運命とか、未来とか

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「……何……?」
裏口に近い通路で携帯を耳に当てたまま。
だが、立ち尽くしている場合ではなさそうだとすぐに悟った。
外に出てタクシーを捕まえることができたら、まっすぐ家に帰る。
万が一、車に乗った後でつけられたなら、羽成の店に行けばいい。
そう決めて、何食わぬ顔で歩き出したけれど。
「失礼ですが、木沢さんとご同席されていた方ですか?」
すぐにそれはやってきた。
「いえ、俺は―――」
足を止める素振りを見せつつ、けれど、立ち止まることはしなかった。
その間に非常口への案内プレートを視界の隅で確認し、言葉を返した。
だが、男の目が切れたばかりの携帯に注がれているのに気付いた瞬間、演技など手遅れだと悟って走り出した。
「そいつだ、捕まえろ」
発せらた声はさほど大きなものではなかった。近くに仲間がいるのだ。
心の中で舌打ちしながら一気に通路を駆けた。
一度曲がるとその先に非常口の案内板があり、ドアには鍵などかかっていなかったけれど。
ノブを回し、開いた隙間から外気が流れ込んだその時、先ほどとは違う男に腕を掴まれ、すぐにガムテープで縛り上げられた。
「こっちに車を回せ!」
手で口を塞がれ、外に引き摺り出されると、狭い路地に滑り込んできた黒い車に押し込まれた。
荒っぽくドアが閉められ、外の音が遮断される。
運転席、助手席、そして、後部座席の俺の隣にも一人。
いつの間にか、俺の首筋にはナイフの刃先が触れていた。
「木沢に何を頼まれた?」
時折肌をかすめる冷たい感触。
急ブレーキでもかけられたなら咽喉を裂く位置だった。
なのに、どういうわけか少しも怖いとは思わなかった。
「……別に何も」
「よほど痛い目を見たいようだな」
まあいい、と呟いた後、男は口を閉ざした。
「木沢さん、無事なんですか?」
少し怯えた振りをしながら小さな声で尋ねると、「すぐに会える」という短い返事があった。



乱暴に背中を押され、入るように促されたのは古びたビルの一室。
何かを探した後のようにデスクの引き出しは半開きで、辺りには書類が散乱していた。
窓から差し込む向かいのビルの光以外に部屋を照らすものはなかったが、机上の電話だけは小さなランプを点滅させていた。
「何してたんだ。随分と遅かったな」
待っていた男たちも皆ラフな服装で年も若い。
ヤクザ直系の年少組というよりは、雇われ組織の下っ端という印象だった。
「奥だ。さっさと歩け」
半ば引き摺られるようにして突き当たりまで進むと、床に投げ出されていた木沢の足が見えた。
動く気配さえないそれに、一瞬心臓が絞られるような錯覚に陥ったけれど。
そんな不安はすぐに解消された。
「……ごめん。間に合わなかったんだね」
膝より上に光は当たっていなかったが、金属がぶつかる音で片手はどこかに手錠で繋がれているのだろうと推測できた。
何にしても、暗闇に慣れていない目では正確な状況の判断はできない。
「ここで大人しくしていろ」
あっという間に取り出されたガムテープで足を拘束され、木沢の横に転がされた。
木沢はそれを見て小さく溜め息をついたが、すぐに一番偉そうな男を呼び止めた。
「彼は関係ないですよ。ただの飲み友達の大学生。すぐに家に返した方がいい。警察沙汰になったら困るでしょう?」
だが、こんな脅しなど通じるはずもない。
「だったらさっさと片付けてどこかに埋めりゃ済む話だ」
男は振り向きもせずにそう言うと、見張っていた連中全部を連れてその場を立ち去った。


「大丈夫? 怪我は?」
男たちが見えなくなると、木沢はすぐに声を掛けてきた。
「……別に」
この先どうなるのかなんて見当もつかなかったが、隣に木沢がいることは少なからず俺を安堵させた。
「もうちょっと上の人間じゃないと話にならないな」
困ったことになったね、と言いながら首をかしげる。
その頬は青っぽく変色していてわずかに腫れていたが、相変わらず危機感のようなものは見えなかった。
木沢には何か策があるのだろうか。
任せておけば大丈夫なのだろうか。
だが、そんなことを思った直後、現実は甘くないことを思い知らされた。
「今何時か見てもらえる?」
木沢の腕時計は繋がれていない方の手につけられていて、針もちゃんと動いていた。
なのに。
「……え?」
そう思った瞬間、木沢が「ああ」と納得した様子で頷いた。
「こっちは折られちゃってね。残念ながら動かないんだよ」
薬が入ってるからそれほど痛みはないと、そんな説明さえ笑ってしていたが、これが木沢でなければ恐怖のあまりおかしくなってしまったのかもしれないと思っただろう。
「もっともそのおかげで頭が今一歩働かなくて困ってるんだけど……でも、君の事だけはなんとかしないと」
どうしようかな、と呟いた後、唐突に降ってきた問いは「ライターを持っていないか」というもの。
「さっき取り上げられた」
脳に刺激を与えるために煙草でも吸うつもりなのかと思ったが、どうやらそういうことでもないらしい。
木沢の横顔はいつになく真剣だった。
「じゃあ、そこに僕の名刺入れがあるから、取ってもらえる?」
目線が示したのはデスクの上。
四角いものが無造作に放り出されていた。
バランスを崩しながらもなんとか立ち上がり、後ろ手にそれ取ると、木沢の前まで戻って手錠をかけられている方の手に握らせた。
「お疲れさま。君がこういう時に落ち着いていられる子でよかったよ」
繋がれたまま器用に動く手が、それでも少しもどかしそうに中から細い紙切れのようなものを取り出した。
「何するわけ?」
「火をつける」
騒ぎでも起こさないと顔を出さない奴が二人ほどいるから、と。
そう言うと、怠そうな足でシュレッダーから溢れた紙切れをかき集めた。
「ちらっとでも顔を出した奴全部を確認して。向こうが羽成氏を知ってるならそれで十分だから」
十河の事務所や羽成の店に出入りしている人間はもちろん、黙っていても自動的に羽成が迎えにくるような店ならスタッフまで全部含めて思い出すように言われたけれど。
「見たことあるヤツだからって敵じゃないって保証は―――」
それがいったいどれほどの可能性になるのか見当もつかなかった。
「大丈夫。彼のテリトリーに出入りしているなら、怒らせたらどれくらい怖いかってことくらいは承知してるはずだ」
それでも躊躇っている俺に、宥めるようにもう一度「大丈夫だから」と告げた。
「これで君が神様にどれくらい好かれているかが分かるよ」
その後、少し悪戯っぽい目線を投げて。
「こっちにおいで」
多分最後になるから、と。
そう言って俺の頬にやわらかくキスを落とした。


「じゃあ、そろそろ行きますか」
時計は真夜中を回ったところ。
それを確かめた後、木沢はふっと息を抜いて視線を移した。
「君はその辺りで見てて」
他にはどうすることもできなくて。
一つ頷くと縛られた足で距離を取る。
それを見届けた後。
シュッという軽い音がして、木沢の足元に集められた紙くずに火が投げ込まれた。



俺たちが見守る中、白い紙が炎に変わっていく。
期待していたほどの勢いはなかったが、暗闇にじわじわと光と煙が広がっていく様は不思議とある種の心地よさを運び、身体から力を奪っていった。
「やけに落ち着いてるね」
「……そうでもないよ」
このまま全て焼けてしまえばいいのに、と。
心のどこかにそんな考えが過ぎったけれど。
流れてきた煙にむせ返って、現実はそれほど簡単ではないことを思い知る。
「大丈夫? この分だと先に火災報知器が鳴るかもしれないな」
それはそれで好都合だけど、と木沢が呟いた瞬間、見張りが怒鳴り込んできた。
「ふざけた真似しやがって!」
男は木沢を思い切り蹴飛ばした後、側に放り出されていた上着を小さな炎に被せ、踏みつけた。
ようやく流れ始めた煙も男の動きにかき消され、宙に散っていく。
「もうお終い? つまらないな」
わざとそんな言葉で男を煽るのは、こちらに注意を向けないためなのだろう。
この後どんな仕打ちが来るか分かっていても、俺が木沢のためにしてやれることはなかった。
「てめぇ……」
男が木沢の襟元を掴み上げ、思わず顔を背けそうになったけれど。
その瞬間、乱暴にドアが開き、ハッと目を見開いた。
ドアから険しい顔を覗かせたのは見張りの連中よりもずっと年上の男。
記憶を手繰り寄せるまでもなく、「あっ」と小さく呟いていた。
「よかった。君の知り合いだったんだね」
男に首を締め上げられたまま、木沢の表情に安堵が浮かんだ。
「知り合いっていうか……」
夕方、羽成の店で見かけたばかりだと言うと、こちらを見ていた男の顔色がサッと変わった。
その時、『君が神様にどれくらい好かれているかが分かるよ』と言った木沢の言葉が鮮やかな音で脳裏を過ぎっていった。



その後は意外なほどあっけなかった。
俺と羽成の間に個人的な繋がりがあるということと、財布に店の会員証が入っていること、夕方どこかの社長と一緒に事務所に来ていたのを見かけたことを話すと、男の態度は一変した。
俺の手に巻かれたテープを剥がすと、見張りを一人だけ残して後は部屋から追い出し、「念のため」と言って目の前にあった電話で羽成に連絡を取るよう促した。
通話はスピーカーにされていたから、耳に当てなくても全て聞こえていた。
コール音が三つ鳴り、その後、店の名前を告げたのは聞き覚えのある女の声だった。
「……氷上です」
『あら、こんばんは。社長が携帯に出なかったからこっちにかけたの?』
今ちょうど接客中なのよ、という声はこの上なく暢気に響いたけれど。
男の顔色は一層険しくなった。
「無理言って悪いんだけど、すぐに呼んでもらえないかな。ちょっと困ったことがあって」
駄目なら柿田でもいいと言ったが、女は承知しなかった。
『氷上君のことは真っ先に社長に連絡するのがこの店の決まりなの。できるだけ早く呼んでくるから』
そう言うとこちらの返事も待たずに席を立ったらしい。
保留中のメロディーが流れ始めるとすぐ、男は苦い表情で足の拘束も解くように命じた。


それから間もなく。
プツッという音と共にメロディーが消え、代わりに流れてきた羽成の声は一段と無愛想だったけれど。
困ったことになったというのはもう伝わっているのだろう。
何の前置きもなく『すぐに迎えにいくから場所を教えるように』と言われた。
「……住所分からないから電話を替わる。それよりも、おまえが来るのか? 仕事中なんだろう?」
尋ねたが、その問いに対しての返事が来る前に受話器は俺の手を離れた。
勝手な奴だなと思いながら視線を上げると、男の額には不自然なほどの汗が浮いていた。
「お電話替わりました。このたびは手違いで――――」
いつの間にかスピーカーも切られていて話の内容は男の言葉から推測するしかなかったが、羽成は俺を店まで送り届けるという申し出を断ったようだった。
その後、男は何度も額の汗を拭きながらこのビルの場所を説明し、それが終わると再び「存じ上げなくて」というような弁解を始めたが、すぐに電話は切られてしまったらしく、その後は受話器を握り締めたまましばらく呆然と立ち尽くしていた。



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