運命とか、未来とか

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『話があるからちょっと出てこい』と、電話をかけてきたのは柿田だった。
「店に? いいけど、羽成は……」
いないことを確かめようと思ったのだが、柿田はそう受け取らなかったようだ。
残念だったな、という前置きの後、羽成が外出中であることを告げた。
「こっちには戻るのは夜中だろうよ」
まだ夕方。
今なら顔を合わせることはない。
「だったら、行ってもいいけど」
そんな返事の中にわずかな落胆が混じっていることくらい、柿田だって気付いていたと思う。
それでも。
『店を開ける前に来いよ』
それ以上のことは言わずに電話を切った。



通用口を開けるとすぐのところで、柿田は煙草を吸いながら待っていた。
「こっちだ」
しかめっ面でクイッと顎をしゃくると、社員用のロッカールームに俺を押し込んだ。
「お茶も出してもらえないのかよ」
人目につかない場所が良かったのだということは分かったけれど。
そうだとすると、いい話でないことも確かだ。
「相変わらず態度がでかいな、氷上。まったく、誰がここまで甘やかしたんだか」
それでも柿田は笑いながら缶コーヒーを持ってくると、パイプ椅子を二つ出して座るように促した。
「で、話って?」
「まあ、たいしたことじゃないんだがな」
真っ先に言われたのは木沢のことで、それは薄々予想していた通りだったけれど。
「気をつけろよ。吉留センセのところを辞めてから、いろいろと目ェつけられてるらしいからな」
何気なく耳を抜けていきそうになったその言葉にハッとした。
「辞めた……って?」
問い返すと、「はあ?」と言わんばかりの表情が向けられた。
「なんだ、知らなかったのか?」
もう先週のことだという。
その後も木沢とは何度か会っていたのに、チラリともそんなことは匂わせていなかった。
「吉留センセは人当たりもいいし、そんなふうには見えないだろうが、まあ、なんて言うか、多少ヤバいことがあっても結構いろんな方面に顔は利いたんだ」
もう長いことそうやって仕事をしてきたのだから、潰されずに生きるだけの術も身についている。柿田の言うことは十分理解できた。
「そんなわけで、これからはちょいと事情が違ってくる」
木沢が涼しい顔で危ない橋を渡ってこられたのも吉留がいればこそ。
その庇護下を出たとなれば、確かに状況は一変するだろう。
「センセはあいつに後を継がせたいと思ってたようだが、本人にその気がないんじゃどうしようもなかったんだろう」
弁護士としての腕は申し分ないと聞いていたが、あの性格だ。
何が災いしてもおかしくはない。
「悪ふざけが過ぎたんだ。あれだけいろいろちょっかい出せば、どこかで破綻するのは見えていたはずだろう」
事務所を辞めたのも、吉留に迷惑をかけたくなかったからなんだろうと柿田は言ったけれど。
木沢のことだから後始末さえ楽しむつもりなんだろうと、俺は勝手に納得していた。
とにかく今度会ったら事情を聞こう。
本当のことは話さなかったとしても、少しくらいは何か分かるはず。
そんなことを考えながら時計を見たのも、木沢のことが気になったからなんだろう。
「で、話はそれだけ? だったら、もう帰るけど」
椅子を片付けながら尋ねると、柿田はここぞとばかりに小言を並べた。
飲み歩くのもほどほどにしろとか、遊び相手は選べとか、学校はどうしたんだとか、無駄遣いはするなとか。
ほとんどはそんなくだらないことだったけれど。
「それと。もうちょっと振る舞いに気をつけろ。そうじゃなくてもあちこちで『小生意気で気に入らねえ』って言われてんだから」
十河が生きてた頃からずっとそうだった。
事務所の人間なら年上だろうが目上だろうがお構いなしに呼び捨てにして、わがまま放題。そんな有様だったから、自分に対して良い感情を持っていないのが一人や二人じゃないことくらいは承知していたけど。
「……だったら、何?」
適当に流した瞬間、額を小突かれた。
「涼しい顔してんじゃねえよ。まったく、おまえは」
正直なところ、十河という後ろ盾がなくなった後は俺なんてすぐにボロボロにされて、どこかに埋められるんじゃないかと柿田は思っていたらしい。
「だが、新社長はおまえに対してずっと敬語のままだし、何かあればすぐに迎えにいくし。あれだけはっきり『面倒見る気がある』って顔されちゃ、怖くて手なんて出せねえからな」
ずっと他人行儀だと思っていた羽成の口調。
いつまで経っても距離を置かれているようで、苛立つことさえあったのに。
そんな態度に意味があったなんて、俺は考えたこともなかった。
「なんだ、気付いてなかったってか?」
「……まあね」
いつだって呼んでもいないのに迎えにきた。
怪我をして店までタクシーを乗りつけた時も俺を運んだのは羽成だった。
「あん時だって警備員や従業員が見てたからな。未だにおまえがお客様待遇だってことは良く分かっただろうよ」
そんな言葉がまたチクリとどこかに突き刺さる。
―――客、か……
自分でも感じていたこと。
今さらどうというわけじゃない。
けれど。
「とにかく、いい加減世話焼かすなよ。社長だっていつまでもおまえに構ってるわけにいかないんだからな」
小言が乾いた音で耳を抜けていく。
ほんの少し躓いただけで差し出される手の意味を、勘違いできるほどめでたい性格でもない。
「……羽成には『俺に構うな』って言ってあるよ」
何度突き放しても何も変わらない。
それだけのことなのに。
「だからって『はいそうですか』ってわけにはいかんだろ?」
まったくおまえは……と呟きながら。
柿田が何気なく蹴飛ばしたものが鈍い音を立てて床に倒れた。
「いけね。事務所のゴミ箱持ってきたまま忘れてた」
円を描いて転がりながら、丸めたメモ用紙が零れ落ちる。
その奥に無造作に捨てられていたものに目が奪われた。
「……これ―――」
豊島が持っていた封筒と良く似ていた。
B5サイズで、どこにでもあるようなもの。
だが、何かの警告のように心臓が鳴った。
「ああ、それな。今朝、社長の知り合いっていう男が届けに来て……」
拾い上げてみたが、中身が入っていないのはすぐに分かった。
縦に二つに折られた封筒の外側には土と思われる汚れ、それから、わずかだが赤黒い染みがついていた。
「……まさか」
なくした日から、もう随分経っている。
今頃ここに届くのは変だが、あれからずっと落とし主を探していて、ようやくここに辿りついたというならそれも納得できる。
「この……中身は?」
「俺は見てないが、社長はパラパラッとめくった後ですぐにシュレッダーに突っ込んでたからたいしたもんじゃなかったんだろ」
柿田がこの件で嘘をつく理由はないのだから、その答えに安堵していいはずなのに。
いつまで経っても嫌な胸騒ぎは収まらなかった。



引っかかったものをいくつも抱えたまま、柿田と一緒にロッカー室を出た。
「たまには大人しく家でテレビでも見ながらメシ食えよ」
パシッと背中を叩かれ、曖昧に頷きながらも頭の片隅では木沢に電話することばかり考えていた。
「まっすぐ帰るんだぞ?」
俺を出口の方に追い払いながら、柿田がゆっくりと事務室のドアを開ける。
何気なく目を遣ったその先に羽成の姿が見えてドキリとした。
「……いないんじゃなかったのかよ」
思わず呟くと、柿田が「ああ」と苦笑いした。
「急な用事らしくてな。客と一緒に戻ってきた」
中には男が二人、羽成と向かい合って座っていた。
一人は恰幅がよく、いかにもどこかの社長といった風情だが、金色の腕時計の下にはかなり目立つ傷跡があり、その世界特有の影がチラついていた。
「……ヤクザかよ」
「まあ、そう言うな」
すぐ横でペコペコと頭を下げている痩せた男は部下か何かなのだろう。
立場的には羽成の方が上らしく、一見どっしりと構えている社長風の男さえ諂っているのが一目瞭然だった。
「おまえにゃ分からんかもしれんが、そうそう簡単に切れるモンじゃないんだよ」
柿田は当然のようにそう言って頷くと、俺を出口の方に押しやった。
「まあ、お互い表向きは普通の企業だ。合法的に金になる話なら後はどうでもいいってのが本音だろう」
何にしてもおまえは近づくな、と念を押して、そのまま事務室に入ると柿田は静かにドアを閉めた。



「……なんだよ」
十河がいた頃に味わったのと同じ疎外感。
自分とは無関係なのだから当たり前だと思っても、吐き出せない感情は胸にわだかまる。
それを押し出すようにふうっと大きく溜め息をついて踵を返したけれど。
「ねえ、あなた、氷上クンでしょ?」
廊下に響いた声にまた不快感を煽られた。
「だったら?」
女は店の従業員なのだろう。
派手な容姿がそれを物語っていた。
「前の社長サンの愛人だったってホント?」
こちらに対して好意を持っていないことが丸分かりなその態度に、口を開く気にもならなかった。
何も答えずにいると女は意味ありげに笑って、俺のすぐ横に立った。
そして、目を覗き込むように首を傾げながら、少し背伸びをした。
「ねえ、今度も社長サン狙いなの?」
グロスを塗りたくった唇が耳元で囁く。
たっぷりと悪意が含まれた声に嫌気が差した。
「……羽成のことなら、俺には―――」
関係ない、と続くはずの言葉を「うふふ」という笑いで遮って、次の毒を吐く。
「ダメだよ、そんなウソ。前にお店に来た時も社長サンのこと見てたの、ちゃんと知ってるんだから」
そう言われて、あの日「社長の知り合い?」と声を掛けてきた女だということを思い出した。
「ねえ、社長サンと寝たことあるの?」
ベッドでも冷たいのよね、と。
吐息交じりの声が棘を纏って絡みつく。
こちらに対する牽制だと分かっていても不快感を隠すことはできなかった。
「悪いけど、急ぐから」
無理やり切り捨てて歩き出すと、勝ち誇ったような声が背中に降る。
「またね、氷上クン」
後ろ手にドアを閉めながら、今度柿田に呼ばれても迂闊に顔を出すのはやめようと溜め息をついた。


カフェで軽い食事を取った後、木沢に電話をかけた。
事務所にいた頃なら私用の電話には出なかった時間。
だが、今日はあっさりと「すぐに行くよ」という返事があった。
待ち合わせたバーはまだそれほど客の姿もなく、木沢はすぐに俺を見つけた。
「珍しいね。君から誘ってくれるなんて」
何かあったのかと問われたがすぐには切り出せず、世間話のつもりで羽成の事務所に行ったことを話したらクスクスと笑われた。
「『会いたい』なんて可愛いことを言ってくれたわりには羽成氏の話なんだ?」
そんな言葉に不意を突かれて思わずむせ返った。
「これのどこが羽成の話? それ以前に、『会いたい』なんて言った覚えは―――」
思い返してみても、「暇だから一緒に飲まないか」というような言葉しか口にしていない。
けれど、木沢は「そう?」と意味深に問い返した後、
「僕にはそう聞こえたけどな」
涼しい顔で細長いグラスを傾けた。

揃って一杯目を空にした頃、テーブルに頬杖をついていた木沢がこちらを覗き込むような視線を送ってきた。
「聞きたいことがあったんじゃないの?」
俺から電話が行った時点で用件は分かっていたのだろう。
遠慮なくどうぞ、と悪戯な笑みで先を促された。
「……事務所、辞めたって聞いたけど」
事実である以上、それについては肯定するはず。
だが、裏にある事情まで話すことはない。
こちらの予想通り、木沢は「ああ、それか」と呟いた後、冗談めかした言葉ですべてを片付けようとした。
「最近はお固い仕事ばかりで面白くないから、他で楽しいことでも見つけようかと思って」
知り合ったばかりの頃なら、そんな理由も鵜呑みにしたかもしれない。
だが、今は違う。
「真面目に答えろよ」
努めて小さな声で言ったが、口調はずいぶんきつくなった。
それでも木沢は普段と少しも変わりない。
「心配してくれるんだね。嬉しいよ」
どこか茶化すような目線を返した後はさらりと話を変えた。
「僕のことよりも羽成氏の心配でもした方がいいんじゃないの?」
当然のようにヤクザが出入りしているような状態なのだ。
見えない部分にいろいろな問題を抱えているのだろうということくらいは承知している。
だが、木沢が言ったのはそれとは若干方向の違う話だった。
「村岡を使っていろいろ調べさせているらしいね」
どう受け取っていいのか判らずに戸惑っていると、こちらの反応を窺いながらゆっくりと続きを吐き出した。
「知りたいのは十河氏が撃たれた日のことらしいよ」
金で動く人間は使いやすいから、と笑いながらグラスを空けて。
それから、物騒な仮説を突きつけた。
「十河氏を殺した人間の情報を集めてるってことだよ。……行き当たった人間を抹殺するためにね」
話題を変えるための悪ふざけなのだろう。
そうは思いながらも、心臓は嫌な音を立てる。
「……けど、犯人は捕まったはず―――」
「そう。撃った男は捕まった。彼には十河氏に対する恨みもあって動機は充分。もちろん誰もそれ以上を疑っていない」
「だったら―――」
思考が絡み、言葉が停止する。
「撃つように命じた人物が別にいるとしたら? 警察の調査にも十河氏の事務所側の情報にも引っかからなかったくらいだから、相当厄介な相手だとは思わない?」
もちろんただの仮説に過ぎないけれど、と。
そう言って木沢はまた意味深な笑みを見せた。
「けど……それが本当だとしても、羽成には関係ないだろ?」
平静を装ったが、掠れた声に動揺が滲んでいることは自分でも気付いていた。
「そう。でもね」
それを面白がるように、木沢は冷たくなった俺の指先に触れて次の問いを吐き出す。
「もし、本当の犯人が見つかったら? その時、羽成氏はどうすると思う?」
「そんなこと―――」
俺に分かるのは、羽成にとって十河の存在は絶対だったということだけ。
木沢の問いに対する答えなど出せはしない。
けれど、焦燥感はあっという間に全身に広がって、指先からだんだんと血の気を奪っていった。
「今の羽成氏は大切な人が残したものを守りながら時間を潰しているだけ。……未だに真犯人が見つからないおかげで、ね」
そう告げた木沢は、穏やかな、けれど、どこか冷たい笑みを浮かべていた。
落ち着くためにグラスに残ったものを飲み、ふうっと息を吐いたけれど。
本当はそのまま呼吸を忘れそうになるほど動揺していた。
「でも、まあ、すぐに真犯人が見つからなかったのは君にとっては良かったんじゃないのかな」
お守りをしてくれる人がいなければどうなるか分からない子だからね、と。
そんな言葉もただ耳を素通りしていくだけだった。


トイレに行くと言って席を立ち、レストルームで顔を洗った。
アルコールは確かに身体の中を巡っているはずなのに、神経はピリピリと尖って一秒ごとに覚醒していく。
「……木沢があんなこと言うからだ」
明日にでも豊島に電話をして、あの時の資料の中身がどんなものだったかを教えてもらおう。
そう思った時、ポケットに突っ込んでいた携帯が震えた。
ウィンドウに表示された発信者の名前は「k」。
席で待っているはずの木沢だった。
「……何?」
不審に思いながら電話に出ると、妙な間の後で『僕だけど』という、普段より少しくぐもった声が聞こえた。
携帯を手で覆っているのか。
あるいは、あまり口を開けずにしゃべっているような。
そんな様子に、また何かが引っかかった。
そして。
『悪いけど、急用で今から出かけることになったんだ。君も今日はもう家に帰って―――』


話はまだ途中だった。
けれど、電話は突然プツリと切れ、そのまま音をなくした。



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