その後、羽成は以前より頻繁に俺を迎えにくるようになったけれど、態度は今までとまったく変わらなかった。
「……今日も来たのか」
吐き出した言葉にも眉一つ動かすことなく、ただゆっくりとした仕草で煙草に火をつける。
「またどこかのマンションのテラスから飛ばれても困りますので」
迷惑に思うなら放っておけばいいのに。
それでも、最後まで付き合うつもりなのだろう。
十河との約束だからという、たったそれだけの理由で。
「俺がどこから落ちようとおまえには関係ないだろ」
抑えたはずの感情はあっけなく態度に表れ、立ち上がった拍子に椅子がガタンと大きな音を立てた。
「家まで送ります」
当然のように差しのべられた手。
それを勢いよく振り払って歩き出した。
「ついてくるなよ」
まるで自分が束縛しているような、そんな錯覚に陥りながら。
その裏には、どんなにわがままを言っても放り出したりはしないはずだという甘えがあることも自覚していた。
「それで最近は羽成氏に知られない場所で遊んでるわけだ?」
大音量のBGM。
チカチカと光が飛ぶ店内。
それを横目に笑いながら煙草を燻らせ、時折り唇を合わせる。
木沢もあれから少しも変わらない。
「……まあね」
無事に進学した後も約束通り関係は続いて、今ではもう週に一度は必ず会うほどになっていた。
大学へはほとんど行かず、怪しげな場所をフラフラする毎日。
普通の生活をしていたら見定めることはできない一線がどこに引かれているのかを感じ取れるようになったのも最近だった。
飯島の雀荘で一人勝ちし、店を荒らしたと十河の元に連れていかれた時の自分がどれほど馬鹿だったのかも今ならよく分かる。
「君は勘がいいからね」
そういうところが面白いのだと言って、木沢はいろいろな場所に俺を連れていった。それもまっとうな人間が立ち入らないような所ばかりを選んで。
女の口説き方、酒、煙草、ドラッグ。ありとあらゆることを教え、その合間に仕事や法律の話をした。
「毎日入り浸っていれば、誰でもある程度は分かることなんじゃないか?」
内緒話でもするかのように顔を寄せて会話をする。しかも大声で、だ。
なんだか馬鹿らしくなった時、露出の多い衣服の女が酒をねだりにきた。
いつもなら話くらいはするけれど、今夜はなんだか相手をするのが面倒で、そのまま席を立った。
隣に座っている人間の声が届かないほどの音が鳴り響くフロアから一歩外に出ると、今度は静けさのせいでキーンと耳鳴りがした。
「頭がおかしくなりそうだ」
「そこがいいんだよ」
立ち話の間に、預けていた車が到着する。キーを手渡した男にチップを握らせ、運転席に座った木沢は今夜も上機嫌だった。
「じゃあ、次はもっと別の方向に刺激的な所にしようか」
「本当にロクなこと教えないよな」
「十河氏もそうだったんじゃないの?」
傍らにはコーヒー豆の包みが二つ。ついでだからと言って木沢が俺の分まで買ったものだったが、たかがコーヒーと言ってしまうにはずいぶんな値段だった。
気に入ったものには金を惜しまないタイプだとは思うが、それにしても会うたび湯水のように金を使う。
本業だけでこれほど稼げるものだろうかと訝しく思うのも当然だった。
「十河は俺を外に連れ出したりはしなかったよ」
時折り木沢が口にする、俺の知らない十河の顔。
「君は可愛がられていたんだね。大事なものは手の中に隠しておく人だったから」
殊に女性関係は酷かったと聞いても、嫉妬のようなものは何も感じなかった。
「顔を合わせるたびに毎回違う子といたよ。ばったり会った知り合いがその子を気に入ったりすると、そのままプレゼントしてたくらいだ。だから、手放したくない相手は人前に連れ出すことなんてなかったんだよ」
「ふうん」
十河絡みの外出にはいつだって羽成がついてきた。
運転手付きの車に乗って、監視されてるみたいで窮屈だと文句を並べたことも昨日のことのように覚えている。
「十河には……本気になった女なんて、いなかったのかな」
少しだけシートを倒してフロントガラスの向こうを眺める。
車がわざと遠回りしていることに気付いたのは、見慣れない夜景のせい。
信号待ちの間、ビルの間に浮かんだ明るい月に見とれていると、木沢がそっとキスを落とした。
「本人からは何も聞いてないんだね」
笑ったままもう一度口付けて、指先で頬に触れる。
「十河は自分のことはあまり話さなかったから」
所詮は他人から聞く噂。どこまでが本当なのか判らなかったけれど、だいたいは「そんなこともあるだろう」と思うような話。
若い頃、あちこちでいろいろな揉め事を起こし、組からも問題視された時期があったこと。それまで携わっていた仕事全てを失ってふらふらしていたこと。そして、その間ずっと面倒を見てくれた女がいたということ。
「もうずいぶん前に亡くなってるけど、十河氏が生涯で唯一結婚しようと思った相手だったらしいよ」
結局、籍は入れなかった。
女のほうにいろいろと問題があったのだろうと木沢は言ったけど。
「詳しいことが知りたければ吉留さんに聞いてみたら? 昔のことも詳しく知ってるみたいだから」
どうせ当たり障りのないことしか話さないだろうけど、と言われ、適当に頷きながらまた月を見上げた。
「……十河にもそんな相手がいたんだな」
無意識の呟きに溜め息が混じる。
女のことがショックだったわけじゃない。
ただ、自分には何一つ話してくれなかったことが少し淋しかった。
「ほら、また」
不意に耳に飛び込んできた声と、いつの間にか動き出していた車の揺れで現実に引き戻される。
「外では何があっても涼しい顔してるのに、こういう時は素直に出るんだね」
四六時中こちらに目を向けているわけではないのに、木沢は何でもお見通しだ。
「まあ、僕は嬉しいけどね」
そんな台詞がさらりと抜けて、いつの間にか木沢にまで甘えてしまっていることに気付く。
「僕の家でいい?」
「……うん」
歪んだ性格だとは思うけれど、木沢は少なくとも表面的には十分優しかった。
うるさいことも言わず、妙な干渉もせず、退屈を持て余した頃が分かるかのようなタイミングで誘いの言葉をかける。
「着いたよ。車置いてくるから先に行ってて」
そして、ここも。
今の俺には居心地のいい避難場所になっていた。
シャワーを浴びた後、冷蔵庫から勝手にビールを取り出し、咽喉に流し込んだ。
「髪を乾かすついでに風に当たってくる」
一言告げてから、通りに面していないベランダに出ようと仕事部屋のドアに手をかけたが、その先は木沢に止められた。
「そこは立ち入り禁止」
背中から俺の体を抱きしめた後、目の前で鍵をかけた。
「次の仕事がちょっと込み入っててね。ここで準備中なんだ」
その表情に焦りのようなものは見えなかったが、何か厄介なものがあるのは間違いない。
「だったら、部外者を泊めるのはまずいんじゃないのか?」
「そう? でも、実際君は何も見てないよ」
普段と変わりない軽く笑みを見せ、俺をそっとドアから遠ざけた。
そのまま寝室に招き入れると、立ったままシャツのボタンを外していく。
「それとも僕の仕事に興味がある?」
吐息交じりに問われ、首を振る。咽喉元に押し当てられた唇で、甘く肌を噛まれた。
後ろ手に閉められたドア。
体を壁に押し付けられたまま繰り返される愛撫。
次第に激しくなるそれに思わず身を捩ると、一転してやわらかいキスが降った。
「シャワー浴びてくるよ」
ベッドで待っているようにと言い残して木沢が去った後、急に怠くなってその場に座り込んだ。
ドアが開いた時、俺は言われたとおりベッドに座って雑誌を読んでいた。
けれど、髪を拭きながら戻ってきた木沢の腕を見た瞬間、露骨に眉を寄せていた。
「それ、どうしたんだよ?」
まだ新しい傷。それも、良く切れる刃物が肌をかすめたような痕だった。
深くはなさそうだったが、うっかりするとまた傷口が開きそうな気配さえ漂っていた。
薄っすらと色が変わっている部分は打撲なんだろう。
それも一箇所ではなかった。
「いろいろあってね。ちょっと絡まれたんだ」
仕事の調査中に公表できないようなものに行き当たって、それを知った関係者から呼び出しを食らったというのが木沢の説明だったけれど。
「それってヤバイ相手なんじゃないのか?」
警察に……と言いかけてハッとしたのは、十河が刺された日のことが脳裏を過ぎっていったせいだ。
「まあ、そういう仕事しかしてないからね」
頷く横顔は特に困った様子もなく、いつもと同じように飄々としている。
「口止め料を受け取ろうか、事実を突きつけて楽しもうかで悩み中。どっちが面白いと思う?」
「その前に自分がサックリ抹消されるってことはないのかよ?」
本当におかしそうにくすくすと笑い始めるのを、咎めるつもりで問いかけたけれど。
木沢は本当にどうでもよさそうに首をかしげただけだった。
「まあ、その時はその時だから」
その口ぶりには諦めも強がりも見えない。
普段から何を考えているのか分からないと思っていたが、これほど不安にさせられたこともなかった。
「人間の行く末なんて最初から決まってるって信じてるから、今さら悪あがきしようなんて思わないしね」
最後まで楽しむだけだよ、と軽く肩をすくめて、また笑う。
そんな男に返す言葉など思い浮かばなかった。
「せっかくの週末だ。もっと楽しい話をしよう」
血も止まり、すっかり乾いている傷がやけに生々しく映る。
それでもすべてを曖昧に流して、ベッドの中、何もまとわない身体を合わせた。
触れる肌の温度を確かめるような仕草でそっと抱きしめた後、木沢はサイドテーブルにちらりと目をやって微笑んだ。
「時計、買ったんだ?」
「……前のが壊れたから」
酔ってベランダで外したら下に落ちたのだと告げると「酒はほどほどにね」と言って肩をすくめた。
「今まで使ってたのは誰が買ったの?」
「自分で。だから壊れても別に―――」
十河が買ってくれた時計も持っていたが、一目で値段が想像できそうなものだから、繁華街をふらつくような時はもちろん、昼間でも軽い服装の時につけることはなかった。
「大切にしてるんだね。じゃあ、君の持ち物に優先順位をつけるなら一番は何?」
自分自身を含めて、と。
そう言われたけれど。
「十河がくれたもの全部……マンションも時計も―――」
けれど、俺が大切にしているのは買ってもらった品物じゃなく、その後ろにある十河の気持ち。
今でもそんなものにしがみついていることしかできないのだ、と。
そう告げた瞬間、木沢はにっこりと笑った。
「じゃあ、羽成氏は?」
初めは聞かれた意味が分からなかった。
でも。
「……羽成は俺の持ち物じゃないよ」
「もし、君の物だったとしたら?」
畳み掛けるように、また。
何番目なのかと問われて、答えに詰まった。
「……でも、違う」
ずいぶん経ってから、やっとそう答えたけれど。
口先でいくら否定しても、心の中ではその答えは出てしまっていた。
黙り込んでいると、木沢がゆっくりと身体を繋いできた。
「う……ぁ……っ」
俺を抱いているくせに。
また話を戻して。
「彼は今でも君を子供だと思ってるのかもしれないね」
何故そんなことばかり言うのか。
どんなに考えても分からなかったけれど。
「好きでもない男にこんな顔で抱かれてるなんて、想像したこともないんだろうな」
見せてあげたいよ、と意地の悪い笑みを浮かべて。
「なんなら、彼とも一度寝てみたらいいんじゃないかな」
長い指でそっと頬を撫でた。
「とりあえず愛情がない場合はすぐに分かるらしいから」
店の子がそう話していた、という言葉がチクリと刺さる。
歪めた表情を見られたくなくて、無理矢理顔を背けた。
「……羽成は……そういうんじゃないって、何度も言ったはずだ」
それでも、木沢はこちらに視線を向けたまま。
深い場所を探るように言葉を続ける。
「君にとって彼を好きになるのはいけないことなんだね。十河氏に義理立てしてるの? それとも―――」
また無くしてしまうのが怖いのか、と。
真正面からそう問われて言葉を失った。
「でも……羽成は……もう、ヤクザじゃない」
事務所からは足を洗い、今は普通の仕事をしているのだから。
十河のように死んだりはしない。
「そうだね。君がそう思ってるなら、それでいいんじゃないかな」
意味深な笑みを見つめながら。
また、十河が消えた日のことを噛み締めた。
あまり眠れないまま夜は明けて。
翌朝、駐車場を出た辺りで二人の男とすれ違った。
誰かを待っているような素振りだったが、車が走り抜ける瞬間、片方の男がチラリとこちらを盗み見たような気がした。
木沢の周辺が動いているようだという噂を聞いたのは、それから間もなくのことだった。
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