いつになく良く眠ったような気がした。
普段と何も変わらないように見える部屋。
数時間前まで確かにそこにいたのに、その存在を思い出させるようなものは何一つ残っていなかった。
今あるのは少々の二日酔いと身体の重み。
あとは酷い自己嫌悪だけ。
「何しろって言ってたっけ……」
のっそりと起き上がると、帰り際に羽成が並べた言葉を思い出しながら洗面所に向かう。
身につけているのは素肌にパジャマだけ。汚れた衣類は大きな袋に一纏めにされ、部屋の片隅に置かれていた。
着替えた記憶などないということは、意識を失っている間に羽成がやったのだろう。
そう思った瞬間、また一層気持ちが塞がった。
「……シャワーくらい浴びても大丈夫だよな」
袖をめくってみたが、腕は肘から指先にかけていくつか傷があるだけ。
着地の時に捻った足はさすがに少し痛んだが、部屋の中を歩く程度なら支障はなさそうだった。
一通り怪我の状態を確認した後、パジャマを洗濯機に放り込み、熱めのシャワーで身体を洗い流した。
気が済むまで湯に打たれて、頭はいくらかすっきりしたけれど。
羽成のシャツに染みを作った指の傷だけはなかなか血が止まらず、昼頃様子を見にきた医者にひどく怒られた。
吉留から電話があったのは午後一時。
ベッドから医者を見送ったすぐ後のことだった。
昼食を一緒にどうかと誘われたが、医者に外出を止められたことを告げると、だったら途中で何か買ってくると言う。
『それでは、三十分ほどでお伺いいたします』
用事はどうせ夕べの件。
それが分かっていたから、適当な返事をして電話を切った。
「……俺は表沙汰になっても全然困らないんだけどな」
金は受け取っていないが、褒められた行為でないことは確かだ。
進学には支障があるかもしれなかったが、だとしても別にどうとも思わなかった。
「どうにでもしてくれ」
二日酔いの頭に響かないよう注意しながら、ベッドに潜り込んだ。
「財布、やっぱりあの部屋に忘れてきたんだな―――」
目が覚めた時、部屋にあったのは携帯だけ。
レコーダーも、ねじ込んだはずの封筒もタクシーに乗った時には既になかったような気がする。
「植え込みで転んだ時にでも落としたか」
封筒は薄茶色のシンプルなもの。法律事務所の名は入っていなかった。
中身がどんなものかは分からないが、メモやレポート用紙にロゴの類がなかったとしても、具体的な事件の内容が分かれば豊島の勤務先であることは特定できるのかもしれない。
「だとすると、同じ場所に落としたと思われるレコーダーもヤバイんじゃないのか……?」
一緒に事務所に届けられるようなことがあれば、声はすぐに豊島のものだと判るだろう。
「まあ、俺が心配することじゃないけど」
何にしても、こちらは困ることなどないのだから、吉留が来たら覚えていることを話せばいい。
ぼんやりとそんなことを考える傍ら、脳裏を過ぎっていったのは真新しいシャツと窓辺に立つ羽成の背中だった。
インターフォンが鳴ったのは電話から40分後。
トレイに乗せられてベッドに運ばれたのは事務所の近くにあるカフェのランチ。
それを食べながら話を聞くように言ってから、吉留も買ってきたコーヒーに口をつけた。
「今朝、豊島さんから事情を伺いました」
最初の言葉がそれだったから、少なからず驚いたが、とりあえずは最後まで話を聞いた。
「植え込みの件については相当額をお支払いすることでお店の方に納得していただきました。全額豊島さんが出すことになりますが、名前を出されるのは困るとおっしゃるので、その辺りはこちらで適当に。もちろん氷上さんのお名前も表に出ることはありませんので―――」
店に来た俺を見て、羽成は真っ先に木沢に電話をしたらしい。
一緒にいた相手が豊島だということはすぐに判り、後の対応を吉留に任せたのだという。
「単刀直入に申し上げると、豊島さんはいくらお支払いすれば昨夜のことを全部忘れていただけるのかと……」
それなりの金で済むなら、この話はそれで終わりだと言われたけれど、俺は黙って首を振った。
「……別に金なんて―――」
木沢にも「会わないほうがいい」と言われていたのに承知の上でOKしたのだ。自分に非がないわけじゃない。
第一、俺が高校生じゃなければ、そして、豊島に家庭や立場がなければ、こんな話になることもなかったのだろう。
「あんまり大袈裟なことは……」
そう言うと、吉留は少し困ったような顔を見せたけれど。
「それでは、羽成さんにはそうお伝えしておきます」
俺の気持ちが最優先だから、こちらの希望に添わないことはしない。
そう約束して、吉留は大き目の手帳を閉じた。
その後は黙って食事を済ませた。
音楽でも流しておけばよかったと後悔したのは、油断をすると溜め息をついてしまいそうだったから。
起きてからずっと心のどこかで気にしていたことを自分で確認する勇気もなくて、吉留の顔さえ見ずに、小さく尋ねた。
「……羽成、機嫌悪くなかったですか?」
今日は電話の一本も寄越さない。
俺にばかり構っていられないということは承知していても、心のどこかに巣食う不安は拭えなかった。
「いいえ。ご心配はされていましたが」
職業柄この程度のことならトラブルとも思わないだろうと言われたけれど、頷くこともできないまま。
「では、私はこれで」
そう言って立ち上がる吉留にペコリと頭を下げた。
「お怪我が治るまではご無理をなさらないでください。それと―――」
ドアの方向に半分身体を向けたまま、吉留はいつになく少し困ったような顔で視線を落とした。
そして、一呼吸置いてから申し訳なさそうに言葉を続けた。
「私がこんなことを言うのは可笑しいのでしょうが、どうかもう木沢とは付き合わないでください。危なっかしいことばかりに惹かれる性格で、このままだと貴方にもご迷惑が―――」
家族か恋人でもいれば、あんな無茶もしなくなるかもしれませんが、と。
独り言のようにそんなことを呟いた後、吉留は静かに部屋を出ていった。
夕方になって羽成から『明後日まで出張で不在にする』というメールが入った。
何かあれば吉留に言うようにという素っ気ない文字列をベッドの中で読み返していると、不意にインターフォンが鳴った。
「外出禁止って聞いたから、夕飯とお見舞い」
仕事が残っているからすぐ帰らなければならないけど、と前置きして部屋に入ってきた木沢は、買ってきたものを冷蔵庫に入れた後で、包帯の巻かれた足首に視線を向けた。
「具合はどう?」
上着の内ポケットの手を入れる。煙草でも吸うのかと思ったが、取り出したのは俺の財布だった。
「豊島から預かってきた。羽成氏の店のカードもそのまま入ってるよ」
よかったね、と言われて思わずホッと息を抜き、同時に少し顔が火照る。
その瞬間に木沢の口元が緩むのが見えた。
「豊島には会わない方がいいって忠告したのに。まったく仕方のない子だね」
次回からは素直に聞いて欲しいなと悪戯な笑みを浮かべたその顔は、いつになく上機嫌だった。
「……それが用事?」
わざわざ財布だけを返しにくるほど木沢も暇ではないだろう。
現に、ゆっくりと部屋を一周したあと、一度俺と目を合わせてからL字型のソファに腰を下ろした。
「その豊島から伝言なんだけど。『夕べの資料をお返しいただけませんか』って」
何のことか分かるよね、と問われ、突っ立ったまま頷いたけれど。
「……部屋を出る時は持ってたけど、途中でなくした」
中は見ていないと正直に告げると、木沢からはまた「仕方ないね」という言葉が返った。
そして、拍子抜けするほどあっさりとその話を終わらせた。
木沢の用件はこれで全部済んだのだろうか。
チラリとその顔を盗み見ると、待っていたかのように笑みが投げられた。
「少し話すくらいの時間はあるよ。何が知りたいの?」
予想外のストレートな問いに言葉を詰まらせながらも、ソファの角を挟んで木沢の斜め前に浅く腰かけた。
次第に暗くなる空。
明かりをつけるべきか迷っている間、木沢は笑いながらこちらを眺めていたが、やがてポケットから取り出したものをテーブルに並べはじめた。
「……写真?」
どこで撮られたものなのかを思い出す必要はなかった。
食事をした店、タクシーの前、マンションの入口。
二人でいるところばかりを狙ったものらしかったが、俺の顔が映っているものは一枚もない。焦点はすべて豊島に合わせてあった。
「わざと君の身元は判らないようにしてあるんだ。探偵社の人間だけど、写真もプロ並みだね」
依頼者は木沢なのだろうか。
だとしたら、何のためにこんなことをするのだろう。
「……豊島が何かやったってことなのか?」
「何かっていうほどのことでもないんだけどね」
初めは些細なこと。
半月ほど前に偶然通りかかった場所で、豊島が薬物を手に入れている場面を目撃したのだという。
「で、その時に撮った写真がこれ」
豊島は変装をしており、薄暗いクラブのような場所で何かと引き換えに金を払っていた。
「馬鹿だよね。こんなつまらないものに手を出すなんて」
後日、その写真を見せると、豊島は顔色を変えた。
即座に買い取ると申し出たが、木沢はそれを拒否したらしい。
「面白そうだったから断ったんだけど。そしたら、もっと馬鹿なことを考えたみたいで―――」
木沢が遠出しなければならないような仕事を回し、そのタイミングで俺を誘った。
自分も存分に楽しんだ後で手配した男に襲わせ、その痴態を写真に収める。
それを木沢が持っている写真と引き換えるつもりだったのだろう。
「君は進学がかかってる時期だし、可愛い恋人の将来を守るためなら、こんな写真くらいすぐ手放すと思ったんだろうね」
心の中では豊島を笑いながら。
木沢は全て承知の上でそれに乗った。
探偵社の人間を雇い、自分は仕組まれた仕事に向かう。
その後は俺も知っている通り。
「誰かを嵌めようと思うなら、もっと綿密に計画を立てるべきじゃないのかな。仮にも弁護士のくせに詰めが甘すぎる」
結局のところ、俺も豊島も木沢の退屈しのぎに使われただけだ。
それが分かった後も別に腹は立たなかったけれど。
「とにかく、これで豊島はいつでも君の足元に跪く。困ったことがあったら、気軽に電話して相談すればいい。後は君の有能な弁護士である豊島がどうにでもしてくれるはずだ」
いい駒ができたね、と。
そんな言葉で同意を求められて、また疑問が過ぎった。
「それって、どういう……」
豊島に対して特別な対応は必要ないと答え、吉留もこちらの希望に沿うよう方向で羽成と話すと約束したはず。
「何も聞いてない? 羽成氏が手を回したんだよ」
表向きは小額の金で丸く収めたように見せかけ、いつか『まともな法律事務所の弁護士』が必要になったら、その時は好きなだけ利用すればいい。
それが羽成と吉留の結論だったらしい。
「もちろん豊島はまだ何も知らないから、わずかな金で片付くと聞いて本気で感謝してたけどね」
馬鹿だよね、と呟く木沢はいつにも増して楽しそうだったけれど。
その後、何か思いついたようにこちらに向き直った。
「でも、手駒を用意するってことは、羽成氏は君の側に長くはいないつもりなのかもしれないね」
どう思う、と問われたけれど。
「……さあ」
投げやりに返しながら心の隅で呟く。
面倒なことからは早く離れたい。
誰だってそう思うし、羽成も例外ではない。
それだけのことなのだ、と。
「まあ、君もこんな世界に片足突っ込んで生活するつもりなら、もっといろんな覚悟をしておいた方がいいってことだね」
「覚悟?」
「そう。信じていた相手に裏切られる覚悟。誰かを傷つけたり、自分が傷つけられたり、それから―――」
大切な誰かを一瞬で失う覚悟もね、と。
その言葉が耳に届いた瞬間、嫌な音で心臓が軋んだ。
「ああ、それはもう十河氏で経験済みだったか」
こちらの心の内を承知の上で口に出す。
そういう性格なのだということくらい分かっているけれど。
「忙しいんだろ? もう、仕事に行けば?」
逆撫でされた感情は無遠慮に本音を吐き出してしまう。
だが、木沢はそれさえ笑って流した後、すぐ隣りに座りなおした。そして、当たり前のように俺を抱き寄せると、唇を塞いだ。
それだっていつものこと。
なのに、舌が入り込む直前、無意識に顔を背けていた。
「ふうん……そう?」
曖昧な問いかけの意味など分かるはずもなく。
外した視線の先にある夕闇を見詰める。
仕事があるという言葉は嘘だったのだろうか。
立ち上がる気配のない木沢を訝しく思っていると、また脈絡のない問いが降った。
「羽成氏、今日のご機嫌はどうだった?」
不意にこんな話を振るのも別に珍しいことではなかったけれど。
「起きてから、会ってない」
今日に限ってやけに冷たくこちらを見下ろしていた。
「夕べ、彼と寝た?」
唐突な質問。
うろたえる理由などどこにもなかった。
なのに。
「そういう関係じゃないって何度言ったら―――」
荒げた声に交じる棘。
それに気付くと木沢の口元はさらに笑いを増し、もう一度「そう」と呟いた。
ポケットから取り出したものが薄暗がりで鈍く光る。
目がその形を捉えるより先に、長い指で俺の顎を押さえ、目の前にそれを翳した。
「それ―――」
見覚えのある小さな機械。
「探偵社の人間が道路で拾って届けてくれたんだよ」
レコーダーのボタンをなぞる指。
笑いを含んだ口元が言葉を続ける。
「豊島に抱かれてる時、何をしゃべったか覚えてる?」
探るように瞳を覗き込まれ、わけもなく体を引こうとしたけれど、それも木沢の腕に阻まれた。
「……なんで、そんなこと―――」
問いかけが終わらないうちに、ゆっくりと押された再生ボタン。
レコーダーから流れてきた音は明らかに豊島との情事の最中。
切れ切れの呼吸と喘ぎがやけに淫靡に響いて、また顔を背けようとしたけれど。
その瞬間、掠れた声が耳を抜けた。
『う……っく、あ……羽成……っ』
覚えてはいなかった。
だが、それは紛れもなく自分の声で。
どんな言い訳もできないことを悟った。
「豊島は相当酔ってたようだし、そうじゃなかったとしても耳慣れない苗字だから、何て言ったかまでは分からなかっただろうけどね」
顎を強く押さえていた手がそっと首筋に滑り降りる。
財布などやはりただの口実だったのだと思いながら、暗くなった床を見つめた。
「心配しなくていいよ。誰にも聞かせるつもりはないから」
豊島はもちろん、君が名前を呼んだ相手にもね……と、温度のない声で告げて。その後、木沢は今までで一番優しげな笑みを見せた。
「そんな顔をしなくても、たいしたものは要求しないよ。もうしばらく遊び相手になってくれるならね」
また会ってくれるよね、と指先で唇に触れる。
「もちろん気が乗らない時は断ってくれていい。今までと何も変わらないよ」
ただし、羽成はもちろん吉留やその他の人にも一切内緒だと言われ、溜め息と共に小さく頷いた。
「じゃあ、外出の許可が下りた頃にまた」
おやすみ、と穏やかな声が降り、深いキスを受ける。
謀が横行する場所で、何事にも巻き込まれずに生活していけるだけの術も勘も自分は持ち合わせていない。
豊島と会う前、『君には無理だ』と木沢が言った。
今日、その意味を思い知った。
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