寝室に戻ってきた豊島の手には、携帯ではなく煙草が握られていた。
苛立った様子で火をつける、その合間。
「いくら欲しい?」
突然降ってきた言葉が耳を抜け、ただでさえかすんでいる頭が空白になった。
「……金?」
何を尋ねられたのかを理解するまでに時間がかかって、ようやく問い返すと、刺々しい声が返った。
「他に何がある。まだ酔ってるのか?」
口止め料のつもりなのか。
それとも、最初から俺を買うつもりで誘ったのか―――
「……ああ、そういうことか」
金を払えば何をしてもいいと勘違いしている奴はいくらでもいる。 だとするなら、ここへ来た後、豊島の態度がひどく横柄だったのも頷けた。
無意識のうちに口をついた溜め息。
だが、それは豊島の不機嫌を増幅させたようだった。
「要らないのか? タダでやらせるつもりで来たわけじゃないんだろう?」
力に任せて煙草を揉み消し、苛立ちを含んだ声を投げつける。
金なんて少しも欲しいとは思わなかった。
用意してきたという資料さえ手に入ればそれでよかった。
だが、答えは先送りした。
こんな苛立った状態では、正直に話した途端に封筒ごと処分されかねない。そう思ったからだ。
「……明日までに考えておくよ」
そのフレーズがなんだか懐かしくて、ぼんやりしたまま記憶の中をかき回した。
欲しい物を聞かれ、「考えておく」と答えたのは十河との最後の夜。
そんな他愛のない遣り取りを繰り返しながら、永遠に続いていくのだと信じていた頃の話だ。
その時、こみ上げたのは乾いた笑い。
なのに、無性に淋しかった。
どうしようもなく十河に会いたくて、気持ちのやり場がなくなった。
ただ、何もせずここにいることさえ苦痛なほどに―――
カシャン、という音で我に返った。
「何やってんだ!」
罵声が淀んだ空気を揺らす。
顔を上げると目の前には自分の手を離れたグラスが転がっていて、テーブルの端に置かれていた豊島のシャツに紅い染みが広がっていた。
「ったく、ホテルじゃないんだからクリーニングなんて―――」
急いでグラスを起こし、バスルームから持ってきたタオルでテーブルと床を拭く。
ひとりで慌てている様子がなんだか滑稽で、くだらないお笑い番組でも見ているような気分になった。
「なんだ、その顔は。もしかして俺を怒らせるためにやったのか?」
「……わざとじゃなかったけどね」
笑ったままそう告げると、豊島は乱暴にグラスを倒した方の手を掴み、またピシャリと頬を叩いた。
「大人しくしてろ。戻ったらたっぷり構ってやるからな」
正気を失った目。
酒か薬のせいで豊島も素面ではないのだろう。
きつい口調で悪態を吐きながら、シャツを掴んで洗面所に消えた。
「奥さんってそんなに怖いわけ?」
洗面所に向かって問いかけたが、水を流す音以外は何も聞こえてこなかった。
なんか、怠いよな……――――
フッと息を抜いてカーテンの隙間から外を見る。
父親がいたあの家で暮らしていた頃と同じくらい、くだらない時間。
また全てがどうでもよくなりかけたけれど。
その時、畳んだ服の上に置かれていた携帯が目に入った。
「……電話……かかってきたんだっけ……」
ゆっくりとベッドを離れ、携帯に手を伸ばす。
ストラップを掴むと床に落ちていたバスローブを羽織って裸足のままベランダに出た。
「やけに地面が近いよな」
一階部分を占める駐車場が半地下というのもあるけれど。
それにしても、三階というのはこんなに低いものなんだろうか、とぼんやり思う。
すぐ下はティールームのテラス。
手すりの真下は植え込みらしく、こんな季節にもかかわらず艶やかな緑で覆われていた。
それを眺めながら、なんだかまた全てが面倒になって。
きっと空が遠いせいなんだろう、なんて勝手な理由を付け足した。
深呼吸をして天を仰ぐ。
どんなに目を凝らしても月や星は見つからず、ただ冷たい空気が肌を刺すだけ。
なかなか染みが落ちないのか、豊島が洗面所から戻ってくる気配はない。必死に洗い流そうとしている姿を思い浮かべたら、また笑いがこみ上げた。
ふっと目を落とした手の中の携帯。
笑うたびにストラップが揺れて。
「……そういえば、羽成が買ってくれたんだよな」
ツキン、と胸に走る痛みを感じながら、暗闇に浮かび上がる着信の番号を見つめた。
一度しかかけてこないのだから、たいした用じゃなかったのだろう。
それでも。
「……かけ直しても別に不自然じゃないよな」
話すことなんてなかった。
でも、無性にあの無愛想な声が聞きたかった。
ベランダの手すりにもたれたまま、番号を押して携帯を耳に当てる。
待っていたほんの数秒の間がやけに長く感じて言い訳を探す。
「……仕事中なら電源切ってるかもな。そうじゃなかったら―――」
時折り消えかける意識を引き戻しながら。
思いつく限りの理由を並べていた時、単調なコール音がプツリと途切れた。
『まだ、外ですか?』
愛想なんて欠片もないのに。
体中から力が抜けるほどホッとしてその場に座り込んだ。
「……うん」
羽成が出たら、『何か用だったのか』と聞くつもりだった。
けれど、気付いた時にはもう他の言葉に摩り替わっていた。
「……今から、そっち行ってもいいか?」
どうかしたのか、とか。
仕事中だから、とか。
そんな返事だったなら、「やっぱりいい」と答えただろう。
けれど。
『お待ちしています』
ごく当たり前のように答えは返って。
その後。
店の奥にある事務所にいること。
自分がすぐ出られなかったとしてもスタッフに名前を言えば分かるようにしておくこと。
ついでに。
もう遅いからどこへも寄らずに来るように、なんてことまで付け足されて。
「……うん」
そういえば、意外と口うるさい奴だったんだよな、なんて。
どうでもいいことをやけに懐かしい気持ちで思い出した。
電話を切った後、急いで衣類を身につけた。
携帯とレコーダーをコートのポケットに突っ込むと、豊島のカバンから資料の入った封筒を探し出して反対側のポケットにねじ込んだ。
酔いのせいでときどき妙な浮遊感に襲われ、何度も転びそうになりながら靴を履いた。
だが、あとほんの少しで玄関というところで、バスルームから出てきた豊島に道を塞がれた。
「どこへ行くつもりだ?」
俺が逃げ出そうとすることは予想していたのかもしれない。
落ち着いた様子でドアにチェーンロックをかけた。
「出入り口はここだけだ。諦めるんだな」
ゆっくりと告げた男は疾うに弁護士の顔など捨てていて、正気かどうかさえ分からなかった。
「今夜、おまえは木沢と会ってることになってる。何があろうが、全てアイツの仕業ってことになるんだよ」
シナリオは最初から用意されているんだと、薄い唇をほころばせた。
「さあ、大人しくこっちへ来い」
ゆるりと近づいてくる豊島には余裕の色さえ見えた。
目の前は狭い廊下。
強引に脇をすり抜けることができたとしても、待っているのは鈍く光るチェーンだ。
策を練ろうにも、頭は空白になるばかりで一向に働かない。
ふっと諦めが過ぎったが、ポケットから出ていたストラップが手に当たり、我に返った。
「待てっ! どこへ―――」
踵を返して走り出す。
追いかけてくる声を振り切るように勢いよくサッシを開け、ベランダへ出るとそこから飛び降りた。
手すりを越える時、肩越しに豊島の引きつった顔が見え、その爽快感で宙に浮いた体が余計に軽く感じられた。
このまま永久に地上に足をつけることはないような、そんな錯覚の中。
ザッと音がして、体は植え込みの中に投げ出された。
「……ってぇ……」
立ち上がろうとした時、足首に走ったのはズキンという痛み。
だが、それは自分の身体が記憶しているより、ずっと鈍いものだった。
「……まだ酔ってるのか―――」
飛び降りただけなのに息が切れ、思うように走れない。
だが、豊島はまだバスローブを羽織っただけの恰好。すぐには追ってこられないはず。
足を引き摺って表通りに出る。
運良くタクシーはすぐに捕まった。
「すみません。急いで出してください」
転がり込むように車に乗り、とりあえず前に進み始めたのを確認した後、羽成の店の名前を告げた。
運転手からは「ああ」と軽い頷きがあったが、すぐに「そこ、高級クラブじゃありませんか?」と怪訝そうな問いに変わった。
「ええ、そうです。知人と待ち合わせをしているので」
努めて明るく答えると、運転手はやっと安心したような顔で頷き、慣れた手つきで車をUターンさせた。
窓の外を流れる風景が心地よく映る。
「お客さん、ケガしてるみたいだけど、大丈夫なんですか?」
「え?……ああ……たいしたことは……」
そう答えたくせにグラリと視界が揺れ、身体を支えきれずにそのままシートに横倒しになった。
「お客さん、ホントに大丈夫ですか?」
「……ちょっと疲れてるだけですから。すみませんが、着いたら起こしてもらえますか?」
金はちゃんと払うから、と言いかけた時、財布を持っていないことに気付いた。
けれど、どんなに思い出そうとしても、途中で落としたのか、それとも最初から持ってなかったのかは分からなかった。
―――店のカードが入ってたのに……
失くしたことを羽成に言わなければと思った瞬間、心の奥がズキンと痛んだ。
大切にしてなかったわけじゃない。
けれど。
これまでの自分を振り返ったら、そんな言い訳を信じてもらえるとは思えなかった。
信号で止まるたび、運転手は「大丈夫ですか」とこちらを振り返ったが、その声は耳を素通りしていった。
「お客さん、着きましたよ。お店のドアの前にお止めすればいいですか?」
ゆるりと視線を上げると、見覚えのある建物が目に入る。
「あ……いえ……多分、裏口」
ズルリと体を起こして窓を開けると、敷地の入口に立っていた警備員に事務所の場所を尋ねた。
「氷上様ですね。お待ちしておりました」
そのまま誘導され、車は店の裏手に回った。
スタッフ専用の駐車場でエンジンを切り、後部座席のドアが開けられると、差し込んだ明かりに一瞬目を瞑ったけれど、それはすぐに大きな背に遮られた。
「……羽成……」
逆光で表情はよく見えなかったけれど。
「大丈夫ですか?」
その声がいつもと変わりないことに安堵して、今度こそ本当に力が抜けた。
「うん……けど、金持ってなくて……部屋、飛び出してきたから……」
自分でしゃべっているはずなのに、声は次第に遠くなっていく。
「話は後ほど。すぐに医者を―――」
車内のクリーニング代まで含め、一万円札何枚かを運転手に渡した後、羽成はシートに潰れていた俺をそっと抱き起こした。
後ろにいた警備員が事務所まで運ぶと申し出た時も、やんわりとそれを断って軽々と俺を抱き上げた。
ふわりと香るやわらかい空気。
懐かしいと感じたのは、多分、前にもこんなことがあったからなんだろう。
思い出そうとして、手繰り寄せた記憶はどれも不鮮明だったけれど。
十河がいた頃からずっと、俺の面倒を見てきたのは羽成だったのだから、忘れているだけで本当は何度もこんなことがあったのだろう。
まともに動かない頭で、ぼんやりとそんなことを思い、深く息を吐いた。
「……羽成――――」
もう一度名前を呼んでみたけれど。
瞼が重くて視線はネクタイの結び目より上には行かなかった。
無意識のうちに掴んだシャツに赤い染みが広がって、そこから目を逸らすように、意識を手放した。
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