それからしばらくして、豊島から電話があった。
『週末は出張ってことになってたんだが、先方がこっちに来ることになってね。少し時間が空きそうなんだ』
酒が入っていない時は少し印象が違うなと思いながら、「そうですか」とさらりと流した。
『木沢は明日まで大阪にいるって聞いてるから、今夜は彼との約束はないよね?』
予定は……と聞かれ、「別に」と答えた。
乗り気じゃないのは電話越しでも伝わったのだろう。
『だったらいいだろう? そんなに警戒しなくても少し話をするだけだ』
そんな余裕のない誘いが余計に気を重くさせる。
少なくとも木沢といる時には味わうことのない感覚。
断わったほうがいいと言われた理由が分かったような気がした。
それでも、退屈しのぎになるならという気持ちがどこかにあったのだろう。
「……何か面白い話をしてくれるなら」
気がつくとそんな返事をしていた。
プツリと何かが遮断されたかのように一瞬の沈黙があったけれど。
『ああ、それならちゃんと用意してある。聞きたいんだろう、例のヤクザの話』
わかっているから大丈夫だと少し面倒くさそうに答えた後、
『じゃあ、今夜』
豊島は一方的に待ち合わせの場所を告げて電話を切った。
約束の時間が近づくにつれ、憂鬱さは増したけれど、それでも一人でいるよりはいいと思い、指定された場所に足を向けた。
「ほどよく年齢不詳にしているんだな。それも木沢の仕込みなのか?」
会うなりこちらの服装をそう評して、待たせておいたタクシーに乗せた。
行き先は都市部を少し出た辺りにある気軽な雰囲気の店。
「親しい人間に会わない場所がいいから」というのがその理由だった。
服装も先日と比べるとかなり緩めの普段着だったが、それにもかかわらず全体の印象はあまり変わってなくて、そういうところも木沢とは対照的だった。
「三年争ってきた件だからね、やっぱり―――」
賑やかな店内。テーブルを挟んだ向こう側には、音も立てずにナイフとフォークを操る豊島。
育ちのよさを感じるのと同時に、話題の選び方、話し方、間合いに至るまでまったく隙がなくて、自分の土俵の上なら全てをそつなくこなすタイプだということを窺わせた。
「そろそろ場所を変えようか」
飽きてきた頃にそんな提案をするのも、こちらの顔色を読んでいるからなのだろう。
「そうですね」
面倒に思う気持ちは抜けなかったが、曖昧に頷いて席を立った。
会計の時にチラリと見えた財布には家族の写真。恋人のような妻と小さな女の子がカメラに向かって笑っていた。
表面的には愛妻家で娘を溺愛する良い父親なのだろう。
だが、今、豊島がここにいるのは知り合ったばかりの大学生と一晩を過ごすため。
家族には嘘で固めた予定を告げ、普段とは違う服を着てまでそんなことがしたいのかと思ったら、豊島を見下す木沢の気持ちも分かるような気がした。
「落ち着いて話せるから」と言われ、連れていかれたのは住宅街にある貸しオフィス。
「靴のままどうぞ」
グレーのカーペット。シンプルな壁紙。
OA機器が揃っていることを除けばビジネスホテルと変わらないような内装だった。
「事件関係の詳しい話はバーではできないからね」
偽名で借りているのだろう。
豊島がドアポストから引き抜いた封筒にはまるで違う苗字が記されていて、今夜のような後ろ暗い目的のためだけに借りたのならお笑いだな、と冷めた気持ちで思った。
「さて、何から話そうかな」
飲み物を用意した後、ゆるりとソファに腰を下ろす。
もったいぶった口調に早くもうんざりしたが、話自体に興味がないわけではない。グラスに口をつけながら、大人しく続きを待った。
「やけにあのヤクザの事件に関心があるみたいだから、もしかしたら関係者なんじゃないかと思って少しだけ調べさせてもらったよ」
その上でまだ俺と関係を持つ気でいるのだ。調査の結果の中に十河やその周辺のことは含まれていなかったのだろう。
「氷上真意。高校三年。真面目で成績優秀。大学はもう決まっているが勉強熱心で週三回の予備校通いは欠かさない。先生方の評判も上々。母親は数年前に他界。父親はエリート商社マンだが、現在単身赴任中で君は一人暮らし。そういう説明だった」
情報の出処は高校の職員なのかもしれない。
それなら十河とのことに触れられていないのは納得がいく。
「……間違ってはいないと思うけど」
そんな答えで適当に流すと豊島は満足そうに微笑んだ。
「じゃあ、安心して今夜は君と過ごすことにしよう」
家庭環境と学業について嘘がないからといって、関係者でないことの証明にはならない。
それくらい少し考えれば分かりそうなものなのに。
「どうかした?」
「変なことにこだわるんですね」
「何かと小うるさい事務所なもんでね」
窮屈すぎる環境からくるストレスが判断を鈍らせているのか、あるいは不十分な調査を言い訳にしてまで一夜の情事を楽しみたいのか。
「もしかして煙草も禁止なんですか?」
吸う気などないくせに何度も何度もカチカチとライターをつける。そんな仕草も出口を失った鬱憤からくるものなのかもしれない。
「オヤジが言うにはね、今時喫煙者なんて論外らしい。アルコールも付き合いの時だけ。まったく、成人してる息子にそこまで制約をつけるってどうなんだろうな」
二杯目の酒を注ぎながら豊島は忌々しそうに吐き捨てたが、その後すぐに顰めていた顔を元に戻し、口元に笑みを浮かべた。
「まあ、そんな話はいいとして……そうだな、ここじゃまるっきり仕事場みたいだから、話は向こうでしよう」
視線の先は薄暗い部屋。
そこがベッドルームだと分かった途端、急にすべてが面倒に感じられた。
「その前に二、三件電話をしなければならないんでね。先にシャワーを浴びてくるといい」
曖昧に頷いてからポケットに手を入れ、レコーダーの存在を確認すると、黙ってバスルームに向かった。
気だるい気持ちでシャワーを浴びた後、バスローブをまとい、畳んだ衣服の間にレコーダーをそっとしのばせて部屋に戻った。
「すみません、お先に―――」
声をかけた時、豊島の表情にはあからさまな不機嫌がにじみ出ていて、もしかしたらこちらの思惑に気付いたのではないかと焦ったが、その理由は本当にくだらないものだった。
「こういう時は音が出ないようにしておくのが常識だろう?」
目線で示されたのはテーブルに置き去りにしていた携帯。
小さなウィンドウが着信のあったことを知らせていた。
もとよりかけてくる相手など限られている。
木沢が出張だというなら、あとは間違い電話くらいだろう。
「めったにかかって来ないから、忘れてて―――」
軽く言い訳をしながら番号を確認して。
その瞬間、ドクンと心臓が鳴った。
―――羽成……?
無意識のうちに覚えてしまった店の番号。
羽成以外の人間という可能性だってないわけじゃない。
けれど。
「誰だ? まさか木沢じゃないだろうな?」
「……ただの間違い電話」
収まらない鼓動を隠しながら、そんな嘘で全てを流した。
部屋に流れたわずかな沈黙。
その間、豊島は何かを探るような目をこちらに向けていたけれど。
「……まあ、いい」
そんな言葉の後で、カクテルを注いだグラスを差し出した。
「咽喉が渇いただろう?」
毒々しいほど派手な色の液体を立ったまま飲み干し、ふっと息をつく。
水割りやビールのようなシンプルなものとは違って、いろいろな味が口の中で交じり合い、咽喉の渇きをいっそう酷くさせた。
「甘いのは苦手だったかな」
口元に浮かんだ薄ら笑いの意味など考えないまま、水を取りにいくために足を踏み出したけれど、その瞬間、グラッと視界が揺れて嫌な予感に襲われた。
「酒に……何か……入って……」
問いかけはまだ途中だった。
だが、いきなり肩をつかまれ、唇を塞がれた。
「ん……っふ……んっ」
長く乱暴なキスは呼吸を奪い、眩暈をひどくさせる。
よろめいて後ずさりするとすぐに背中が壁にぶつかった。
「世間ずれしているようでもやっぱり高校生なんだな」
ニヤリと笑うと強引に下半身を押し付け、欲望を剥き出しにする。
「……仕事の話、してくれるんじゃ……」
「おまえが知りたがってた件はちゃんとコピーを持ってきてる。心配しなくても後で見せてやるよ。……もちろん、俺を楽しませてくれたらの話だがな」
首筋に舌先を感じて身を捩ると、また強引に唇を塞いだ。
「ん……っ」
壁にもたれかかっているのにしっかりと体を支えることができず、背中をつけたまま重力に負けてズルリと落下していくと、目の前で濡れた唇が緩むのが見えた。
「どうした? 立っていられないほど酔ったか?」
指が食い込むほど強くつかまれた腕。
笑いを含んだ声が呼吸と共に耳に吹き込まれる。
「安心しろ。すぐに抜ける。今のうちにせいぜい楽しんでおけよ」
息が整わず、だらしなく半開きになっていた唇にぬめった舌先が入り込む。
体を支えることができなくなり、その場に座り込むとピシッと頬を打たれた。
「立てよ。だらしない」
焦点を結ばなくなった目が宙をさまよう。
時折り視界に映る豊島の顔は、最初に会った時とは別人のようだった。
俺を油断させるために世間知らずのボンボンを演じていただけ。
今になって心底それを悟った。
当然、木沢だってそれは承知していたはずなのに。
―――最初から嵌める気だったってことか……
薄っぺらな笑みを浮かべて、身体を弄る手に寒気が走る。
「朝までゆっくり可愛がってやるよ」
呆れるほど傲慢な表情で、嘲笑うようにそう言って。
乱暴に髪を掴んでベッドに引き摺り上げると、バスローブを剥ぎ取った。
手首をきつく掴んだまま、身動きの取れない体を無理矢理四つん這いにさせ、「大人しく言うとおりにしろ」と命令口調で告げる。
歪んだ欲望。
抑圧された日々の結果なのか、それともそれが豊島の本当の姿なのか。
どちらであっても関係ない。
このまま言われた通りの行為をして、資料の入った封筒を受け取って帰る。
それだけのことだ。
どうせ一ヶ月もしたら、思い出すのも大変なくらいすっかり忘れてしまう相手。こんなくだらない時間などさっさと流してしまえばいい。
どうせ自分が何をしゃべっているのかまともに認識できないような状態だ。
あれこれ指示されても素通りしていくだけだと思いながら。
「……で、何すればいいわけ?」
投げやりな気持ちで尋ねると、
「ふん、意外と素直じゃないか。木沢の話とは随分違うな。……まあ、いい」
ニヤリと淫猥に歪む口が冷たい声で立ち上がったものを含むよう命じた。
時計を見るのさえ億劫で、過ぎていった時間が長いのか短いのかは分からない。
散々しゃぶらされた後、こちらの状態などお構いなしに突っ込まれ、身体が軋んだ。
それでも痛みは次第に別の感覚に変わっていく。
「……うぁ……あ、は……っ、ん、ん……」
やけに息が切れ、それに伴って眩暈がひどくなって、唇を塞がれることを拒むたびに髪を掴まれ、頬を叩かれた。
「気分はどうだ?」
豊島の息も上がってた。
体は異常なほど熱を持ち、妙な高揚感に囚われていたが、一番底の部分だけは冷え切ったまま。
「こんなに善がって、シーツももうベトベトだ。まったくだらしのない身体だな」
罵る声を聞きながら、木沢の方が何十倍もマシだと心で呟いて、その後はただじっと快楽とない交ぜになった鈍い苦痛と吐き気に耐えた。
時間の感覚もまともな思考もすっかり失った頃。
「どうした。もう限界か?」
俺に問いかける声がやけに遠く聞こえた。
「まあ、いい。最初は達かせてやるか。奥まで突いてやるから自分で脚を抱えろ」
M字に開いた脚をグッと胸に押し付けて、深く突き入れる。
「あ……っ、あ、ああ……っ!」
こんな最低な行為でも、必要な刺激さえあれば達けるのだ、と思いながら。
絶頂の時に口にした言葉が何だったのかなんて、自分でも覚えていなかった。
豊島ももう俺の顔など見てはいない。高まると繋いでいた部分をいきなり引き抜いた。そして、乱暴に俺の髪を掴むと、ゴムを外して思い切り顔に向かってぶちまけた。
「……おい、まだ抜けないのか?」
ふっと消えかける意識を引き止めたのは豊島の声ではなく、テーブルから発せられるガタガタという音。
小刻みに震えている携帯は豊島のものだったのだろう。
チッという短い舌打ちの後、ベッドに寝転んだまま手を伸ばした。
だが、指先が触れるのと同時にそれは落下し、カーペットの上で小さく跳ねた。
「また事務所からか」
苦い表情で起き上がる。
それが言い訳にしか聞こえなくて、無性におかしくなった。
「奥さんからじゃないの? 尻に敷かれてるんだろ?」
思わず口をついて出た言葉に目を吊り上げると、豊島はまだ汚れている俺の頬を叩いた。
「口の利き方に気をつけろ」
唇を歪めながら冷たい一瞥を投げて、もうすっかり動きを止めている携帯を拾い上げた。
乱暴に寝室のドアを開け、明かりのついた部屋に出ていく。
その背を見ても、何の感情も湧かなかった。
「……どうぞごゆっくり」
こみ上げるものを止められず、一人でしばらく笑い転げた。
自分も、豊島も。
他人の目から見れば、反吐が出るほど醜悪なんだろう。
なのに罪悪感や嫌悪感はすっかり霞んでいて、まるで他人事のようにドロリとした液体がシーツに染み込んでいくのを眺めるだけだった。
「……何しに来たんだっけ……」
ぼんやりと開けた目に映る部屋。
酒か、それともそこに入れられた物のせいなのか、視界を占領する風景は時折ひどく歪んで、そのたびに吐き気がこみ上げた。
そのうちに豊島が持ってきた資料さえどうでもよくなって、ベッドに突っ伏すと目を閉じて全てを遮断した。
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