運命とか、未来とか

-27-




浅い夢の中。
鈍い痛みを身体に感じながら。
見上げた空はとても遠くて、手を伸ばしてもほんの少しも届く気がしなかった。
でも、目覚めたら、本物の空はもっと遠くて。
きっと永久に触れることはできないことを悟るのだろう。



瞼が開くのと同時に確かな痛みを意識した。
視界に翳した手にはいくつも擦り傷や切り傷が残っていたが、そのすべてがきちんと手当てされている。
病院なのかと思ったが、横たわっている場所からは十河の遺した大きな窓が見えた。
うつろに動かした視線が捕らえた空は、まだ夜が明けていないことを知らせている。
傍らには見慣れた家具。
そして、新しいシャツに手を通す背中。
「俺……店に行ったはずなのに」
かすれた声で呟くと、羽成はゆっくりと振り返った。
「事務所は人の出入りが多いので」
医者が問題ないと言ったので家に運んだという説明を聞きながら、また鈍い色の空に目を遣った。

部屋には小さな明かりさえついてなくて、テーブルに置いたはずの時計も見えなかった。
でも、いつもならまだ店にいる時間なんだろう。
身につけたシャツも普段着ではなく、これからまた仕事に戻ることを知らせていた。

ごめん、と心の中で呟きながら。
一層重く感じる身体をわずかに壁に向ける。
どうして羽成のところへ行こうなんて思ったのか。
あの場所からなら、店よりも自分の部屋の方が近い。
初めから真っ直ぐ帰っていればよかったのに―――

後悔がじわじわと自分の中を占領したけれど、今さらどうすることもできなくて。
袖のボタンを留めながらチラリと時計に目を遣る姿に、自己嫌悪を噛み締めた。
「それで、その怪我はどこで?」
問いかける間も表情は変わらない。
はっきりと不機嫌を見せられた方が罪悪感は少なかったかもしれないのに。
「別に、たいしたことじゃないし……」
最初から順序よく話すだけの気力もなくて、適当に言葉を濁す。
それでも視線はまだ静かにこちらを見下ろしていて、明らかに夕べの説明を待っていた。
全てを正直に話せば呆れ果てて出ていくかもしれない。
そんな投げやりな気持ちが過ぎったけれど。
「……外に出ようとして……窓から飛び降りた」
結局、言えたのはそれだけ。
いくら待ってもそれ以上を聞き出すことはできないと判断したのか、羽成はわりとすぐに「そうですか」という返事をした。
「……怒らないのか?」
もう構うのはやめろと言ったくせに、こんな時ばかり頼ってくるような奴に腹が立たないはずはない。
でも。
「何を?」
羽成はやっぱり普段と変わりなく、呆れた顔も苛立った様子も見せずに言葉を返した。
「……いろいろ」
また時計を気にして。
なのに、傍を離れることもないまま。
「怒られたいというなら、説教くらいはしますが」
「……別に、そういうわけじゃ……」
忙しいなら、俺のことなんて放っておけばいいのに、と。
また突っかかりそうになって。
でも、吐き出せないまま口を閉ざした。

視界の隅に映る。
ネクタイを結びなおす手。
ぼんやりとその動きを追いながら。
着替えが済んだらここからいなくなるんだな、と。
そう思った瞬間、カラン、と乾いた音が耳の奥で響いた。

無意識のうちに引き止める言葉を捜している自分は、本当はまだ酔っているのかもしれない。
そんなことを思っていると、また声が降ってくる。
「大丈夫ですか?」
そう聞かれるまで、視界が滲んでいることさえ気付かなかった。
意味もなくこみ上げてくる不安定な気持ちを抑えようとして。
「……別に」
一度はそう返したくせに。
羽成と目が合った瞬間、何かがプツリと切れた。
「――……十河に会いたい」
馬鹿なことを、と自分でも思った。
言ったところでどうにもならないこともわかっていた。
けれど、どうすることもできなくて。
涙はこぼれた。

しばらくの間、羽成は何も言わなかった。
沈黙がいたたまれなくて、ベッドに横になったまま顔を背けた。
本当は、ただ。
羽成がどんな顔をしているのか、見る勇気がなかっただけかもしれない。



苦しいほど長く感じた時間の後。
ガタン、とベッドの横で椅子が引き寄せられる音がした。
その後、頬がふわりと温かいもので包まれ、それが羽成の手だと気付くのと同時に、沈黙は途切れた。

「十河は死にました」

返ってきた言葉は笑ってしまうほど素っ気ないものだったのに。
心の奥、一番深いところに容赦なく突き刺さった。

「そんなこと……わかってるよ」

何ヶ月経っても、消えるどころか薄れることさえなくて。
思い出すたびに深く刻まれて、痛みに変わる。

「……ちゃんと、分かってる」

何度も泣いて、そのたびにもういないのだという事実を噛み締めて。
それでも。

「十河に……会いたい……―――」

止まらない涙を。
羽成は呆れた表情も見せずに、その大きな手で拭って。
それから。
すみません、と詫びた。

叶えられるはずはない、子供染みた我がまま。
謝る必要などないのに。

「……馬鹿じゃないのか。なんでおまえが―――」

ひどく優しく耳に残った声を、何度も何度も辿りながら。
その後は、ただ。
滲んだ風景がこぼれ落ちていった。

泣き止むまでの時間がどれくらいだったのか分からない。
けれど、頬が乾くまでずっと羽成は静かに傍らに座っていた。



このまま何も言わなければ、もう少しこうしていられるのだろうか、と。
心のどこかで思いながら。
「……一人で大丈夫だから、仕事行けよ」
やっとそんな言葉を押し出して。
ついでに、ごめん、と謝ってみたけれど。
「悪いと思っているなら今回限りにしてください」
そんな口調とは裏腹に、手繰り寄せた記憶の中のどの横顔と比べてもそれほど不機嫌そうには見えなかった。

音もなく立ち上がると、椅子に掛けてあった上着を取る。
その広い背中を眺めながら、ふっと淋しさに似た気持ちが流れ込んでくるのを感じた。
「……羽成」
「何ですか?」
「十河に……似てるよな」
どこがどうというわけでもなく。
あるいは、ただ十河を送り出した時の気持ちに似ていただけなのかもしれないと思いながら告げた言葉に、
「そうですか」
羽成はそう答えて。
その後はいつものように必要なことだけを並べた。
「午後、吉留から電話が来ますので、都合の良い時間を―――」
その時、引っかかっていた気持ちが何なのか、突き止めることはできないまま。
「……うん」
部屋を出る時に残していった「おやすみなさい」という声と一緒に、それを飲み込んだ。


遠くなる足音と、ドアの閉まる音。
さっきまで羽成が座っていた場所を見つめながら。
十河をなくしたと知ったあの日にこうして泣きついていたなら、もう少し違う今があったのかもしれない、と。
すっかり一人になった後で、そんなことを思った。




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