運命とか、未来とか

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心のどこかで。
こんな場面に現れるのはいつだってこいつだという気がしていた。
「大丈夫ですか?」
声に釣られるようにゆっくりと視線を上げると、気遣うような言葉とは裏腹に、片手をポケットに突っ込んだまま俺を見下ろしている羽成が目に入った。
スーツ姿だったがネクタイはなく、シャツのボタンもいくつか外されている。
まるで映画かドラマのヤクザのようで、薄暗い不安がまた覆い尽くすのを感じた。
「……なんでおまえがここにいるんだよ」
吉留が連絡したのだとしても早すぎる。
そんな疑問が声になる前に答えは返った。
「三十分ほど前まで打ち合わせをしていましたので」
そう言いながら、羽成が手に取ったのはテーブルの上に置かれたペン。
忘れ物を取りにきただけなのかとも思ったが、ペン一本のために戻ってくる性格でもない。
それを胸ポケットに挿すとすぐにこちらに向き直った。
「随分飲まれたようですね」
相変わらずの口調。
だが、声には露骨な不機嫌が覗いている。
自分でもうんざりしているのだから、羽成が呆れるのも無理はない。
そう思いながらも、口をついて出るのはそれを煽るような言葉。
「……だったら何?」
突っかかったところで、どうせこの後は空いている部屋で寝かしつけられるか、家に送り届けられるだけ。
拗ねたような感情が胸の奥からこみ上げた矢先。
「何か言うことはありませんか?」
冷ややかな声で問いが投げられ、今夜は少し違うと気付いた。
「何かって……―――」
聞き返しても答えはなく、突き放された気分でこの場に似合いそうな言葉を思い巡らせてみたけれど、謝るのもなんだかわざとらしく思え、結局あたりさわりのない返事を選んだ。
「……吉留に……金借りた」
小さな声で伝えたあとは、また沈黙する。
「他には?」
そんなことを聞きたいわけじゃない。
羽成の目はそう語っていたけれど。
「……別に」
求められている答えの見当もつかないまま、投げやりに返した。

一層冷たさを増した視線がピリピリと肌を刺して。
その後、呆れたように言葉が足される。
「経緯を説明していただけますか?」
おおよその見当はついているはずなのに、今さらそれを聞くことに何の意味があるのか。
少なくともこちらにとっては不都合しかない話題。
「……おまえに言う必要があるのか?」
曖昧に流そうとしたが一瞥で制された。
吉留にも金を借りたこと以外は何一つ話していなかったが、男の態度から状況は容易に把握できたはず。
当然、羽成にも伝わっているだろう。
見え透いた嘘や言い訳を並べたところで墓穴を掘るだけだということは分かっていたけれど。
「……バーで金が足りなくなって……払ってくれた奴に『ホテルで飲み直そう』って言われてここへ来た」
少なくとも俺はそのつもりだったのだから、間違った説明はしていない。
心の中で必死に言い繕ったが、それだって自分に対する欺瞞にすぎない。
「初対面の、まったく身元も分からないような相手と?」
薄っぺらな虚偽はあっけなく剥がされ、逃げ場を失う。
自分の非だということは承知していても、他人から重ねて突きつけられると苛立ちがこみ上げた。
「うるさいな。おまえこそ―――」
女と一緒に休暇じゃなかったのか、と。
危うく吐き出してしまいそうになりながらも、それだけはどうにか思い留まった。
論点をずらしても見苦しいだけ。
どう考えても悪いのは自分だ。
ふうっと一呼吸置いてから、行き場のない気持ちを別の言葉に摩り替える。
「……身元がはっきりしないくらいで文句を言うなら、問題ない奴を連れてこいよ。うるさいことを言わなくて、朝になったら全部キレイに忘れてくれるなら、見た目も年齢もどうでもいいから」
どうせ俺のことなどその程度の人間だと思っているのだろう、と呟いた瞬間、羽成の目ははっきりとわかるほどにキツくなった。

微妙な緊張感が空気を揺らし、沈黙が一層重さを増す。
息苦しくなる前に一秒でも早くこの会話を終わらせたい。
思うのはそればかりだった。
「……判ったよ。悪かったな。俺のことはいいから、さっさと帰れよ。部屋で女が待ってるんじゃないのか?」
投げやりな謝罪など聞く気もないのか、羽成は少しも表情を変えることなく煙草を取り出した。
白い煙が静寂の中に溶け、ゆっくりと消えていく。
ぼんやり眺めていたら、急に空気が緊張し、羽成がまっすぐにこちらに向いた。
「……何……?」
短い問いさえ終わらないうちに、脱ぎ散らかされていた靴は隅に蹴り飛ばされた。
「たまには説教くらいしておいた方がいいかもしれませんね」
見下ろした目は、少し冷たく、けれどほとんどは無感情で。
なのに以前とは違い、俺を持て余している印象はなかった。
「……悪いけど酔ってるから。今説教されても明日まで覚えてられない」
床に足を投げ出したまま、わざとらしいほど大きく視線を外して告げた。
それに対して頭上から降ってきたのは「分かりました」という答えだけで、その後はおもむろに携帯を取り出してどこかに電話をかけた。
「―――ああ、俺だ」
そんな口調だったから、てっきり女のところだろうと思ったのに。
携帯からかすかに漏れてきた保留音は店のもので、呼び出されたのは柿田だということが分かった。
「なんだよ。店から遊び相手を連れてきてくれるわけ?」
こいつがそんなことをするはずはないと分かっていながら、煽るような言葉を吐き出す。そんな自分に乾いた笑いがこみ上げ、そのうちに全てがどうでもよくなった。

電話の間も煙草は少しずつ灰になって、もうすぐ羽成の手には不似合いな長さになるなと思った頃、「今日は店には戻れない」という声が聞こえ、その後すぐに携帯はテーブルに置かれた。
本当に今から説教をするつもりなのかとうんざりしたが、羽成が口を開くことはなく、その代わりのように二本目の煙草に火がつけられる。
「……消せよ……匂いに酔いそうだ」
ゆるく立ち上る煙に眉を寄せながらわずかに視線を上げたけれど、いつまで待ってもそれが長い指を離れることはなかった。
「……勝手な奴だな」
このままこうしていても、そのうち二人でいることに耐えられなくなって逃げ出すだけ。
だったら、早い方がいい。
そう決めて立ち上がったけれど、動くのと同時にひどい眩暈に襲われた。
「……っ」
思わずギュッと目を瞑ったけれど、揺れていた身体はすぐに大きな手に支えられ、倒れることも壁にぶつかることともなかった。
「干渉されたくないなら、酒量くらい自分で調節すべきでは?」
恐る恐る目を開けると、こちらを見据えている目と真正面からぶつかった。
その時、思い出したのは遠い過去。
突然首を絞めたあの夜も羽成はこんな表情をしていたかもしれない。
「……何、怒ってんだよ」
今までだって何度も同じようなことはあったけれど、一度だってここまで不機嫌になったことはなかった。
「こんなに面倒かけられるくらいなら、あの時絞め殺しておけばよかったって?」
喧嘩を売ろうとしたわけじゃない。
ただ、古い記憶がやけに鮮明に目の前の光景と重なって、それを振り払うことができなかっただけ。
けれど、羽成の表情はそこではっきりと変わり、同時に肩を掴んでいた指がギリリと肌に食い込んだ。
「何でも許すとは思わないでください」
耳元で響く低い声。
壁に強く押し付けられたまま。
立つことを放棄してもなおその手は俺を拘束した。
「丁寧に扱う気はありませんから、そのつもりで」
言葉と同時に目の前で煙が散って、足元に落とされた火がカーペットを焦がす。
「怪我をされると厄介なので、続きはあちらで」
鼻先に焼けた匂いが届いて。
空白になりかけた頭がそれを認識する頃にはもう寝室の方向へ引き摺られていた。



フットライト以外は全て落とされた部屋。
暗さに目が慣れないうちに腕を掴んでいた手が離れ、乱暴にベッドに転がされた。
「大人しくしていれば医者の世話になるようなことはありません」
薄明かりの中でこちらを見下ろす目は酷く冷たく、十河の下にいた頃と何も変わらないのだということを感じさせた。
呆然としている俺を放り出したまま、羽成は幾分面倒くさそうな様子で上着を脱ぐと椅子の背に掛け、ゆっくりとシャツの袖口のボタンを外した。
古い傷痕が残る肌がわずかな光に浮かんで、その時やっと自分が置かれている状況を理解した。
「何……だよ……まさか自分で相手しようと思ってるわけじゃ―――」
呟いた瞬間、手首を掴まれ、起き上がりかけていた身体は再びベッドに沈められた。
顔を背けると無言で顎に指をかけ、表情一つ変えずに正面に向けさせる。
それから、俺の手を頭の上で枕に押し付けた。
何の前触れもなく引き裂く勢いでめくり上げられたシャツは、袖を抜かないまま手首に巻きつけられ、両腕の自由を奪った。
「……離……せ……っ」
狂ったような速さで心音がドクドクと頭の中に反響する。
頭痛をもたらすそれに顔をゆがめた時、耳を抜けていったのは『今夜は店に戻れない』と告げた羽成の声だった。
「やめろっ! 嫌だっ!!」
暴れる隙さえ与えられないまま残りの衣服は剥ぎ取られ、身体は完全に自由を失う。
「ついさっき自分で言ったことを忘れたのか?」
声は普段と変わらず落ち着いていて、怖いとか、そんなことも思わなかったけれど。
「覚えてる……けど、おまえは……嫌だ」
逃れようとしてもがいてみたけれど、頭上で一纏めにされた両手はどこに繋がれたのか下ろすことさえできない。
動かそうとするたびに痛みが走るだけで、ほんの少しも緩む気配はなかった。
「いい加減にしろ。こんなこと、おまえだって本当は―――」
どんなに叫んでも、こちらを見下ろす表情にはわずかな変化さえない。
今さら止める気などないことを告げていた。
「う……ああ……っ」
羽成が怒っていることを考えれば、それほど乱暴ではなかったのかもしれない。
けれど、半ば無理矢理挿れられた場所は酷く痛んで、今夜のことを後悔させるには十分だった。
どれくらいこうしていれば解放されるのだろう。
そんなことを考える傍らで身体は火照っていく。
酔いはもう醒めてもいい頃なのに、熱はどんどん溜まるばかりで気が狂いそうだった。
「……ん……っ……っ」
思考が止まりそうになると手荒な行為で現実に引き戻され、その瞬間だけ覚醒する。
ゆっくりと、けれど躊躇なしに何度も奥まで入り込んでくるものの圧迫感に顔を背けようとしたが、大きな手はそれさえ許さず、そのたびに顎を押さえられた。
その間も羽成は何かを確かめるように真っ直ぐこちらを見下ろしているだけ。言葉をかけることも、感情を見せることもなかった。

木沢が言っていた。
羽成なら、一度寝たら愛情がないことはすぐに分かるだろう、と。
キスの一つさえしないような行為に、つまりはそういうことなんだろうと冷めた気持ちで思いながらも、身体だけは勝手に高まって限界が近いことを知らせる。
目の前に羽成がいて。
自分を抱いているのだと。
俺にはそれだけで十分だったのかもしれない。

「う……んっ……あ……っ」

耐え切れずに声を上げる。
次第に荒くなり、切れ切れになる呼吸。
苦しさと悔しさと、抗うことができない快感がぐちゃぐちゃに混ざって、ただでさえまともに見ることのできない視界がさらに滲んだ。
けれど、そこにいる男の表情はどんなに行為が激しくなっても変わることなく、いつまで経ってもただ静かにこの状況を見極めているだけだった。

もう、どうでもいい。
そんな気持ちをどこかに抱きながら。
「う……っく……あ、ああっ」
声が途切れるほど強く突き上げられて。
それ以上はないほど深く繋がれたその瞬間、痺れるような絶頂感に襲われて、硬くしていたものの先端から欲情を散らせた。



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