運命とか、未来とか

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重い気持ちを引き摺りながらタクシーに乗って行き先を告げる。
車なら10分もかからない場所にあるバー。
書類を渡すだけの簡単な使いだから、適当な挨拶だけであっという間に済むはず。
そう読んでいたのだが、帰り際にマネージャーという男に引き止められた。
「よかったら一杯飲んでいってください」
まさか未成年だとは思わなかったのだろう。
そう言ってバーテンダーに目配せした。
「ありがとうございます。でも、このあとまだ行くところがあるので」
こんなところで酒を飲んだことが知れたら、柿田から小言が飛んでくるのは分かっている。
適当な理由で断るつもりでいたのだが、書類封筒の中身をちらりと確認した男はやけに機嫌の良い笑顔を見せた。
「ああ、お仕事の途中でしたか。では、お茶かコーヒーでも」
カウンターの椅子を引いて「どうぞ」と促され、結局、断り切れずに腰を下ろした。

夜と言うにはまだ早い時間。
客もまばらで、大半は顔なじみといった雰囲気。
華奢なグラスに注がれたウーロン茶に口をつけながらぼんやりこの後の予定を考えたが、飲み歩く以外に時間を潰す方法が浮かばなかった。
控えめな音楽に紛れて耳を抜けていくのは少し離れた席の会話。
聞く気などないのに、遠慮のない声は容赦なく飛び込んできた。
そのほとんどは仕事の話。
だが、三人とも堅気ではないだろう。
分かったのはその程度だったし、いつもなら他人に興味など持たないのに。
一人が何気なく口にした名前に意識が奪われた。
「ああ、そう十河社長のね」
組事務所は二つ隣のビル。場所柄、身内と考えるのが自然だが、それでも気は抜かない方がいい。
できるだけさりげなく男たちから顔が見えない角度に座り直し、携帯を取り出すとメールをチェックする振りをした。
すぐに立ち去ろうかとも思ったが、もしかするとその方が怪しまれるかもしれない。
そんな考えを後悔したのはその直後。
男たちの会話がやけにはっきりと聞こえた時だった。
「そうそう。ほら、なんて言ったっけ。片腕って言われてた―――ガタイのいい、ちょっとキレの良さそうな感じの。社長が死んだ後、いろいろと後始末してただろう?」
「ああ、愛人の世話までしてたとかって……未成年を囲ってたとかっていうから、何かと大変だったんじゃないか?」
乾いた音で耳を抜けていく言葉。
他人の口から聞かなくても、分かっていたはず。
けれど。
もういいから、と。
何度断っても迎えにくる羽成に、少しくらいの情はあるのだろうと、信じていたかったのかもしれない。

―――後始末、か……

客観的に見れば、誰だってそう思うのに。
現実を突きつけられてもまだ飲み込むことができずに。
バーテンダーに礼を言って店を出ると携帯を握り締めたまま車の通らない細い路地に入って息を吐いた。
自分でも馬鹿だと思っているくせに、指先が勝手に押していくのは羽成の番号。
すぐには出られなかったとしても着信を見てかけ直してくれるなら、まだ何かを信じていられそうな気がしたから。
けれど。
柿田が言っていた通り、流れてくるのはお決まりのメッセージだけ。
伝言を残しても電源を落としているなら気付くのは明日の昼だろう。
正気のまま待つことなどできそうになくて、逃げるように歩き出して最初に目に留まった店のドアを押した。
「お待たせいたしました」
恭しい仕草でテーブルに運ばれてきたのは濃い目の水割り。
喉に流し込むように一杯目を開けた。
それからはただの現実逃避。
やっと少し落ち着いて時計に目をやった時にはもう目の前のグラスが何杯目なのかも覚えていなかった。
身体中に回り始めた酔いが自制心を薄れさせる。
繋がるはずなんてない。
そう思っているくせに、気がつくとまた同じ番号を押していた。
「……ほんと、馬鹿だよな」
薄く笑いがこみ上げたその時、プツリとコール音が途切れ、予想していなかった事態に心臓が跳ねた。
「あ……え、と……今、話せるか?」
動揺を隠すこともできずに呼びかけたけれど。
『彼ならシャワーを浴びてますけど?』
笑いを含んだような女の声に頭から冷水をかけられたような気分になった。
苛立ちを感じる間もなく身体からはスッと熱が引いて。
「……じゃあ、連絡があったことだけ伝えてください」
ただ、そう言い残して切るしかなかった。


終電がなくなる時間まで飲んで、マンションまで歩いて帰った。
疲れたら嫌でも眠ることができるだろう。
そうすれば全部忘れてしまえるだろう。

けれど。
結局、すっかり夜が明ける時間まで眠ることはできなかった。



かすかな頭痛を抱え、目が覚めた時にはもう日は傾き始めていた。
曜日だけではなく時間の感覚まで狂ってしまいそうだと思いながら、店に電話をかけた。
「書類、ちゃんと届けたから」
そう告げると、柿田は軽い礼の言葉の後でいきなり羽成の予定を話し始めた。
『そんなわけで明日まで休むことにしたらしい。まあ、たまにはゆっくり休んだ方がいいとは思うが……あの女も休んでるのが気になるんだよな』
どう思う、と意見を求められたが、正直に答えられるはずもない。
「別に……休んでも支障がなければいいんじゃないのか。というか、羽成の予定なんてどうでもいいんだけど」
わざと投げやりな態度でそう返してから、「じゃあ」と言い捨てて電話を切った。

「……そんなこと、俺に聞くなよ」
柿田にしてみれば、「そういうわけだから迎えが必要になるようなことはするな」と釘を刺したつもりなんだろうけど。
「……ダルい奴」
ベッドに携帯を放り出して、窓を開けた。
静かな部屋。
何一つ予定のない長い夜。
星のない空を朝になるまでじっと見つめている自分の姿が脳裏に浮かんで、気持ちが淀んでいった。
「……出かけるか」
こんな行為こそ無意味なのにと思いながら、溜め息と共にまたシャツを羽織った。


グラスを伝う水。
薄暗い店。
すべてがどこかで見たような、そんな光景。
昨日の酒がまだ残っているような、そんな状態でまだ薄明るい時間から散々飲み歩いて、ようやく意識が途切れ始めた頃には日付も変わっていたけれど。
それでも完全には酔えなくて、少しでも気を抜くとまた繋がらないと分かっている番号を押したくなった。
「何してるんだろうな、俺―――」
もう少しだけ時間を潰して。
店の騒音と酔いのせいで思考がとことん擦り切れてから、部屋に戻ればいい。
ベッドに手足を投げ出して、ふと見上げるとそこには大きな窓があって。
ただ空を眺めながら、何も考えずに眠ればいい―――

「お客様、何かお持ちいたしましょうか?」
「え……ああ」
四、五杯目のグラスが運ばれてきた時、不意に前の店で財布の金を使い果たしたことを思い出した。
カードの一枚もあれば面倒なことを考えずに済んだのに。
身元の分かるものは持ち歩かないと決めたせいで、財布の中にはもう何枚かのコインだけしか残っていなかった。
「……柿田に電話するしかないか」
けれど、携帯のウィンドウに映し出された店の番号に視線を落とした時、昨日の助手席の女の笑顔がチラついて手が止まった。
今頃何をしているのかなんて考えたくない。
だが、柿田に連絡をすればまた笑いながら羽成の話をするだろう。
「……ったく―――」
自分がもうまともな思考を持ち合わせていないことも承知の上で、斜めに座り直すと、金を貸してくれそうな相手を探すために店内を見渡した。
できれば情に流されてくれるような女がいいと思っていたのだが、時間のせいなのか、あるいは元々そういう客層なのか、テーブルにもカウンターにも男の姿しか見えなかった。
その手の店でない限り、男が引っかかる可能性は低い。
諦めて携帯を取り出そうとした時、不意に背後から声が降った。
「何か困ったことでもあった?」
立っていた男は木沢と同じか少し上くらいの年。
スーツではなかったが、それなりにきちんとした服装をしていた。
ベンチャー企業の社長か何かで、少し遊びの度が過ぎるけれどただの退屈な男。
そんなところだろう。
「……ちょっと飲みすぎて―――金を貸してくれそうな人を探しているんです」
唐突な言葉にも驚くことなく、そして、チラつかせた伝票の金額に目を遣ることもなく、男はただ笑ってみせた。
「朝まで付き合ってくれるなら返さなくてもいい。そう言ったらどうする?」
きみもお仲間なんだろう……と、耳元で遠慮のない問いが投げられたが、もう警戒心さえ湧かなかった。
「この金額に見合った程度でいいなら付き合いますけど」
少し突き放した言い方をしたのは、このくらいのことで不機嫌になるなら相手にしない方がいいと踏んだからだ。
けれど、男はそれさえ「もちろんそれでいいよ」と笑って流しただけ。
すぐに俺の手から伝票を受け取った。
「ホテルに部屋を取ってゆっくり飲もう。その後どこまで応じるかは君次第ってことで」
そう言って腰に手を回し、席を立つよう促した。



タクシーが止まったのは十河がよく使っていたホテルの前。
そう思った時、かすかな痛みが胸を刺した。
「ここへはよく来るの? どこに何があるのか分かってるって顔だね」
「……そうでもないけど」
食事をするためだけに呼び出されたこともあったな、と。
そんなことを思い出しながら、男が部屋を取る間ぼんやりとロビーに座っていた。
「お待たせ。で、ちょっと聞きたいんだが、あそこに立ってるのは君の知り合い?」
「え?」
指差された方向に視線を向けたけれど、見知った顔はなかった。
「……あれ? さっきまで君を見てた奴がいたんだが」
中年の男だったと言われて、思い浮かんだのはごくわずか。
塾と高校の教師、組事務所の人間。後は羽成の店の警備員。
何にしても見られてまずい相手ではない。親戚だと言って適当にごまかせばいいだけの話だ。
「家族って線は?」
「父親はまだ生きてるけど、心配する必要はない」
お互いこの世で最もどうでもいい相手だからと答えると男は「なるほどね」と言って曖昧に頷いた。


部屋はごく普通のツイン。
「いくら欲しい?」
ドアが閉まると同時に飛んできた問いにうんざりしながら、絡みつく指を振り払った。
「……部屋でゆっくり飲むんじゃなかったんですか?」
「まさか。キミだって承知の上でついてきたんだろう?」
薬指にはまだ新しい指輪。
その手が俺の服にかかり、シャツのボタンを二つほど外して肌の感触を確かめる。
「いくら払うつもりで声をかけたわけ?」
金なんてどうでもよかった。
余計なことを考えないように時間を埋めてくれたらそれでいい。
「金額は、君が何をしてくれるかによるな」
「……具体的に言ってくれたら、何でもその通りにしてやるよ」
そう告げた瞬間、男の口元に下卑た笑みが浮かんだ。
所詮はその程度と分かっていながらこうしている自分。
それだけのことだ。
「昼間は意外とまじめだったりするんだろう?」
顎に触れた指が明かりのある方向に顔を向け、視線は舐めまわすように肌の上を這う。
「さあ……どうかな」
指に嵌めている金属が時折り肌に当たり、その生温さが不快だった。
「話すのダルいから、さっさと値段決めてくれない?」
そうでなくても酔いは回りかけていて、ともすればあっという間にキレてしまいそうなのに、男の言葉が気分を逆撫でする。
「まったく今時の子って感じだな。もっともそれくらいの方が後腐れなくていいんだがね」
こんなふうに自分の領域に入り込んでいる他人は酷く目障りで。
だからこそ、うっかり気を抜くとグズグズ考えてしまう厄介なことを全てどこかに追いやっていられるのだけれど。
「満足させてくれたら、財布に入っている金を全部あげるよ」
十万はあるだろうと言う。
こいつにとってそれがどれほどの価値なのかなんて、聞きたいとも思わなかった。
「じゃあ、それでいいよ」
シャツのボタンが全て外され、肩と胸が露わになる。
勝手に興奮している男を見下しながら、腕に嵌めたままの時計を眺めた。
朝まではまだ遠い。
せめて疲れて眠れるようになるまで身体も神経もすり減らさないと、ここへ来た意味がない―――



じわじわと全身に回り始めたアルコールが思考と気力を奪っていく。
もう全てがどうでもよくなった時、鈍い音でノックが響いた。
衣類はほとんどまとっていないような状態だったから、「面倒なことじゃないといいけど」と呟いてみたが、男の方はすっかり無視を決め込んでいた。
「どうせ部屋を間違えてるんだろう?」
だが、その後すぐにフロントから電話がかかって、男もさすがに身体を起こした。
「はい、はい。ええ……そうですか」
そして、一言二言の遣り取りの後、少し乱暴に受話器を置くと不機嫌を露わにして振り返った。
「君の知り合いっていう弁護士がこれからここに来ると言ってるんだが?」
「……弁護士?」
一瞬、木沢の顔が脳裏を過ぎったが、そんなはずもなく。
先ほど俺を見ていたのが中年の男だということを思い出し、やっとそれが誰なのか分かった。
「もしかして『吉留』って名前だった?」
「そうだ。知り合いなんだな?」
その問いに頷くと、男はわざとらしい溜め息と共に慌しく衣服を身につけた。
そして、俺が服を着終わったのを見届けてから、渋々ドアを開けた。


「突然申し訳ありません」
入ってきた吉留はあくまでも低姿勢で、俺との間柄を「親しい友人の息子」と説明しながら名刺を差し出した。
「ああ、そうですか。ご友人の、ね。……いや、彼とはたまたまバーで近くの席になったんですが、『金が足りない』と言うので―――」
どんな言い訳をしてもホテルに連れ込んだ理由にはならない。
そんなことは今しどろもどろな説明をしている男が誰よりも一番良く分かっているだろう。
だが、吉留はそれには一言も触れずに財布を取り出し、男が店で払った金とホテル代に少し上乗せした金額を手渡した。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。今夜はもう遅いですので、これで。事務所にお電話いただければ改めてきちんとさせていただきますので」
そう言われたところで男に電話などできるはずもない。
話はそれで終わり、俺は部屋から連れ出された。


エレベーターホールに向かう間も吉留は笑みを湛えたまま。
説教をするわけでも呆れるわけでもなく、ただ穏やかにこの後の予定を尋ねた。
「何もなければご自宅までお送りしましょう」
もう財布にはコインしか入っていないのだから、頷くより他ないはずなのに。
こんな日に羽成がふらりとマンションに現れたらと思うと、どうしても返事をすることができなかった。
沈黙したまま俯いていると、吉留が「では、こちらへ」と言って上の階へ案内した。
「先ほどまで仕事で使っていた部屋です。もう誰もいませんから、今夜はここにお泊りください」
通された部屋は広々としていて、一番広いスペースには大きな楕円形のテーブルといくつかの椅子が並んでいた。
テーブルには飲み終えたコーヒーカップと水の入ったグラスが残っていて、いかにも会議の後といった様子だった。
「すぐに片付けます。氷上さんは先にお休みになってください」
微笑んだままの口元で話しながらカップに手を伸ばす。
こんな時間だというのに疲れた様子もなかったけれど。
「いいです、そのままで。どうせ寝るだけだから」
手間をかけてすみませんでしたと謝ると、吉留はまたにこやかに笑って、「どうぞごゆっくりお休みください」と言い残して出ていった。

きっちりとスーツをまとった背中を見送り、ドアが閉まるのを確認してから窓辺に寄ってカーテンを開けた。
「羽成に言わないように頼んでおけばよかった」
それだってこちらが勝手に気にしているだけ。
トラブルさえ起こさなければ、俺がどこでどうしていようと羽成には関係ないことだ。
「……どうでもいいか」
ガラスに額をつけ、自分の影を通して地上に目を遣ると、車のライトが道路を滑って消えていくのが見えた。
次々と流れていく光を追っているうちに気分も落ち着いて、それと同時にまた酔いが戻ってきた。
ここでなら朝まで眠れそうだ、と。
そんなことに安堵しながらカーペットの上に左右バラバラに靴を脱ぎ捨てた時、突然背後で物音がした。

―――まさか……

少し苛立った様子で鍵を差し込み、ドアが開く。
その音を聞きながら、ペタリとその場に座り込んだ。
どんなに酔いが回った頭でも、ノックもせずに入ってくる相手が吉留でないことくらいは分かってたから。



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