店に着いた時、客はもうほとんどいなくて、ドアの辺りからでも木沢の姿は確認できた。
一緒にいたのは木沢と同年代の男。
遠目には険悪な雰囲気などなく、ただ楽しく飲んでいるようにしか見えなかった。

「こっちだよ、氷上君。早かったね。今、君の話をしていたところだ」
片手を上げて俺を呼んだ木沢はいつにも増して装った笑顔。
同じテーブルにいた男もそれを合図に立ち上がった。
「初めまして、氷上君。もうすぐ大学生なんて羨ましい限りだよ。できることなら俺ももう一度時間がたっぷりある生活に戻りたいね」
にっこり笑いかけた男の名は豊島（とよしま）。
木沢の大学時代の先輩で、やはり弁護士だと言う。
「大学を出てからは父親がやってる事務所で働いてるけど、まだまだ半人前扱いだよ。まあ、親から見たら子供なんていつまで経ってもそんなものなんだろうけどね」
本人の説明の通り、苦労知らずが顔に出ていて、木沢と比べると取り巻く空気がどことなく緩んでいるのは否めなかった。
たいして長くもない会話の間に何度もネクタイを整える。
そんな仕種にも落ち着きのなさが見えた。
「木沢とは大学時代からの付き合いだけど、まともに話すのはしばらくぶりなんだ。今夜も本当は事務所で―――……あっ」
話の途中、テーブルの上で突然鳴り出した携帯を掴み損ねた左手には結婚指輪。
「ちょっと失礼。仕事の電話だ。すぐ戻るから」
笑いながらそそくさと姿を消したが、チラリと見えた携帯のウィンドウに浮かび上がっていたのは女の名前だった。
「ごゆっくりどうぞ、豊島先輩」
木沢も気付いていたのだろう。
口元に浮かんでいたのは少し見下したような笑みだった。


「……『苦手な相手』って言ってなかったっけ？」
豊島がすっかり見えなくなってから切り出すと、木沢は悪びれた様子もなく笑顔を向けた。
「まあ、その表現は的確ではなかったかもしれないけどね。今度の仕事の関係でどうしてもご機嫌を取っておく必要があるんだけど、彼の話はつまらないし、間が持たなくて。悪かったね」
「……別に」
どうせそんなことだろうとは思っていたし、むしろそんなありきたりの理由だったことが意外だった。
あるいは羽成の様子を尋ねることのほうがあの電話のメインだったのかもしれないとまで思ったけれど。
「いつもなら軽く流すんだけどね。彼もかなりストレスが溜まってるみたいだから、仕事抜きで気楽に話せる相手がいいんじゃないかと。……それにね」
木沢はそこまで言ってから薄く笑みを浮かべ、声を落とした。
「実は、僕、彼が嫌いなんだよ」
もう分かってると思うけどね、と男の消えていった方向に視線を投げる。
その様子はいつもとなんら変わりなく見えたけれど、目には映らない薄暗い感情を含んでいることは明らかだった。


微妙な空気が流れる中、店員が水割りを置いていく。
テーブルに視線を戻した木沢はもうすっかり普段と同じ顔に戻り、にっこり笑うと長い指でそれをツッと俺の前に滑らせた。
「君のだよ。ただし、彼には『薄いウーロン茶だ』って言っておくように」
僕と違ってまともな弁護士だからねというわざとらしい注釈も、自分を卑下しているというよりは相手を侮蔑しているように感じた。
「はじめは女の子を呼ぼうかと思ってたんだけどね。それだと奥さんがうるさいらしいんだ」
だからね、と言われたけれど。
「……俺はご機嫌取りなんてする気はないから」
そうでなくても羽成とのことで苛立ちが抜けずにいるというのに。
こんな気分で初対面の相手とまともな会話ができるはずはない。
木沢はそんなことは百も承知していると言わんばかりに頷くと、
「いいよ。とりあえず座っていてくれれば。僕との関係はどう話しても構わないし、彼に気を遣う必要もない。向こうはもうかなり酔ってるから、あと三十分くらいでお開きにしよう」
腕時計を確認した後、テーブルの下に戻された手が俺の指を弄ぶ。
その後で子供に言い含めるようなゆっくりとした口調で足した。
「ただし、一つだけ覚えておいて欲しいんだけど」
木沢にしてはずいぶんと大袈裟な前置きだったけれど、中身は簡単な注意事項。彼の父親が大のヤクザ嫌いで、豊島自身もその考えを鵜呑みにしてるので言動には気をつけるようにというだけの話だった。
「彼が不愉快になるのはどうでもいいんだけど、あえて君の印象を悪くする必要はないからね」
俺が嫌な思いをしなくて済むように、と。
そう言ってから、木沢は不意に目を合わせて微笑んだ。
「……何？」
そっと伸ばされた手が頬に触れる。
「昼間は普通なのに、夜になると人目を引くね」
それほど暗くもない店内。
座っている席は一番奥にあるとは言え、周囲からは丸見えなのに、木沢はそのまま俺を抱き寄せるとやわらかく唇を合わせた。
元からこういうことは気にしないタイプではあるけれど、それにしても……と思いながら、そっと身体を押し戻すとフッと口元に笑みが浮かんだ。
その視線は確かに一度こちらに向けられたけれど、すぐに俺の肩を通り越してフロア中心部に移り、そこでピタリと止まった。
「お帰りなさい、先輩。仕事はもう大丈夫なんですか？ さすがに大手はあっちこっちから声がかかって大変ですね」
振り返った先には豊島の姿。
突っ立ったまま呆然としていた。
「え……ああ、いや、まあ……」
慌てる様子がよほど面白かったのか、木沢はしばらくの間忍び笑いをしていた。そして、豊島が席に着くまで適当な会話で繋ぐと、
「僕も事務所に電話を入れてきます」
そう言い残して席を立った。


「ええと……何か飲む？ と言っても未成年じゃアルコールは出せないけど」
急に二人にされて気まずかったのか、最初は落ち着かない様子で酒を呷っていたが、しばらくすると豊島は真正面からストレートな質問を投げた。
「木沢とは……その、そういう関係ってことなのか？」
アルコールはもう相当回っているのだろう。
グラスを弄ぶ手先は覚束ないくせに、その目は時折りチラチラと俺の首筋辺りを滑っていた。
「……ええ、まあ」
結婚指輪がフェイクなのか、それともバイセクシャルなのか。
何にしても木沢はそれを承知の上で俺と引き合わせたのだろう。
「なあ、木沢のどこがいいんだ？ あんな怪しげな事務所で働いてる男、身持ちだって決して良いとは言えないだろう？」
「そうみたいですね」
返事をする間も豊島の視線は片時もこちらを離れることはない。
あまりに露骨な態度が鬱陶しかったが、気付かない振りをした。
少なくとも自分の後輩と付き合っている相手を口説くようなことはないだろうと思っていたからだ。
なのに。
木沢が消えた方向をチラリと一度盗み見た後、豊島は堂々と誘いの言葉をかけてきた。
「よかったら今度二人で会わないか？ 大学は法学部なんだろう？ いろいろ教えてあげてもいいよ」
気が向いたら電話して、と言いながら、取り出した名刺には携帯の番号も印刷されていたけれど。
「プライベートは違う番号だから」
そう言って手帳を破くと、別の数字を書き込んだ。
「何かあったら遠慮なくどうぞ。大学に入ってちょっとハメを外したりして、出歩く回数が増えるとトラブルにも巻き込まれやすいだろうし。ほら、君が前に木沢と行った店、あそこも昔はヤクザとの繋がりがあったとかで―――」
時折り戻る理性がそうさせるのか、体裁のために足された言い訳を聞きながら、端々に漂う薄っぺらい正義感のようなものに反感を覚えた。
「いい店だと思っていてもそっち系につながりがあると幻滅するね。あんなのは世の中のゴミだよ。暴力団同士で潰し合って死に絶えればいいんだ。だいたいああいう人種は―――」
放っておくと延々と続きそうな悪口。うんざりしながら、いかにも全く聞いていないタイミングで質問を挟んだ。
「それより、今やってる仕事はどんなですか？」
あからさまに話の腰を折っても、その裏にある感情に気付くこともない。
アルコールのせいなのか、それとも元々そういう性質なのかは分からないが、どちらにしても配慮が足りない。
「今もそんな案件だよ。うちの事務所がこういう体質だからなのか、ヤクザに絡まれただの脅されただのって相談が多くてね。この間なんて―――」
得意気な口調のまま、こちらが部外者であることなどお構いなしに話を続けるつもりらしい。
だが、大半は退屈な自慢。欠伸をかみ殺すのも限界だった。
「すみません……ちょっと―――」
風に当たってくると言って席を立ちかけたが、不意に飛び込んできた言葉に意識のすべてを持っていかれた。
「そうそう、前にあの店の近くでヤクザを撃ち殺した男が、本当は脅されてやっただけだとかって大嘘を並べたこともあったな。あの時は―――」
豊島の声が遠くなって。
まさか、と思うより先に心臓がドクンと嫌な音を立てた。
「それって、いつの……」
「ああ、いつだったかな。担当じゃないから詳しいことは分からないけど。……もし興味があるなら、今度会う時に話してあげるよ。もちろん絶対に口外はしないって約束で」
勉強熱心だね、という取ってつけたような台詞の後。
「で、氷上君の携帯の番号は？」
当然のようにそう尋ねた。
その時、こちらを覗き込んだ豊島の目には今まで隠していたものが滲んでいた。



「遅くなってすみません」
軽い謝罪と共に木沢が戻ってきたのはそれから間もなく。
明日も仕事になったとぼやきながら携帯をしまうと、さりげなく伝票を取って席を立った。
「木沢の家はすぐ近くなんだよな？ 氷上君は？」
同じ方向なら、と言いかけた豊島を遮って、木沢が俺の肩を抱く。
「もう遅いですし、今日は僕のところに泊めますから」
わざとらしいほどの笑顔に豊島の眉がわずかに寄った。
「お疲れ様でした、先輩。お気をつけて」
先に止めたタクシーに豊島を乗せると、木沢は軽く一礼した。
車中の豊島は携帯でメールをチェックする振りをしていたけれど。
去り際に一度だけ何か言いたげな視線をチラリとこちらに投げて寄越した。



「お疲れ様。つき合わせて悪かったね」
もうすっかり馴染んだ木沢の部屋。ソファに足を投げ出すとグラスに注がれたワインを手渡された。
良くも悪くも本当の感情など見せない男だと思っていたが、今夜に限ってはやけに上機嫌で、よほど豊島が嫌いなんだろうということだけは俺にも分かった。
「君のこと物欲しそうに見てたけど、大丈夫だった？」
クックッと楽しそうに笑いながらグラスを空ける。
「実はそのために俺を呼びつけたんだろ？」
「まあ、そうなんだけどね。前に羽成氏の店で見かけたらしくて、君と話がしたいようだったから、ちょうどいいかなと思って。彼から聞きたい情報もあったし、『交換条件で』って言ったらあっさりＯＫしたよ」
馬鹿だよね、と言ってまた笑い転げる。
「で、彼に携帯の番号教えたの？」
それだって本当はどこかから見ていたんだろう。
頷くと「やっぱりね」という呟きが聞こえた。
「でも、彼にはもう会わない方がいい。不愉快になるだけだ。それに――」
「まだ何か……」
あるのかと問う前に、また笑みが返る。
「酔ってなくてもつまらない男だから、時間を割いて会う価値はない」
時間はもっと楽しいことに使うものだよと言いながら、二杯目を注ぐ。
木沢は相変わらず掴み所がない。
むしろ会えば会うほど分からなくなるな……と思いながら、隣に目を遣ると待っていたかのようにキスが落とされる。
「正直な所、彼の話は面白くなかったでしょう？」
いつもより口数が多いのは機嫌が良いからなのか。
それとも、もう抱くことに飽きて会話で間をもたせているだけなのか。
「もっとも僕だって暴力団がこの世に必要だとは思ってないけどね。実際、吉留さんなんか悪魔に魂を売ったおかげで、この先ずっと表の世界には戻れない」
この場合の『悪魔』は十河氏のことだけどね、と笑って告げる。
その言葉に棘のようなものは感じなかったけれど、それでもどこかにツキンと痛みが走った。
「そう……君にはまだ十河氏の名前は特別なんだね」
忘れたいと思うなら、十河の話なんてしない方がいい。
それでもやっぱり問わずにはいられなくて。
「十河が何を―――」
予想通りの反応だったのだろう。木沢は満足そうな表情を見せた。
「昔のことだからね。僕もあまり詳しくはないよ。家族のためにかなりヤバイ仕事を引き受けたってことくらいしか聞いてない」
どこまで本当なのかは分からなかったけれど。
たとえ全てを知っていたとしても木沢がそれを俺に話すことはないのだろうと思った。
「他人の人生に口出しするつもりはないけど、吉留さんには裏の世界は似合わないと思うんだよね」
曖昧な表情に紛れて見えたものは木沢の本音だったのかもしれない。
少なくとも、スリルや報酬のためにあの事務所で働いているわけではないのだという気がした。


その後しばらくは木沢も口を開かなかったけれど。
「……ああ、そうだ」
不意に思い出したかのように立ち上がると何かを持って戻ってきた。
「もしも彼に会うことになったらこれをポケットに入れていくといい」
渡されたものは手の中にすっぽり収まる小型の機械。
「……レコーダー？」
「そう。いざという時、君を守れるようにね」
世間体を気にする職業。なおかつ父親には名声もある。些細な醜聞も恐れる立場ならば、これで十分だと言う木沢の声は相変わらず笑っていたけれど。
「考えすぎだろ？ いざって時なんて―――」
どう見ても坊ちゃん育ちでプライドも高い。その上、木沢と違って世慣れた感じもしない。
厄介事になる前にいくらでも避けようがあるはずだと言ってみたが、目の前の男は軽く肩をすくめた。
「ロクに恋愛もしないで結婚した箱入り息子。しかも過度のストレスで今がギリギリってところだ。切れたら一番手に負えないタイプだと思うけどね」
こちらに視線を向けたまま銀色のそれをポンと宙に投げた。
「だったら、切れそうになる前に適当なところで逃げてくればいいんだろ？」
妻にも気を遣うような男がそうそう積極的に事を運ぶとは思えない。
かわすチャンスなどいくらでもあるはずだと予想したが、木沢の見解は違っていた。
「君にはまだ無理だよ」
ゆっくりと言い含めてから、小さな機械を俺のポケットに滑り込ませた。