運命とか、未来とか

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木沢との付き合いを止められたことは、その後もずっと頭の片隅にあった。
けれど、それが理由で誘いを断ることはなかった。
ただ時間を潰すためだけに会い、食事をして、寝て。
朝、何もなかったかのようにマンションに帰って、気が向いたらまた会って。
その繰り返し。
羽成も知ってはいただろう。
けれど、あれ以来、口を出すことはなかった。


「で、今日はまた一段とぼんやりしてるけど、また彼に何か言われた?」
甘く噛まれた耳。
身体の中までくすぐられるような距離で響く声を聞きながら、ゆっくりと息を吐く。
「……別に、何も」
木沢の部屋ももう何度目か。
足を踏み入れた時にはベッドメイクされたばかりのようにピンと張っていたシーツも、一度熱を吐き出した今はあちこちが皺になっている。
「つまり、僕とのことは黙殺することにしたわけだ」
「……かもね」
投げ出していた手に木沢の指が絡むのをぼんやり眺めながら、このまま眠ってしまおうとしたけれど。
「まったく何を考えているのか分からない男だね」
煙草に火をつけながら、笑い始めた木沢の声に阻まれた。
会うたびに羽成の名を口にするのは俺が不機嫌になるのを面白がっているせい。分かっていても、返す言葉は自然ときつくなる。
「忠告はしたんだし、羽成の仕事はそこで終わりってことだろ?」
どんなに声を荒げても、木沢は穏やかに次の言葉を投げるだけ。
こちらの反応を窺うように。
ひどく楽しそうな顔で。
「でも、君が一人で夜遊びしてると迎えに来るんでしょう?」
「……知り合いの店で飲んでる時はね」
放っておいて欲しいと何度も言った。
けれど、いつだって俺の言うことなど黙って聞き流すだけだ。
「あいつの顔見るとなんかムカつくんだよな」
サイドテーブルに置かれた携帯は電源なんて切ってなかったけど。
あれ以来、電話がかかってくることもない。
「そんなこと言いながらも、彼からもらった会員証は肌身離さず持ってるあたりが君の可愛いところだと思うけどね」
身元の分かるものは一切携帯しないんじゃなかったの、と少し意地の悪い問いが投げられたが、それも数秒間の沈黙の後で笑いを含んだキスに摩り替わった。
「いきなり君を朝帰りさせたんだから、僕は相当嫌われてるだろうな」
あの日の羽成の顔でも思い浮かべたのか、木沢は本当におかしそうに笑いはじめて、
「僕らが来る前から苛ついてたみたいだからね」
そんな言葉の後、フッと白い煙を吐いた。

何ヶ月も経ったわけじゃないのに、あの朝の記憶はおぼろげで。
鮮明に残っているのは足元に落ちていた吸殻と緩められたネクタイだけ。
怒っていたのか、呆れていたのか。
後から何度も思い出そうとしたけれど、その表情はぼんやりとも浮かんではこなかった。
自分の記憶力の悪さに呆れたけれど。
実際は、羽成の顔を真っ直ぐ見ることができなかったせいだと後から気付いた。

「また彼のことを考えてる?」
今頃悔やむくらいなら電話でお礼だけでも言っておけばよかったのにと、こともなげに言ったけれど。
本当は、それができないからグズグズしていることくらい承知の上だったのだろう。
「あいつは俺と話すのが面倒なんだよ」
十河だって時々はくだらない世間話に付き合ってくれたのに、羽成との間にはいつだって必要最低限の会話しか存在しない。
どんな場面を思い返してもその大半は沈黙で、楽しい話をした記憶もなかった。
「まあ、確かに愛想はいい方じゃないけどね。でも、吉留さんとはいろいろ話してるよ。仕事以外のことも含めて」
「……ふうん」
共通の話題などあるのだろうか、と思った時、浮かんで来たのは十河の顔。
会社を継いだ人間がどうとか、幹部がどうとか。
簡単に全てを断ち切れる世界じゃないのだから、そんな話ならいくらでもできるだろう。
「とにかく、俺とは話さないんだよ」
ふいっと顔を背けるとまた忍び笑いが流れる。
「彼が君と話をしたがらない理由って何だろうね。過去に何か気に障るようなことを聞いたとか……そうだな、たとえば『彼女はいるの?』みたいな――」
その言葉に気持ちが塞がったのは、思い当たることがあったからだ。
「……『結婚してるのか』って聞いたことはあるけど。別に気に障るようなことじゃないだろ?」
その答えに、木沢は「なるほどね」と言って軽く頷いた。
「普通の人にとってはよくある世間話の一つでも、彼にとっての君は敬愛していた男の愛人だ。そういう関心を持たれるのは煩わしいんじゃないかな」
木沢の言うことは外れてはいないだろう。
十河が残した住所を訪ねていった日、羽成は一度もこちらを見ないままそれに対する返事だけを寄越して、その後はずっと無言だった。
「……また、そんな顔をして」
不意にかけられた指がそっと俺の顎を持ち上げる。
「見てると苛めたくなるよ」
可愛いけどね、と。
笑った形のままの唇が呟き、熱が引いたばかりの身体を抱き寄せた。
「明日は一人で夜遊び?」
「だったら何?」
「羽成氏が迎えに来た時に疲れた顔をしていると僕が怒られそうだから、今夜は早めに寝た方がいい」
続きは週末にゆっくりとね、と。
キスを落とした後、長い指が明かりを消した。





翌日、学校から真っ直ぐに帰り、テレビを見ながらコンビニで買ってきたものを掻き込んだ。木沢に見透かされたこともあって、たまには部屋で大人しくしていようと決めたからだ。
けれど。
「……まだ8時か」
動くものといえはテレビ画面だけ。
ニュースもバラエティー番組も少しもおもしろいとは思えなくて、結局、煙草が切れたことを理由に財布だけ掴んで部屋を出た。

一人でいるのが退屈なだけ。
何度か足を運んだ店の方が勝手が判る分、居心地がいいだけ。
自分に言い訳をしながら、いつものバーに足を向ける。
羽成の店からは歩いても十五分ほどの距離で、マネージャーは十河と旧知の仲。
以前からこちらの顔も知っていて、酔い潰れる前に必ず「保護者」のところに連絡をするような奴だった。
そこまで分かっていながらここに来るだって、決して迎えが欲しいからじゃない。
羽成の目の届かないところで酔い潰れて警察から呼び出しをくらうよりは、いくらかマシだろうと思うからだ。
「同じものでよろしいですか?」
声をかけられて顔を上げる。
返事をした記憶はなかったが、いつの間にかテーブルには新しいグラスが置かれていた。
ぼんやりとしたまま飲み続け、時々知らない男に声をかけられ、適当に答えて。
どこにいるのか分からなくなるほど酔っても、後ろでドアが開くたびに振り返って。
「お待ち合わせですか?」
尋ねられて首を振り、またグラスを空けて、テーブルを眺める。
無限にループするような錯覚。
時間の感覚が麻痺してくる頃、ようやくいつもの台詞が耳を抜けた。
「氷上様、お連れ様が――――」
店員の微笑みに深い溜め息をつきながら、ゆっくりと目を閉じて虚ろに答える。
「……連れじゃないんだけどね」
来なくていいのに、と呟きながら。
一方では、どこか弾んだ気持ちになるのを止められない。
全部自分の気持ちなのに、思うようにならないことに少し苛立つ。
「……もう、グチャグチャだな」
アルコールに紛れて、フッと乾いた笑いが漏れた時、背中に降ってきたのはわずかに不機嫌そうな声。
「今日はいくらかマシですね」
もういい加減うんざりしているのだろう。
それでも表情には出さず、傍らに立つ。
「……わざわざ厭味を言いに来たのか?」
悪態を吐くのもいつものことだけど。
見下ろしている目にも何か言いたげな口元にも本当の感情は見えない。
「いいえ」
とりあえず家まで送り届けておけばいい。
それなら十河との約束は果たしていることになるのだから。
羽成の心中はきっとその程度なのだろう。
「もう来るなって言ったはずだろう?」
「それは聞きました」
いつだってこんな。
「分かっている」と答えるくせに、守ったことはない。
まともに相手にされていないせいだと気付く程度には俺も大人になっていて、おかげでわだかまる負の感情は日を重ねるごとに酷くなっていく。
顔も見たくないと思う日があって。
なのに、一方ではどうしようもなく会いたい時があって。
「……もういい。おまえと話すとイライラするんだよな」
わざと音を立てて椅子を引き、席を立つ。
羽成を案内した店員に札と伝票を渡すと振り返りもせず店を出た。
「お送りします」
こんな言葉一つにまた突っかかって。
「必要ない。ちゃんと一人で家に行けるし、もし、帰れなかったとしても放っておいていい。その辺で潰れたとしても俺はもう15のガキじゃないんだから」
どんなに強い口調で吐き捨てても従うはずなどないと知りながら、それでも言わずにはいられない。
一人でイラついて、勝手に当り散らして。
「面倒だと思ってるくせに、心配してる振りなんてするな」
投げつけた言葉を後悔しながら。
タクシーを拾うと運転手にドアを閉めさせ、思い切り顔を背けた。
羽成はそれでも何も言ず、いつもどおりに俺を見送る。
動き出した車から振り返ると、どこか苛立ちを含んだ仕草で煙草に火をつける姿が遠くなっていった。

十河が生きていた頃はもう少しまともに話すこともできたのに。
どうしてこんなことになったのだろう。
自分に問いながら。
心の奥底で探り当てた感情は自分さえも傷つけそうなくらいピリピリと尖っていた。




車の窓に額を押し付け、回り始めた酔いを醒ましていると携帯が鳴った。
「K」とだけ表示されたウィンドウを見ながら、半ば惰性で通話ボタンを押す。
『羽成氏のご機嫌はどうだった?』
気だるい脳に飛び込んできたのはいきなりそんな言葉で。
会ったんでしょう、と笑い交じりに問われて憂鬱が増した。
「……別にいつもと同じ」
肺がすっかり空になるほど深い溜め息をつきながら。
時計を見ると日付はもう変わっていた。
『今、どこにいるの?』
羽成と一緒だったら電話に出ないことなど承知しているのだろう。
何の遠慮もなく次の問いが降ってくることに呆れながら、それでも正直に返した。
「タクシーの中」
なんでそんなことを尋ねるのかを確認するより先に、木沢から用件が告げられる。
『今から会えない? 実は苦手な相手が一緒で、ちょっと気詰まりなんだ』
相手が誰でもどんな言葉でも笑ってかわせるくせにと思いながら。
「……いいよ」
気付くとそう答えていた。
『じゃあ、この間の店で待ってるから』

木沢なら朝まで隣にいてくれる。
羽成との遣り取りも、苛立った様子で煙草に火をつける仕草も、何も思い出さずに眠ることができる。
ただそれだけの理由で。
「すみません。今来た道を戻ってください」
切れた電話を耳に当てたまま、行き先の変更を告げた。



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