途中、車は寄り道をしたけれど。
外を見る気力もなくて、それがどこなのかを確かめようとは思わなかった。
それが病院だということを知ったのは、フロントも通らずに駐車場から直接ホテルの部屋に案内された後。
「怪我の手当てに必要なものは揃えましたが、お医者様をお呼びした方がよろしいのでは……」
後から入ってきたスーツ姿の男がテーブルに消毒液やガーゼを並べながら羽成の顔色を窺うと、「ここへ来る前に寄ってきた」という返事があった。
「そうですか。では、車で待機しておりますので、用事があればご遠慮なくお申し付けください」
男が出ていった後、羽成がポケットから取り出したのは銀色の包装。その表面に記された文字には見覚えがあった。
時折り母親が服用していた薬。それと同じものだと気付くのに時間はかからなかった。
安定剤だったか睡眠薬だったか、詳しいことは分からなかったけれど、いずれにしても羽成は俺をまともな精神状態じゃないと判断したのだろう。
「……なんだよ、そんなもの―――」
不満を込めて言いかけた時、不意に羽成の手が俺の頬にかかり、そっと右へ押しやった。
真横にあったのは大きな鏡。
そこに映っていた顔は、柔らかい暖色の光に照らされているにもかかわらず酷く青ざめていて、およそ生きている人間とは思えなかった。
「身体が温まるまでシャワーを浴びてきてください」
その後で傷の手当てをするから、と着替えを渡され、そのままバスルームに追いやられた。
部屋の中よりもずっと明るい小さな空間。
それでも、いつもなら眩しいとは思わないのに。
今夜に限って目が痛むような錯覚に陥った。
思わずギュッと瞼を閉じると、今度はチカチカする残像に悩まされる。
心のどこかにずっと焦燥感のようなものが渦巻いていて、なのに自分が何に怯えているのか分からないことが一層不安を煽った。
「……あんなことがあったんだから動揺して当然だ」
自分に言い聞かせながら湯を浴びたが、身体は温まるどころかどんどん熱を失っていくような気がした。
バスルームから出ると、テーブルに酒が置かれていた。
薬が嫌なら……という羽成の配慮なのだろうとは思ったけれど。
「飲ませてさっさと寝かしつけようって? 言っとくけど、俺、その程度の量で寝るほど弱くないよ」
発した言葉は空気を揺らし、神経をピリリと尖らせる。
それと同時に理由の分からない苛立ちが満ちていった。
羽成の返事によっては、また険悪になるだろう。
そう思って身構えたけれど、戻ってきたのは「知っています」の一言だけ。
その後は何も告げることなく、窓辺に立ったまま背を向けるとポケットから煙草を取り出して口に咥えた。
ライターの青い炎が消え、代わりに立ち上った白い筋がゆるりと散っていく。
ただ、ぼんやりとそれを眺めて。
今、自分が何を考えるべきなのかを探そうとしたその時、鼻先に流れ着いた空気がふわりとかすかな匂いを伝えた。
懐かしい、と。
そう思った後、少しだけ胸が痛んでギュッと目を閉じた。
「おまえって……十河と同じ煙草吸ってるんだな」
今までだって何度もこんな場面はあったはずなのに。
気付かなかったのは何故だろう。
記憶を辿りながら、テーブルに投げ出された箱から煙草を取り出した。
自分の手が冷たいせいだと分かっていたけれど。
そこに置かれていたライターはまだ羽成の温度が残っているような気がして。
火が灯る心地よい音を耳の奥で反芻しながら、深く息を吐いた。
吸い込むたびに眩暈と安堵が交錯し、静かな部屋に揺らぐ白い煙に遠い日が蘇る。
まだ鮮明に残っているそれが残された傷を抉りそうになって瞼を伏せた時、不意に羽成が口を開いた。
「煙草を教えたのが、十河だったので」
そんな言葉は少し意外なようで。
けれど、深い記憶にしっくりと馴染んだ。
十河がどれほど羽成を気にかけていたのか。
そんなことさえ、失くした今の方がよく分かる気がしたから。
「……ふうん」
気のない返事と共に身体から力が抜けていくのを感じながら、ゆるりと目線を移すと視界が歪み、体が揺らいだ。
倒れるかもしれないと思った瞬間、いつの間にか目の前に立っていた羽成が俺の腕を掴み、咥えていた煙草を取り上げて灰皿に置いた。
「体調が戻ってからにしてください」
そう言って頬に触れる手も、こちらを見下ろす目も。
今ここにいるのはもうすっかり普段通りの羽成。
銃はまだ持っていたけれど。
それでも迎えにきた時とは違うのだと思いながら、身体は少しずつ熱を取り戻していった。
「手当てをするのでそこに座ってください」
少し距離のある口調も。
呆れるほど変わりない。
もう大丈夫、と心の中で呟いて深い安堵が気持ちを満たしていく。
「……羽成」
かすり傷だから消毒なんて必要ない、と。
ただそれだけ言うつもりだった。
けれど、口をついて出たのは別の言葉。
「さっきの……煙草吸い始めたのが遅かったってことなのか? それとも、そんなに昔から十河のこと―――」
問いながら、また目の前の現実が遠ざかる。
羽成はいったいいつから十河の元にいたのだろう。
どうして十河の部下になったのだろう。
そんなことを考えている途中。
シャツを羽織っただけの背中に温度を感じて顔を上げた。
身体が宙に浮き、ベッドに横たえられる。
その間も自分の意思は四肢のどこにも伝わらなかった。
感じるのは、ただ温度と煙草の匂いだけ。
けれど、それが全てであることが不思議なほど心地よかった。
「動かないでください」
そっと横を向かされた後、消毒液の匂いが鼻をついた。
手当てが済んだから眠るように言われた時、サイドテーブルの上に置かれた薬が一つ切り離され、銀色の包装が破れる音が聞こえたけれど。
「……飲みたくない」
今眠ってしまったら、きっと目覚めるのが怖くなる。
誰かがいなくなったことを確かめるために目を開けるのだろうか、と。
そんなことを考え始めるとまた、収まっていた何かが頭をもたげ、不安に変わる。
思考がぼやけていく一方で、神経はあちこち尖って。
何かを考えようとするたびにどこかを傷つけるような、そんな感覚に囚われながら。
「要らないって言ってるだろう?」
わざと突き放したように投げつけて、まだ薬を手にしている羽成に背を向けた。
「そうですか」
無理にでも飲むように言われるだろうかと思っていたのに、意外なほどあっさりした返事に拍子抜けしながら。
眠れるはずなどないと分かっていながら目を閉じた。
その後、かかってきた電話を取るために羽成は一度ベッドから離れた。
わずかに聞こえる会話の断片。
相手は柿田なのか、店のことを少し話すと「後は任せる」と言って電話を切った。
その背中が遠く見えるほど広い部屋。
ベッドは二つあったが、何故だか羽成がここに泊まるとは思えなかった。
店には戻らないとするなら、この後はどうするのだろうと考えるより先に全ての思考が不安に覆われる。
そんな感情を煽るように、静かな部屋に羽成の声が響いた。
「少し出かけてきます」
行く先は告げなかったけれど。
今夜の後始末なのだろうということくらいは俺にも分かった。
危なくはないのだろうか。
戻ってくるのだろうか。
不安が膨らみ始めた時、また指先から凍り付いていくような気がした。
瞬きさえできずにいる俺の目の前。
大きな手が上着を掴み、バサリと音を立ててその背中を覆い隠す。
銃は当然のようにその肩にあって、未来を暗澹とさせる。
「……羽成」
もう少し我が侭を言える間柄なら、泣き叫んでいたかもしれない。
けれど、口から出るのはいつもと変わりない抑揚のない言葉。
「仕事なのか?」
そうでないことは分かっているくせに。
否定の言葉を突きつけられるために問う自分を愚かだと思った。
「片付けなければならないことがありますので」
返事は予想通り。
答えながらチラリと時刻を確認した後、真っ黒な空に視線を投げる。
そんな羽成の仕草がまたマイナスの感情を増幅させた。
「……どこへ?」
本当に聞きたいのはそんなことじゃなくて、羽成が無事に戻れるのかどうかだったけれど。
返ってきた言葉は俺の問いさえ切り捨てていて。
「大人しく寝ていてください」
突き放すようにそれだけ告げると背を向けた。
「待てよ、俺も―――」
手を伸ばしても届かない。
その距離を埋めるように身体を起こして、鈍った思考回路がぐちゃぐちゃに絡んだ焦燥や不安を全て吐き出そうとしたけれど。
それより先に羽成がゆっくりと振り返った。
引き止めるために差し出していた手は先ほどよりも強く掴まれて。
それから。
唇にやわらかい温度が広がった。
「……ん……っ」
抱きすくめられた腕の中。
咽喉に流し込まれた水と異物。
抗えずに飲み下した後、自分を拘束していた腕はゆるく解かれた。
「少し眠ってください」
身体の奥に穏やかに響く声。
それでも、まともに羽成の顔を見ることはできなかったけれど。
「……おまえは、大丈夫なのか?」
朝になって電話をしたら声が聞けるのか、と。
尋ねる前に答えは返った。
「目が覚める前に戻ります」
もう一度、俺をベッドに横たえる時、肌に触れた手。
その温度が心地よければよいほど、無くした時に痛みが大きくなる。
分かっているから。
自分からその手に触れることはできなかった。
「……うん」
ただ、掠れる声で頷いて。
その後は何も言わずに部屋を出る背中を見送った。
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