今、この目に映っているのものが現実なのか夢なのか分からない。
曖昧な感覚の中、時間だけが肌の上を滑ってゆるやかに流れていく。
深い靄の向こうを見据えるように目を凝らし、視界がしっかりと形を結んだ時、そこにあったのは見慣れない天井と壁だった。
「……どこ……だ？」
薬のせいなのか、意識はまだどこかが欠けていて。
何故自分がここにいるのか分からないまま。
一点の曇りもなく磨かれた窓から差し込む光の向こうに一面の空が見えた時、ようやく安堵が流れ込んできた。

―――……昼過ぎくらいだろうか……

サイドテーブルに目を遣ったが、腕時計も携帯も見当たらない。
仕方なく掛けられていたシャツを取り、緩慢な仕草で衣服を身に着けると部屋の隅にあるドアを開けた。
その先にあったのも見慣れない空間。
ドラマで見る重役の部屋のような重々しいデスクと椅子。
けれど、その席の主は不在のようだった。
アンティークなのだろうか。
落ち着いているけれど値の張りそうな調度品に何故か懐かしさを感じた。
「……十河の部屋に似てるよな」
何気なく呟いた時、今朝の遣り取りが脳裏をかすめ、鈍い記憶が戻る。

……そうだ、羽成が―――

もどかしいほどゆっくりと遡っていくと、夜明け頃、部屋に戻った羽成と一緒にホテルを出たことを思い出した。
その時は今よりもずっと深く眠っていたはずなのに、額に触れたものがひどく冷たく感じて目を開けた。
「……羽成……？」
髪をよけて触れていたのは羽成の手だった。
「……もう……片付いたのか？」
霞のかかる頭を何とか動かしながら、ようやく尋ねたけれど。
木沢の安否については一切知らされることはなかった。
空はようやく白み始めてきたばかりという時間で、羽成はまだスーツ姿。
「薬はあまり効かなかったようですね」
返事はそれだけ。
それ以上待っても望んだ答えが返らないことに焦れて、
「木沢は？」
単刀直入にそう尋ねたけれど。
「全てが片付いたとしてもこちらに結果を知らせてくることはありません」
返ってきたのはそんな素っ気ない言葉と、「木沢がこの先名前も素性も隠して生きていくことになるなら、いくら待っても生死は知らされないだろう」という憶測だけだった。
「……そう、か」
それが約束だったのだから。
もうこれ以上何かを問うことはできないのだろう。

以前、羽成がいなくなった時は誰に尋ねても何も教えてもらえなかった。
あのままずっと羽成が戻ることなく、最後まで何も知らされなかったとしたら、俺はどうしたのだろう。
どこかで生きているはずと信じ続けただろうか。
それとも、どんなにそう望んでもいつかそれを否定したのだろうか。

「大丈夫ですか？」
再び意識が消えかかる中、穏やかな声が降る。
「う……ん」
掠れて音にならない返事など羽成の耳には届かなかったのかもしれない。
すぐに、このままホテルにいるか自分の部屋に帰るかを問われた。
「……おまえと……一緒に行く」
ぼんやりしたまま口をついて出たのはそんな言葉。
その後、適当に服を着て車に乗ったところまでは覚えていたが、その先の記憶はなかった。


「……ということは、やっぱりここは社長室だよな」
だとすれば内装が十河の趣味だというのも頷けた。
きちんと片付けられたデスクには書類の山と薬の袋。
銀色のシートに二列に並んだ錠剤が覗いているのが見えた時、無意識のうちに手が伸び、それをポケットにねじ込んだ。
「ここにいても邪魔になるだけだな」
特別帰りたいとは思わなかったが、他に行き場もない。
自分の部屋で薬を飲んでベッドに横になる以外に時間を潰す方法も思い浮かばなかった。
眠っている間に何十年も経って、すべてを忘れてしまえればいいのに、と。
ぼんやり考えていると、不意に重々しいドアが開いた。


きっちりとスーツを着て現れた羽成はまるっきりどこかの若手実業家といった風情で、昨夜のことなどなかったように涼しい顔をしていた。
けれど。
「……銃は？」
やっと吐き出した問いにも、さらりと物騒な言葉を返す。
「置いてきました。ここにあるのは十河が以前使っていたものだけです」
あの頃と何も変わっていない。
こいつの後ろにはまだそんな世界が広がっているのだ。
「なんで……銃なんか―――」
答えなど貰わなくても分かっていた。
何をおいても確実に終わらせることが重要だったのだ。
相手の頭を撃ち抜く覚悟で来ているという意思表示なのだから、向こうだって迂闊な態度は取らないはず。
現実を目の当たりにした後では強い言葉で咎めることもできなかったけれど、かといって「それなら仕方ない」と片付けることもできないまま。
「他にもっとマシな方法はなかったのか？」
不安な気持ちをなんとかしたくて投げかけたけれど。
「法律や話し合いが通じるのは、まともな相手だけです」
そんな答えを聞いたら、何も返せなかった。


陽射しが差し込む部屋に重い沈黙が充満していく。
息苦しさを紛らわせるように深い溜め息を吐いた時、羽成が口を開いた。
「銃が怖いですか？」
穏やかに問う。
その間、視線は一瞬たりともこちらから外れることがなくて、それが一層息を詰まらせる。
「……怖いよ」
どう説明したら分かってもらえるのだろう。
どんなに自分の中を引っ掻き回しても、すべてを言い当てる言葉は見つからない。
「心配しなくても貴方に向けることはありません」
「……分かってる」

恐れているのは、自分が撃ち抜かれることじゃなく。
十河の時のように、誰かが予告なく俺を訪ねてきて。
「羽成が死んだ」と告げる。
そんな未来だ。

銃で相手を制する世界には、当たり前のようにそんな最期がある。
そして、一度失くしてしまったら再びこの手には戻ることはない。
どれほど後悔しても。
どんなに泣き叫んでも。
何も変わらない。

「十河の……銃は……？」
切れ切れの問いに、羽成の目線が壁の一点に向けられる。
外からは分からなくても収納スペースになっているということなのだろう。
「……欲しいって言ったら？」
十河を守ってきたものを側に置いておきたいのだ、と。
そんなありきたりな説明しかできなかったけれど。
羽成は意外なほどあっさりとそれを承諾した。
「持ち歩かないと約束するなら」
昨日、俺が震えていたから。
そして、銃が怖いと答えたから。
渡しても使うことはないと判断したんだろう。
「……分かった」
そう答えると、鍵のかかった箱から銃を取り出し、「誰かに見つかったら『玩具だと言われてそれを信じた』と答えるように」と念を押してから俺に手渡した。
「弾は入っていませんので」
「……うん」

まだ体温の戻らない手の中。
見慣れない金属の塊は鈍く光りながら冷たさと重さを刻み込んでいく。

「……おまえの銃は？」
ここにはないというのだから、自宅か、あるいは別の場所か。
知ったからといってどうするわけでもなかった。
羽成はそれに答えず、「余計なことは知らない方がいい」と呟いて上着を取った。
「家までお送りします」
いつだって俺を遠ざけて、羽成自身はまだ十河と同じ場所にいる。
何度それを思い知っても、いつかは別の場所に立ってくれることを願わずにいられなかった。
「一人で……帰れるよ」
痛みに似た感覚を宥めながら。
壁に寄りかかって窓の外に視線を投げた。
明るく晴れた空がまるっきり作り物のようで、十河が死んだ日のことを思い出す。
「……おまえ、明日何するんだ？」
手の中でまた銃が鈍い光を放つ。
こんなものを持ったくらいで、近づけるはずはないことくらい分かっているのに。
「明後日は？……その次は？」
正気を失ったように思考があちこちに飛んで、意味のない問いになる。
どこへ逃避しても混乱しているのは目の前にある世界じゃなく自分の内側。
眠っている間にどれだけ時間が過ぎても、目覚めた時にはまた整理のできていない感情に支配されるだけ。
「……何してるんだろう、俺」
思わず呟いた時、青い空を見つめていた視線は、無理矢理部屋の中に戻された。
「……何だよ？」
頬にかかる大きな手を払って。
でも、顔を上げることはできないまま。
「薬はお預かりします」
その言葉が耳を抜けた時にはもう錠剤の入った袋はポケットから抜き取られていた。
「返せよ。俺のだろう？」
「もう必要ありません」
「勝手に決めるな」
わずかに声を荒げた時、静まり返った部屋にノックの音が響き渡って我に返った。
「……もう帰るよ。これ以上邪魔をするつもりは―――」
薬を取り返すつもりで伸ばしていた自分の手がやけに重くて。
指先がそれに触れるまであと少しという距離で止まった。
まずい、と思った時には視界はぐにゃりと歪み、突然平衡感覚を失った身体は羽成の腕の中に落ちていた。
「……悪い、何か怠くて―――」
目を閉じたまま、それでも何とかその場を離れようとしたけれど。
揺らぐこともなく受け止めた手はまだしっかりと背中に回されていて、自由を与えようとはしなかった。
「いいよ。もう自分で立てる」
大丈夫と告げる言葉の隙間を縫って再びノックが響く。
けれど、返事がないことに焦れたのか、やがてノブが回り、遠慮がちにドアが開く音がした。
「社長、お出かけになって……―――」
聞き覚えのある声は突然そこでプツリと切れ、あ、という短い音と共に息を詰めた。
「……し……失礼しました」
慌しくドアが閉まって彼女の気配が遠ざかる。
その時にはもう視界は正常に物を映していたけれど。
深く吸い込んだ息と共にかすかに甘い香りが流れ込んで、先ほどとは違う眩暈に襲われた。
「……謝られると、悪いことしてる気になるよな」
心地よい温度を手放したくないと思いながら、目の前の身体を押し戻す。
「……彼女の名前は？」
そんな質問をしたのは、もし彼女が誤解していたなら言い訳の一つくらいしておきたいと思ったからだ。
ぼんやりと返事を待ちながら、こみ上げたのは乾いた笑い。
他人への無関心は今に始まったことじゃないけれど、自宅に泊めてもらったこともあるくせに、名前さえ知らなかったことに今頃気付くなんて。
罪悪感に似た感情で気持ちが塞がり始めたその時、
「松崎美桜（まつざき・みお）」
羽成の口から告げられた名前に、今度はズキンと胸が痛んだ。
ずっと忘れていたのに。
過去に羽成と寝た女だということを、何故こんな場面で思い出すのだろう。
嫌な鼓動と、払いのけられない不安と焦燥。
羽成の目には少し苦しげに映ったのかもしれない。
「大丈夫ですか？」
体調が戻るまで隣で寝ていた方がいいと穏やかな声が降ってきた。
「いや……もう帰るよ」
一人になりたいから送ってくれなくていい、と。
少し投げやりな態度で告げながら。
自分の中に残った複雑な熱だけはどうすることもできなかった。