運命とか、未来とか

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その後、部屋にまたノックが響き、ドア越しに柿田のくぐもった声が聞こえた。
「社長、ちょっといいですか。例の件なんですが」
いつもより少し早い口調に押されるように帰り支度をし、銃に手を伸ばしたが、やんわりと止められた。
「後ほど届けますので」
昨夜、近くで窃盗事件があり今も警察がうろうろしているからと言われ、仕方なくそれに頷いた。
部屋を出た時、ドアの外に柿田の姿はなかったが、代わりに羽成が手配した白い手袋の運転手が恭しい一礼と共に俺を迎えた。
駐車場まで案内し、車のドアさえ開けてくれるような対応に少しだけ窮屈な思いをしたが、俺の体調が悪いことは予め聞いていたのだろう。
マンションに着くまでの間、運転席との間の仕切りはずっと閉められたままで、声を掛けられることはなかった。



帰りたいと思っていなかったはずの自分の部屋。
なのに、玄関に足を踏み入れた途端に力が抜けた。
もどかしく脱ぎ散らかした靴。
寝室に辿り着くまでの間に放り出した財布や衣服。
ベッドに倒れ込むと夕暮れの陽が降って、そのまま深く眠り落ちた。


再び目を開いた時、真っ先に飛び込んできたのはサイドテーブルに置かれた銃だった。
「……羽成が来たのか」
他に鍵を持っている人間はいないのだから、確認するまでもない。
けれど、部屋のどこにもその姿はなく、手を伸ばした銃にも温度は残っていなかった。
深い闇が覆う空。
羽成はまだ店にいる時間だろう。
礼だけでも言っておくべきだろうかと迷ったけれど、携帯を手に取ることさえしなかったのは、なんだか急に気恥ずかしくなったせい。
「……だらしない奴と思っただろうな」
衣服は眠る前と変わらず床に落ちていたが、財布と腕時計と携帯はテーブルに並べられていた。
「……まあ、いいか」
どうせ今さらだ。
いつか店に寄った時にでも軽く礼だけ言えばいい。
そう決めて、銃を握り締めたまま空を見上げたけれど。
視線を移す途中、目に留まったのは傍らに置いてあった灰皿。
見慣れた煙草の吸殻にまだその匂いが残っていて。
その時、脳裏に浮かんだのが十河の顔ではないことに気付いて、不意にギュッと胸が締めつけられた。



礼なんていつでもいいと思っていたはずなのに。
翌日、また店に足を向けていた。
「珍しいな。社長に用か?」
出迎えた柿田は相変わらず忙しそうだったが、その口ぶりからして昨日もここへ来ていたことは知らないようだった。
「用ってわけじゃ―――」
書類を引っぱり出しては何かを書き込む後ろ姿には、仕事の邪魔をするなという空気があふれていたけれど。
それでも手帳を広げると予定を確認してから俺に伝えてくれた。
「生憎、社長は出張中。で、帰りは明後日だな」
その言葉が終わらないうちに柔らかい音で電話のコール音が鳴った。
「マネージャー、社長からお電話です」
仕切りの向こうから顔を出したのが例の松崎という女でないことに少しホッとしたけれど。
「氷上、後で替わるか?」
そう言われて思わず一歩足を引いた。
「いや、いい。俺が来てるって言わなくていいから」
電話で改まって礼の言葉など口にできるわけがない。
わけもなく焦っている俺を見て、柿田は「おかしな奴だな」と笑った挙句、仕事の話が終わると余計なことをしゃべりはじめた。
「変わったことは別に……ああ、さっき氷上が来てましたがこれといって何も。とりあえず社長からも妙な遊びはするなと言っておいた方がいいんじゃないですかね?」
そんな遣り取りの後、会話は終わって電話は切れたけれど。
「……羽成、何か言ってたか?」
「いいや、特には。ただ、おまえが来たことについては『何の用か分かってる』ってよ」
タイミング的に銃の件しかないと思ったのだろう。
直接礼を言う必要がなくなったことにホッとしながら。
けれど、心のどこかでは淋しさに似た感情を味わった。
「……ならいいけど」
返事をした後も柿田はまだニヤニヤしていて、
「どうしたよ、氷上。これまでずっと社長とは険悪だったのに、いつから言わなくても用件が分かるような仲になったんだ?」
そんな言葉でからかわれると、なんだか急に居心地が悪くなった。
「別に……険悪なのは今でも変わってない」
柿田の顔も見ずにそう言い捨てると、逃げるように事務所を後にした。


それからは夜遊びの帰りに時々店に寄るようになった。
とは言っても、表から入ることはなく、専ら事務所ばかり。
「なんだよ、氷上、少しは心を入れ替えたのか? 最近は社長に突っかかってないんじゃねえか?」
顔をあわせるたびに柿田はそんなことを言って笑ったが、そのうちにそれも気にならなくなった。
こちらが店に寄らない日は羽成が俺のマンションまで様子を見にくることもあったけれど、いつも決まって寝入っている間で、目覚めた時に部屋にいたことはなかった。
でも、テーブルに置かれた灰皿には吸殻が残されていて、そのたびに甘い感情がこみ上げた。
だからといって羽成との間が変わったわけじゃない。
なのに、俺は少し調子に乗っていたのかもしれない。


仕事が一山越えたと柿田から聞いた日、買い物を済ませてから店に寄ってみたが、羽成は不在だった。
「来年早々に一店舗増やすって話がまとまってな。十河社長が生きてた頃から引き摺ってた件だし、社長も今夜は羽を伸ばし放題だろうよ。そのうちに携帯も電源切っちまうだろうから、用があるなら今のうちに伝えとけ」
さっき駐車場に向かったばかりだから今ならまだ出るだろう、とそんな言葉の後、
「女と一緒だから明日の昼までは繋がらないと思った方がいい」
そう言って柿田は肩を竦めた。
「……女って?」
てっきり彼女――松崎美桜のことだと思ったのに。
「ちょくちょく事務所にも出入りしてるから、おまえも見たことくらいあるだろう?」
店で一番稼ぎのいい女で少し生意気そうなところが人気なのだと言われ、
「ほら、こいつだ」
そう言って渡されたのは店の記念パーティーの写真。
見た瞬間、無意識のうちに眉を寄せていた。
柿田の指先。そこで笑っていたのは俺に何かと突っかかってくるあの女だった。
「『生意気そう』っていうか、性格悪そうに見えたけど」
客のほとんどは父親ほどの年齢。
多少の我が侭はむしろ可愛く思えるのかもしれない。
「まあ、向こうはおまえを嫌ってるからな。だが、社長の前では違うんだろうよ」
女なんてそんな生き物だと笑ってから、柿田は不意にこちらに向き直った。
「で、おまえ、社長に用なんだろ? さっさと電話しろよ」
仕事が片付いたと聞いた時、すぐにここへ足を向けた。
いつもと同じで別に用なんてなかった。
でも。
心の奥底で、一緒に酒くらい飲めるんじゃないかと期待していたのだと気付いて、自分の馬鹿さ加減に呆れ果てた。
「用なんて何も―――」
近くまで来たから寄ってみただけだ、と取ってつけたような言い訳をして。
溜め息を殺しながら背を向けた。
「今日は社長も迎えにいけないからな。そのへんで酔い潰れてんなよ」
「……分かってるよ」
ここへ来たことは羽成に言わなくていいと断ってから事務所を出ようとしたが、柿田に引き止められた。
「ついでだから、ちょっと使いを頼む。組事務所が入ってるマンションの二つ隣のレンガ造りっぽい外装のビルに―――」
一方的に場所の説明をされた挙句に書類封筒を押し付けられ、「何で俺が」と断ろうとしたけれど。
「じゃ、頼んだぞ、氷上」
言い返す気力もなくて渋々それを受け取った。

やけに寒々とした廊下。
冷たく響く靴音。
息苦しさから逃げるように裏口へと急いだ。
ようやく重いドアに辿り着き、ノブを回して外の空気が流れ込んできた時、目の前を一台の車が通り過ぎた。
そのハンドルを握っていたのは羽成で。
隣には別人のように素直そうな微笑みを浮かべた女が見えた。



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