運命とか、未来とか

-32-




妙な緊張感が流れる部屋。
木沢だけがいつもと同じように口を開く。
「羽成氏、相当怒ってるみたいだね」
壁にもたれたまま無造作に脚を組み替え、心底おかしそうに笑いを堪えるその表情には緊張感など欠片もなかった。
「そっか、自分で迎えにくるのか」
まるで普段通り。口元には悪戯な笑みを浮かべて。
「どんな顔で現れるのか見られないのが残念だよ」
その言葉に男の表情がまた強張るのを眺めながら。
でも、やっと。
今まで自分がふらついていた場所がどんなところなのかを悟った気がした。


男はもう忌々しそうな表情さえ浮かべる余裕はないらしく、引きつった顔で見張りの一人に「向こうで電話をかけるから邪魔をするな」と言い残すと部屋を出ていった。
おそらくは夕方一緒に店を訪れた男に報告をするためだろう。
羽成経由で耳に入る前に自分から話した方がいくらかマシだということくらいは俺にも分かった。
残された見張りは気まずそうにこちらを見ると、
「あの、あっちに客用の部屋があるんで」
そこでお茶でも飲んで待っててください、とぎこちない丁寧語で頭を下げた。
それに頷きながら、ふっと息を抜く。
後は羽成の到着を待って病院へ行くだけ。
衣服の上からでは折られたという腕の状態は分からなかったが、少なくとも木沢の顔色はそれほど悪くない。
仕事には差し障りがあるだろうが、骨折ならしばらく不自由な思いをするだけで済むはず。
そんなことをあれこれ考えながら振り返ったが、一緒にここを出るとばかり思っていた木沢の手はまだ繋がれたまま、ほんの少しも解放される気配など見えなかった。
「手錠の鍵は……」
どこにあるんだ、と見張りに向かって言いかけたけれど。
その先は木沢に遮られた。
「じゃあ、氷上君。気をつけて」
ここでお別れだ、と。
繋がれたままの指先が軽く上げられた。
「一緒に行くんじゃ―――」
ドクン、と嫌な音で心臓が鳴って。
思わず見張りを振り返ったが、男は当然のように俺だけをここから連れ出そうとしていた。
「なんで……」
問い返してみたけれど、自分でも薄々感じていたのかもしれない。
心のどこかに「やっぱり」という気持ちがあった。
それでも納得できないまま。
散らかったフロアの片隅に立ち尽くしていると、木沢が言い含めるようにゆっくりと言葉を足した。
「君はこの件とは無関係だ。それを忘れないで」
それから、もう一度、「気をつけて帰るんだよ」と。
子供に言って聞かせるようなやわらかな音が響いた。
「けど……」
自分一人だけで帰る気になれない。
そう告げようとしたけれど。
木沢はやっぱりにっこり笑って、続くはずの言葉を止めた。
「だったら、一つだけ頼んでいいかな」
その後。
真っ直ぐにこちらを見つめたまま。
いつか吉留に会うことがあったらよろしく伝えてくれ、と。
穏やかな声がそう告げた。


半ば呆然としたまま。
見張りに背中を押されながらその場を後にした。
「そのへんに座っててください」
案内された部屋は、エレベーターから一番遠い場所にある小奇麗なオフィスの一角。
先ほどの部屋と同じフロアにあるとは思えないほど華美な内装で、どっしりとした革張りのソファや凝った飾りの施された時計が置かれていた。
「迎えがきたらここに案内されると思うんで」
恭しく、けれど不慣れな様子で出されたコーヒーは淹れたての良い香りがしたが、木沢のことが頭を占領していて、とても口をつける気にはなれなかった。


乾いた空気。
じりじりと過ぎていく時間。
金色の秒針を眺めながら、溜め息をついて。
飾り棚のガラスに映った自分の姿から目を逸らした。

羽成が来たのはそれから十五分ほど経った頃。
「こちらです」
階下まで出迎えにいっていた男の声がして、淀んだ空気がわずかに揺れる。
おどおどした様子でドアを押さえる見張りの向こう、羽成は静かに立っていた。
ポケットに手を入れて、煙草を咥えて。
上着は着ていたけどボタンは外していて。
ちらりと見える肩のホルスターには当たり前のように銃が収まっていた。
それを見た瞬間、心臓がギリリと嫌な音を立てて軋むような気がした。
最初から見えるようにしているのだから、威嚇に過ぎないのだろうけど。
それでも。
俺が知っている羽成とはどこか違っていた。

「申し訳ありません。その、ですが、本当に今回のことは―――」
ここへ来る間も散々詫びは入れていただろうに、男はまだ言い訳とも謝罪ともつかない言葉を並べ始めた。
けれど、羽成はその存在さえ抹消しているかのように、ただ俺の顔を見て「それは?」と尋ねた。
「え?」
目線の先は俺の右頬の辺り。
指先で触れると4、5センチほど皮膚がささくれ立っている感触があった。
捕まった時か車に押し込まれる時に抵抗したせいでどこかに引っ掛けたのだろう。
手には乾いた血がわずかについただけで、痛みはなかった。
「別に、たいしたことは―――」
浅い傷とはいえ、言われるまで引っ掛けたことにさえ気付かなかったのはやはり極度に緊張しているせいなのだろう。
数分後には殺されるかもしれない木沢のほうがよほど落ち着いていたな、と苦い気持ちになった。
木沢だけじゃない。
羽成だって、何かあれば本気で銃を抜くつもりなのだろう。
たとえここにいる全員を殺すような事態になっても動じることはないのだという気がした。


ピリピリとした静寂。
「あ……あの……羽成社長」
消え入りそうなほど小さな声が掛かると、羽成がわずかに視線を動かした。
ただそれだけのことにさえ傍らに突っ立っていた男と見張りがビクリと後ずさりする。
「これは、ほ……本当に手違いで……」
木沢と一緒にいたので確認をしないままここへ連れてきてしまったが、分かっていればこんなことはしなかったし、それ相当のお詫びはするというような説明が続く中、羽成は何も言わずに煙草を吸っていたけれど。
そのうちに面倒になったのか、男の懇願を最後まで聞かずに切り捨てた。
「命乞いなら自分の雇い主にすることだな」
この件を差し引いた上でまだ利用価値があるなら、向こうがそれなりの対応をするだろう、と。
酷く冷たい声で言い渡した。
吸いかけの煙草が床に落とされ、靴先がそれを揉み消す間、男は汗を浮かべたままそれを見つめていたけど。
「も……申し訳……ありませんでした」
ようやく言葉を吐き出した時、その顔はすっかり色を失くしていた。

「歩けますか?」
突然降ってきた声と再びこちらに向けられた視線にハッと我に返った。
「あ……うん、別に」
怪我はしていない、と言うつもりで。
けれど、その先は声にならなくて。
無言で席を立つと羽成の後から部屋を出た。


靴音が冷たく響く長い廊下。
その途中、俺たちを見送るためについてきた男が「ちょっと失礼します」と言って木沢のいる部屋を覗いた。
見張りと小声で何か話した後、「戻るまで待ってろ」と声をかける。
それを眺めながら、羽成を引き止めたけれど。
「……木沢、どうなる?」
こちらを見下ろした目はまだ俺の知らない誰かのようで、
「それは彼が何をしたかによるのでは?」
戻ってきた返事も酷く冷たく聞こえた。
「じゃあ、もし、それが分かったら―――」
木沢は多分そんなことは望んでいないだろうけど。
それでも、やっぱり助けたいと思った。
けれど。
「貴方には関わりのないことです」
最後まで俺の話を聞くことさえなく、羽成はこの会話を終わらせた。
耳を抜けていった何の感情も篭らない声。
どんな言葉で頼んでも手を貸す気などないのだと判ったけれど。
「……木沢を……連れてくる」
呟いた時にはもう何かが切れていて、体は勝手に方向を変えていた。
でも。
「これ以上手を焼かせるつもりなら、無理矢理連れて帰ることになりますが」
そんな言葉と共に、俺の腕を掴んだ手に力が篭った。
何を言っても、後は引き摺られて車に押し込まれるだけなのかもしれない。
それでも、どうしてもその場を離れることができなかった。
「頼むから……」
以前、誰かを失くす覚悟をしておけ、と言ったのは木沢だった。
あれは木沢自身のことではなかったのかもしれないけれど。
相手が誰であっても。
そんな覚悟ができるはずはない。
「……怖いんだ……十河の時みたいに……また……」
自分の咽喉にナイフを突きつけられた時も、木沢の放った炎がすぐ近くでじわじわと広がっていった時も、少しも恐怖感など持たなかったのに。
言葉を吐き出そうとして開いた唇はどうしても震えが止まらなくて。
そのまま何も言えなくなった。
身体から血の気が引いて、羽成の手の温度さえ感じなくなって。
それを悟られたくなくて俯いた途端、つま先で涙が散った。

その後は短い沈黙があったけれど。
頭上で吐き出された溜め息がそれを終わらせた。
「木沢を……助ける気がありそうな相手に連絡する程度なら」
結果は保証できないが、と。
そんな言葉も足されたけれど。
「……それでもいい」
涙はまだ止まっていなくて。
視線を上げることさえできないまま、わずかに頭を下げた。
「それと、もう一つ」
たとえ木沢の生死がこの先ずっと分からないままだったとしても、気持ちの整理ができるなら、と。
そう念を押されて。
「……分かった」

先のことなんて考える余裕はなかった。
ただ、俯いたまま小さく頷いて。
少しでも可能性があるなら、と。
震える声でそう付け足した。

その後、羽成はどこかに短い電話をかけた。
後ろでそれを見守っていた男の顔はますます険しくなったけれど、口を挟むことも止めることもしなかった。

その後の記憶は切れ切れで。
ビルの真ん前につけられた車を男がどんな顔で見送ったのかは全く覚えていなかった。
助手席に乗せられ、シートベルを掛けられ、ぐったりとドアに身体を預けた。
窓に額をつけて。
どこかで見た景色は、何度も通った道。
けれど、家に帰る時に曲がるはずの交差点を車は真っ直ぐに進んでいった。
どこへ行くのかと問う気力もないまま。
ぼんやりと街路灯を眺めていると、「今夜はホテルに」という羽成の声が聞こえた。



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