運命とか、未来とか

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肩で息をしながら、うっすらと開いた視界に映っていたのはいつもと変わりない横顔。
面倒くさそうに煙草に手を伸ばして火をつけただけで、「今後は気をつけろ」とか「少しは反省したのか」なんてことも言わなかった。
羽成にしてみれば我が侭に付き合っただけで、こんなこと自体くだらない時間潰しでしかないのだろう。
わかっていたつもりでも溜め息が口をつく。

押し寄せる後悔と、動くこうとするたびに痛む体。
最悪だ、と。
心の中で自分を嘲笑しながら、ふいっと顔を背けた。
「もう、いいから……店に戻れよ」
朝までここで大人しくしているから、と。
掠れた声でそう告げた時、縛り上げられていた手首に羽成の指が触れた。
もがいたせいで固く絡まったシャツは、先ほどまでほんの少し動いただけでも痛みが走るほどだったのに。
ふっと息を抜いた一瞬であっけなく解かれ、両手に気だるい自由を戻した。
「……煙草、置いていってくれないか」
返事はなかったけれど。
枕元に煙草とライターが投げられる。
そんな些細なことにさえツキンと心臓が痛んで。
それ以上何も言えなくなった。


軋みながら流れていく重苦しい時間。
居たたまれなくて背を向けた。
手首に残ったシャツの跡が次第に薄れていくのを眺めながら、遣る瀬無さを噛み締めた。
剥き出しの肩が冷たくなったけれど、毛布をかけなおす気力さえなくて。
早く出ていってくれたらいいのに、と。
そんなことばかりを考えていた。



不意に空気を変えたのは着信を知らせる携帯の音。
すぐに自分のものだと分かったけれど、視線を動かすのさえ面倒でそのまま意識の向こうに追いやった。
なのに、コール音はなかなか切れなくて。
「出ないのか」と少し呆れたような声が背中に降ったけれど。
「……どうせ間違い電話だから」
投げやりにそう答えると、カタン、と携帯を取り上げる小さな音がして、その後は何もなかったように静寂が戻った。
「……ついでに電源落としてくれないか。俺にかけてくるのなんて、おまえ以外は柿田くらいしか―――」
それだって「社長の手を煩わせるな」とかそんな話。柿田自身の用事じゃない。
店からかかってくる電話も吉留からの事務連絡も、全部羽成が手を回したものの一部だ。
「……おまえがいなくなったら、携帯も必要なくなりそうだな」
そんなことを呟きながら、ふと気付く。
この世界とは羽成を通して繋がっているだけで、何一つ自分自身のものではないのだ、と。

……ってことは、要らなくなるのは携帯じゃないんだな―――

無意識のうちにそんな言葉を口に出していたことに気付いたのは、肩に伸びた手の温度を感じたせい。
「え?」と思う間もなく、身体は無理矢理正面に向けられていた。
「……なんだよ。おまえの気に障るようなことなんて何も―――」
こちらに投げられている視線は、先ほどと違って怒っているようには見えなかったけれど。
その手はすぐに顎にかけられ、触れた親指がゆっくりと口元の輪郭を辿った。
「羽……成……?」
指先はすぐに離れていったけれど。
その代わりのように重ねられた唇が呼吸を奪った。
「……っ……ん」
先ほどまでの手荒な扱いからは想像できないほどやわらかく長いキスが理性まで剥ぎ取っていく。
呼吸よりも胸の奥が苦しくて。
何のためにこんなことをするのかと問うこともできないまま。
気がつくと縋るようにその背中に腕を回していた。


ぐちゃぐちゃになったブランケットが身体にもどかしく絡みつく。
「……羽……成」
何度も名前を呼んだけれど、そのたびにまた唇を塞がれた。
長いのか短いのか分からない時間の中、合わせた肌が汗ばんでいく。
焦らされることもなく深く繋がれて、また痛みが抜けたけれど。
それさえすぐに別の感情に飲まれて現実味をなくした。
「あ……、んんっ……」
押さえつけられたまま大きく開かれた脚が震え、身体が硬直する。
「やめ……あ、っ……羽……成―――」
どんなに限界を訴えても言葉が返ることはなく、嬌声と激しい呼吸で咽喉が痛み始めても行為は激しくなる一方だったけれど。
すがりついた手には、どこにこんな熱を隠し持っているのかと思うほど確かな温度があって、それを意識した途端、また絶頂に変わっていく。
十河と同じ。
少し乱暴で。
自分勝手で。
なのに、それを冷たいとは思えないまま。
「どうしてこんな」と、まともに働かなくなった思考が問うけれど。
それさえ激しい行為に溺れて消えていった。
「う……あ……っ、ん……」
触れられることさえない中心は、けれど、あっけなく高まって気持ちまで締め付ける。
「やめ……あ……っ、中で、出すな」
ただ、されるままに揺すられ、突き上げられて。
その腕に抱き止められたまま熱を放った。



自分はいったい何をしているんだろう。
投げ出された体から汗が引き、わずかな眠気を感じ始めた時、不意に現実が戻る。
「……電話しなくていいのか?」
本当は休みのはずなのに、急な会議で呼び出され、その後もまだこうしてここにいる。
約束をすっぽかして言い訳をしなければならない相手くらいいるだろうと思ったけれど。
「どこに?」
あっけなく返ったそんな言葉にまたツキンとどこかが痛んだ。
「……なんでもない」
なんだか居心地が悪くなって背中を向けようとしたが、予期しないタイミングで羽成の指が俺の頬に触れ、そっと髪を払った。
「……なんだよ」
文句を言いかけて、なのに、今この瞬間に抗うことはできなくて。
浅ましいと思いながらも、その指を掴んだ。
後はただ、意識がすっかり擦り切れて眠り落ちるまで、ずっとその温度だけを感じていた。





すべてを透かしてしまいそうなほど眩い朝の光が肌を包む。
「ぅ……ん……」
飲みすぎた翌日がいつもそうであるように、目を開けた時、自分がどこにいるのかが分からなかった。
ゆるやかに瞼を開けると、見慣れないインテリアに行き当たって、そこがホテルであることを思い出す。
それでもまだ覚醒しきれないまま。
起き上がろうとした瞬間に体中に走った痛みに夕べの記憶が蘇った。
「……なんで……こんな―――」
ここへ来た経緯や羽成との遣り取りは覚えていたけれど、どうして突然こんな方向に流れてしまったのかは思い出せない。
溜め息を吐いた時、ノックが響いて体がビクッと跳ねた。
「……っ」
声にならない音だけを発して振り返ったが、寝室とリビングの間にドアはなく、間仕切りのような中途半端な壁があるだけ。
そこに手をついて立っていたのはもちろん羽成で、本当にいつもと全く変わりないトーンで「食事は?」と尋ねた。
「あ……食べ……る。べ……別に、なんでも」
慌てて答えたものの声は掠れていて、それが夕べの嬌声のせいだと思い当たった瞬間、カッと頬に血が上った。
「十五分ほどで運んでくると思いますが、こちらに用意させますか?」
身体は迂闊に動くと痛みさえ感じる有様で、できることならこのまま横になっていたかったけれど。
「え……あ……シャワー浴びて着替えたら、テーブルに行く」
さすがに昨夜のことがチラつくこのベッドの上で、落ち着いて食事ができるとは思えなかった。


眠っている間にすっかりクリーニングされた服を着て、濡れた髪のまま朝食のテーブルについたのはその二十分後。
朝日が降り注ぐ部屋。
フォークが食器に当たる音が心地よく響く。
羽成と二人でホテルに泊まるのは初めてではなかったが、さすがにいつもと同じとは思えなかった。
苛立っている時とは違う種類の気まずさと居心地の悪さ。
おかげで油断をすると溜め息が漏れてしまう。
「どこか具合でも?」
「……そういうわけじゃ―――」
違うのは自分の中だけ。
目の前にいる羽成が本当に普段と変わりなくて、返す言葉が分からなくなる。
「十河は……朝にはいないことが多かったから、なんかおまえがいるのが……」
目を合わせる事さえできずに視線を落としたまま食事を続ける。
「……十河と比べるのも、変だけどな」
寝る相手なんて誰でも同じだと思っていた。
けれど―――

夕べの約束通り、羽成はもう忘れたことにしたんだろう。
いや、最初からどうでもいいのかもしれない。
「この後の予定は?」
昨夜の記憶がないのではないかと思うほど。
声も口調も、わずかな表情さえも。
何も変わらない。
「……別に。家に帰るだけ」
静かに流れる時間の中。
昨日のことをどう思っているのかと問いたい衝動に駆られたけれど、それは予想外に日常的な言葉に阻まれた。
「大学は?」
ちゃんと行っているのか、なんて。
そんなことを問われるとは思っていなくて、また返事に詰まりながら。
「……それ……って、おまえに何か関係あるのか?」
突っかかり気味に返したけれど、それさえ今朝はどこかが違って響いた。
「いいえ」
会話が続かないのも相変わらず。
すべてがいつも通りのはずなのに。

時折り届く視線が。
耳に残る声が。
わけもなくただ苦しくて。
食事が終わるまでずっと皿の中だけを見つめていた。

二杯目のコーヒーと片付けられたテーブル。
それから、惜しみなく光が降る窓辺。
「……ここ、何時に出ればいいんだ?」
白く流れる煙の筋がふわりと散って、窓の向こうにある空に溶けていく。
「お好きな時間に」
「おまえはいつ出るんだ?」
「十時には」
「……ふうん」
当たり障りのない会話。
無意識のうちに昨夜のことを避けたのは、全てをはっきりさせる勇気がなかったからなのかもしれない。

昨夜この手が触れた熱など、今はもうすっかり消えたのだ、と。
そう言い聞かせながら。
空に目を遣ると、過去の残像が水面に反射する光のように脳裏を焼いた。
古びたフィルムのように切れ切れに流れていくのは、羽成は死んだのか、と問う自分とそれに答える穏やかな目。
羽成を俺の元に戻すことを決めたあの日、俺に「嬉しいか」と尋ねた十河には、こんな未来が見えていたのかもしれない。

遠い青を見上げながら。
もし、今でも十河が生きていて、「羽成を好きになった」と告げたら何と答えるのだろう、と。
そんな馬鹿みたいな思いが、頭から離れなかった。



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