十河の葬儀の日のこと。
隣に座っていた羽成は煙草を吸っていて。
俺は乾いた空気の中に白い煙が散っていくのをぼんやりと眺めていた。
「帰りたくなった?」
ただ開いているだけに思えたのに、瞳は無意識のうちに傍らに置かれた腕時計の針を読んでいる。
普段ならまだ深く眠っている時刻だったけれど。
「なんでそんなこと……」
「顔に書いてある」
仕方のない子だね、と笑った後、「送っていくよ」と言って立ち上がった。
何も纏わない背中には、はっきりと残る傷跡がいくつもあって。
「……うん」
誰にでも過去の一つや二つはあるのだと、鈍い感情で思いながら。
引き攣れた縫い痕が白いシャツにすっかり隠れるまで、目を離すことができなかった。
駐車場にあったのは最初に乗ったのと同じ車。
助手席のドアを開けると、かすかに香水の匂いがしたが、走り出すとすぐにそれも気にならなくなった。
こんな時間に起きていることに慣れていないせいなのか、静まり返った街並みがひどく現実感のない風景に見えた。
ふと思い出したようにダッシュボードの上に投げ出していた携帯のストラップを引き寄せ、切りっぱなしにしていた電源を入れる。
ウィンドウには着信があったことを告げるメッセージが並んでいたけれど、その番号には心当たりがなかった。
間違い電話だろう。そう決めて携帯を手放した後はやることもなくて、シートに体を預けたまま顔だけを窓に向けた。
「君の保護者が羽成氏じゃなかったら、僕も遠慮なんてしないのに」
こちらからの返事などまったく期待していないような口ぶりで木沢が呟く。
いつもの冗談だろうと思ったけれど、チラリと盗み見た横顔は笑ってなかった。
「羽成が怖いってこと?」
まさかと思いつつ尋ねると、あっけない肯定が返る。
「多方面から恐れられていた人間の私有財産と人脈のほとんどを受け継いでるんだよ。その上、あの性格だ。怖くないはずがない」
十河の時もそうだったように、俺は外での羽成がどんな男なのかを知らない。
「金と人間関係はともかく……羽成本人は怖くないと思うけど」
優しいと思ったことはなかったが、だからといって木沢の言葉に頷くこともできず、フォローとも言えないような曖昧な感想を返した。
「まあ、君は彼の敵になることはないだろうから、それを思い知る日は来ないだろうけどね。でも、以前の彼を知ってる人間なら少なからず僕と同じ印象を持ってるはずだよ」
ふうん、と気のない頷きの後、また窓の外に視線を投げる。
知らないことばかりなのは今にはじまったことじゃない。
けれど、心を過ぎる疎外感と諦めはあっという間に苛立ちへと変わっていった。
そんな空気を察したのだろう。
ハンドルを切りながら、木沢が話を逸らした。
「週末の早朝っていうのは静かでいいね。車も少ないから運転も楽しいし」
大半が眠ったままの街はすべてがぼんやりと白っぽい。
自分のマンションが見えてもまだ知らない場所のような気がした。
「着いたよ」
声をかけられてもまだ覚醒しきれない。
送ってもらった礼を言うことさえ思いつかないほどぼんやりしていたから、木沢がふっと笑みを漏らしたことにもすぐには反応できなかった。
「噂をすれば……だね」
言われて目を向けたのは、エントランスの脇にある駐車場。
見覚えのある車の横、煙草を吸いながら立っている人影はもうこちらに気付いているようで、指の間のそれを地面に落とすと、面倒くさそうに踏み消した。
木沢はクスクスと笑いながら「怖いな」と呟いたけれど、わざと羽成の近くで車を止めた。
「おはようございます、羽成さん」
木沢の挨拶にも羽成は目礼しただけ。
何一つ言葉は返さなかった。
いつもそんなだから別にどうとも思わなくて。
「じゃあ、氷上君。また」
悪戯っぽく軽く肩を竦めて車を出す木沢を、ただぼんやりと見送った。
曖昧にかすんだ風景。
音のなくなった駐車場に羽成と二人。
向かい合って立つ気になれなかったのは、目の前の男が不機嫌だったからじゃなく、昨夜の行為を後ろめたく感じているせい。
聞かなくてもここに来た理由は薄々分かっていた。
「……なんか用なのか?」
昨夜も店で見かけたけれど、こうして数歩の距離に立つのはやはり遠くから眺めるのとは違う。
まともに顔を合わせるのは何ヶ月ぶりだろう。
胸が詰まるような懐かしさの中で月日を数え、その裏側では、何もこんな再会でなくてもよかったのに、とため息をつかずにはいられなかった。
「木沢には気をつけてください。まともな仕事はしていませんから」
いつから待っていたんだろう。
足元には短くなった吸殻がいくつも落ちていて、また心臓を掴まれるような苦しさが広がった。
どうしても視線を合わせることができなくて、それがまた罪悪感に似たものを引き寄せてしまう。
ただ、『承知しているから心配しなくていい』と答えればよかったのに。
「……自分はどうなんだよ」
どうして突っかからずにはいられないのか。
うつむいたまま吐き出した言葉が、冷たいコンクリートに跳ね返る。
「素行調査はともかく、付き合う相手まで指図するのはやめろよ」
本心がどこにあるのかを知りたくて、余計な言葉で煽るけれど。
「分かりました」
あっさりと、しかも何の感情も含まない声が返って、突き放された気分になった。
勝手なのは自分。
ことあるごとに突っかかって、言わなくていい事ばかり口にして。
なのに、心のどこかでは、このままずっとこうしていたいと願ってしまう。
馬鹿だな、と思いながら。
溜め息を飲み込んでようやく顔を上げた。
その時、目に入ったのはわずかに緩められたネクタイ。
店にいた時と同じ服。
朝まで仕事をして、それからここへ来たんだろう。
心配してくれてありがとう、伝えるべき言葉を承知しながら。
「……それだけのこと、朝っぱらからわざわざ言いに来たのか?」
気持ちとは裏腹な棘ばかりが滲んで、また自己嫌悪に陥った。
沈黙なんていつものことだけれど。
長くなればなるほど気持ちの歪みは大きくなる。
耐え切れなくなって、部屋に上がるように言おうと決めた矢先、羽成は何の説明もなしに薄いグレーの封筒を差し出した。
「……なんだよ、これ」
中身が何なのかを問う前に運転席のドアは閉まり、車は動き出した。
手の中に残った封筒の中には、説明書のようなものと一枚のカード。
ただ真っ黒に見えたそれが、木沢が持っていたのと同じ会員証だと気付いた時には、不機嫌そうな横顔と共に車は視界から消えていた。
部屋に帰ってベッドに寝転んで。
「……本当に真っ黒なんだな」
カードの裏には店の電話番号。
妙な倦怠感で思考はまともに機能していなかったけれど、それが夜中の着信と同じ番号だということくらいは分かった。
『今からカードを渡しにいく』という連絡だったのか。
それとも『木沢とは付き合うな』という説教だったのか。
「……だったら自分の携帯からかければいいのに」
思わず文句を言って。
けれど、その時間、俺は木沢とベッドの中。
羽成だと分かっていても出ることはなかっただろう。
溜め息をつくたび、身体が深く沈みこむような錯覚に陥る。
複雑な気持ちでしばらくそれを眺めた後、重い体を起こし、カードを財布の中にしまったけれど。
結局、その後も羽成の店に行くことはなかった。
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