運命とか、未来とか

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翌日、まるで気紛れのように大学に行ってみたが、語学ですらまともに出席していないような有様だ。当然のように留年が決定していた。
それでもふらりと講義に出てノートを取り、参考文献として挙げられていた本を読んで二時頃まで学内で過ごした。
場違いが隠せず不自然極まりないだろうと思っていたが、自分が思っているほどは浮いていないのか、構内を歩いていても気に留める人間もいない。
「……一応、普通の学生に見えるってことか」
本のコピーや取ったばかりのノートを適当にファイルしたそれをペラペラとめくりながら、なんだか少しくすぐったいような、それでいて意外と落ち着くような、不思議な感じを味わった。


空を仰げば目が痛いほどの晴天で、地上には心地よく乾いた風が吹く。
まともな生活をしていたらもっと解放的な気分になれたかもしれないが、久しぶりに思いきり浴びた太陽の光は自分には強すぎる気がした。
「……これからどうしようかな」
早起きのせいなのか一日がやけに長い。
夜になったら羽成に金を返しにいくと決めていたものの、時計の進みは大学を出たあといっそう遅く感じられた。
カフェの類で時間を潰す気にもなれず、だからと言って他に行き先も思い浮かばなくて、気がつくとまた吉留の事務所の前に立っていた。
インターフォンを鳴らさずにそっと中を覗いてみると、事務所の主は引っ越しの準備に追われていて、高く積まれたダンボールの隙間にすっかり埋もれている。
「業者とか頼まなかったんですか?」
思わず声をかけたが、吉留は驚くこともなく俺を迎えた。
「一般の方には見せたくないものもたくさんありますのでね」
答えながらふうっと軽く一呼吸入れた口元はなんだか困っているようにも見えて、
「何か手伝いますか?」
らしくないと思いながらも、気がつくとそう申し出ていた。
「いや、でも、それでは……」
一度はそんな言葉で遠慮をしたけれど、「どうせ暇をもてあましているから」と告げると、吉留は本当にホッとした顔で礼を言い、ざっと作業手順を説明した後で荷物の送り先などが書かれたメモを渡した。
「では、早速ファイルの箱詰めをお願いしてもよろしいですか?」
貼られたラベルの色ごとに片っ端からダンボールに入れていくだけの単純な作業。
ほとんどはどこかの法律事務所宛てで、一部だけが吉留の私物として別の場所に送られることになっていた。
「やっぱりお若い方がいらっしゃると進みが早いですね」
そんな言葉にうっかり木沢の所在を尋ねてしまいそうになったが、吉留が一言も口にしない以上、触れるわけにはいかない。
気まずくならないようにと他の話題を探したけれど、寝不足気味の頭は嫌になるほど回転が遅く、結局、次に口を開いたのも吉留のほうだった。
「十河さんのこと、少しはお気持ちも和らぎましたか?」
「え……」
少し動揺してしまったのは今まで誰からもそんなことを尋ねられなかったせいなんだろう。
俺を気遣ってのことなのか、あるいはただ面倒だからなのか、理由はどうあれ周りの連中がその問いを避けていたのだと気付いて、何だか妙な笑いがこみ上げた。

十河がいなくなった後の日々は、全てが薄暗く濁った意味のない時間だった。
死んだと聞かされた時は、ただ「そうなのか」と思っただけなのに、何日も何週間も経ってから、少しずつ自分の中に歪みが広がっていった。
何かあるたび「今度来たら十河に話してやろう」と無意識のうちに期待を巡らせ、その直後、もうどこにもいないことを思い出して空白になる。
誰と何の話をしていても、「十河ならなんて言うだろう」と考える癖が抜けなくて、そんなことを繰り返すうちに喪失感は一層深くなった。
もうこの空を一緒に眺めることさえできないのだ、と。
擦り切れるほど同じことを思っても痛みが消えることはなく、何度も何度も一人で泣いた。
そのうちに思い浮かべることさえつらくなり、次第に十河の記憶を手繰り寄せることを避けるようになっていった。
けれど。
「……ええ。まあ、それなりに」
望まなくても時は経ち、少しずつ色褪せて過去になる。
消えて欲しくないと思う反面、薄れていくことをどこかで安堵しながら。
ようやくまともに振り返ることができるようになった頃には、もう何ヶ月もの時間が過ぎていた。
「十河のことは今でもよく思い出します。でも、無理に切り捨てようとは思わなくなりました」
向き合おうとすればするほど、十河のことを何も知らなかったのだと気付いて後悔が溢れてくるけれど。
それもこれから徐々に受け止めていけばいい。
今はただそう思う。
「そうですか。それなら、十河さんもご安心なさっているでしょう」
まだ生きているかのような口ぶりに、少しだけ苦い気持ちがこみ上げる。
少し前の自分なら、そんな言葉にさえ食ってかかったかもしれないけれど。
「……そう、ですね」
曖昧に頷いてそれを流しながら、吉留にも随分迷惑をかけたことを申し訳なく思った。


夕方に電話が鳴り、急に外出することになったという吉留からスペアキーを預かった。
「帰りは遅くなりそうですので、氷上さんも適当なところで切り上げてください」
出入り口となっているドアだけ戸締りを頼むと言い残し、慌しく出ていく初老の男をダンボールの間から見送った。
その後も一人で黙々と片付けを進めたが、ふと顔を上げるといつの間にか空の低い位置には赤味が差していて、それに気付くのと同時に慣れない作業がもたらした疲れを自覚した。
「続きはまた明日やればいいか」
どうせ鍵を返しにくるのだから、ついでに手伝っていけばいい。
そう決めてテーブルに置いてあったキーホルダーを手に取ったが、その時、不意に目にとまったものがあった。
「……あれだけラベルがついてないんだな」
それは、一番奥の棚に並んだファイルの一つ。
特別派手な色合いというわけではない。
なのに、なぜだか無性に気にかかり、わざわざ書棚の前まで戻って中を覗いた。
他のファイルと違うところといえば、幾分厚みが少なく、背にラベルの類がついていないという点だけだったが、ペラペラとめくってみると中身にも具体的な名前や日付は一切記載されておらず、人物の名前も「A」とか「B」といったアルファベットのみで、いっそう違和感が募った。
「……ケーススタディに使うサンプルみたいなものか?」
大学の講義の資料か何かならこんな表記もありがちだが、案件ファイルの棚に置かれたものとしては異質に感じられる。
「まあ、いいか」
明日それとなく吉留に聞いてみようと思い、目印の代わりに自分のファイルをすぐ隣に挟み込んでから事務所を後にした。



見慣れた夕刻の街並みに郷愁のようなものを覚えながら、半ば無意識でも歩けるようになった道筋をゆっくりと辿り、店の裏口から事務所に入る。
「社長なら出かけてるぞ。まあ、そのへんに座ってろよ」
普段より幾分早口で出迎えた男に軽く頷いてから、開いている席に浅く腰を下ろす。
すぐに戻らないようなら柿田に金だけ預けて帰ればいい。
そう思って羽成の予定を尋ねたが、返事は「どうだろうな」という曖昧なものだった。
「松崎、社長の予定分かるか?」
「ああ、ええと……」
事務処理上のちょっとしたトラブルがあったとかで、事務所内はいつもより少し張り詰めた空気と慌しさが満ちていた。
「今朝入れた予定はさっきのエラーで飛んじゃったんです。でも、今日最後のアポだし、用が済んだら帰ってくるって言ってたような……」
パソコンのキーを叩きながら答える声は次第に小さくなり、最後は柿田の呟きに消された。
「まあ、戻りは早くても明日の昼過ぎだな」
「えー、どうしてですか?」
「バカだな。村岡が『社長に紹介したい』って言ってモデルみたいな女を連れてきたんだぞ。間違いなくそういう意味だろうよ?」
おまえもそう思うだろ、と目線で同意を求められ、仕方なく頷いたものの、投げやりな気持ちになるのは止められない。
不機嫌が態度に出る前に帰ろうと決めて立ち上がった。
「じゃあ、これ羽成に返しておいてくれないか?」
折りたたんだ紙幣をいくぶん投げやりな態度で柿田に差し出すと、「そんなもん明日自分で渡せ」と軽く断られてしまった。
「ナンだよ、その顔は。たいして遠くもないんだから、遊びに出たついでにちょっと寄れば済むことだろう?」
「……そうだけど」
ただでさえ顔を合わせにくいというのに、ましてや朝まで女といた日など絶対にごめんだ。
けれど、そんな理由を口に出せるはずもない。
「ま、社長には氷上が金返しにきたって言っといてやるから」
柿田との遣り取りの間も他の社員たちは慌しく後処理に追われていたが、一人だけ周囲の空気などものともせず、来客用のソファで酒を呷っている女がいた。
靴を脱ぎ散らかし、テーブルに足を上げて、飲み干した酒のビンを床に転がしている。
無意識のうちに呆れ顔をしていたのだろう。
目ざとくそれを見つけた柿田が空き机にコーヒーを二つ並べ、俺をそっと手招きした。
「さっきも話したが、今日、社長を連れ出してるのは村岡なんだ。店で使って欲しいって言って知り合いの女を連れてきたんだが、そいつがまたえらい美人だったもんで、女王様はあの通りご機嫌ナナメってわけだ」
今夜の仕事まで放棄したという我が侭ぶりにはさすがに呆れたが、部外者が口を挟むことでもない。
厄介ごとに巻き込まれないうちにさっさと引き上げようと思いながらコーヒーに口をつけると、後ろから女の声が響いた。
「そこにいるの、氷上クンでしょ? 社長にまた何かおねだりしに来たの? いいわよねぇ、ちょっとねだれば何でも買ってくれる人がいて。何をやったらそこまで入れ込んでもらえるのか教えてもらえなぁい?」
事務所内を見回すと松崎さん以下数名の社員が「ごめんなさい」という顔をして俺を見ていた。
「まあ、なんというか、ヤツ当たりするにはちょうどいいんだろうよ。そうじゃなくても社長はおまえのことを構いすぎてるしな」
何でも自分が一番でなければ気が済まない性格の女だからと肩をすくめた後、「悪いな」と軽い詫びを足した。
「従業員のご機嫌取りはマネージャーの仕事なのか?」
「そりゃあ、誰かがやらないと」
フロアスタッフの大半は彼女のような契約社員。
稼ぎのいい者ほど少し面白くないことがあるとすぐ「他の店に移る」と言い出すから困るのだと苦い笑いを浮かべた。
「前の社長は使える女にはそれなりの扱いをしてやってたんだがね」
贅沢なディナー。ホテルのスイート。
適当に夢を見せて、必要がなくなったらさりげなく厄介払いする。
当たり前のようにそうしていたという十河を俺は想像することができなかったけれど。
「羽成だってよく出歩いてるんだろう?」
刺々しい言い方にならないよう気をつけたつもりだったが、そのせいで不自然なほど抑揚のない口調になった。
だが、柿田はそんなことに気付いた様子もなく話を続ける。
「つってもなぁ、ああまで取っ替え引っ換えじゃ、甘い夢なんて見られないだろうさ」
どう思う、と真顔で問われたけれど。
「社長としては問題かもしれないけど……結婚してるわけじゃないし、まともに付き合ってる相手がいないなら別にいいんじゃないのか?」
そう答えたら、背後で「ふう」という大袈裟な溜め息が聞こえた。
「……何か言いたそうだね、松崎さん」
灰皿を取替えにきた彼女はすぐに「別に」と言ったけれど。
「そういうところが氷上君も男なのよねって思って」
小さな棘を付け足すのは忘れなかった。
それを聞いた柿田は「そりゃあ、そうだ」と笑っていたが、直後にサラリと面倒な頼みを投げて寄越した。
「まあ、なんだな。とにかく、おまえからもやんわりと社長に釘を刺しといてくれ」
「……なんで俺が」
「大丈夫だ、おまえなら言える」
そんな無責任な発言の後は、「もっとも社長がそれを聞き入れるかどうかは別だし、俺としてはあの村岡を信用しすぎてるってことの方が気になるんだがな」といつになく真顔でボソリと呟いた。
暢気そうに見えてもマネージャーという仕事は案外大変なのだろうと同情しかけた時、
「ねぇ、氷上クンも社長の愛人になりたいの? まあ、男同士じゃ、どうせ結婚はできないし、どんなに頑張っても愛人止まりだろうけどねぇ」
片方だけ靴をつっかけ、よろけながら歩いてきた女は、覚束ない足取りで柿田のすぐ隣に立つと、断りもなくその指から煙草を取り上げ、濡れた唇に咥えた。
「こら、彩音。酔っ払ってるからってそうやって他人の物を勝手に―――」
女に注意をする柿田がまるで父親か兄のような口調で、それが何だか少し可笑しかったけれど。
「いいじゃない。タバコの一本くらいでうるさく言わないの。すっごいたくさんお給料もらってるクセに」
女の方はもうすっかり酔っているらしく、柿田の言葉など聞く耳は持たないようだった。
そして、相変わらず絡む相手は俺一人だけ。
「氷上クン、もしかして彼がどこかのご令嬢とでも結婚するって時にはすっごい慰謝料をもらってバイバイとか思ってる? そういえば前の社長サンだって氷上クンには―――」
甘えたような声でタラタラと続けられる言葉に神経が逆撫でされる。
酔っ払いに向かって怒るのは馬鹿げていると思いながらも、どうしても我慢できなかったのは、自分に対する侮辱のせいではなかった。
「……十河の話はするな」
辛うじて怒鳴らずにそう言ったが、不快感を隠すことはできなかったし、緊張が漂いはじめた周囲を気遣う余裕もなかった。
「怒った? だってホントのことでしょ? 十河社長もバカよね。アンタみたいな子に入れ込んじゃって。騙されてるって気付かなかったわけじゃ―――」
それ以上何か言われたら、手を上げていたかも知れない。
けれど、彼女の言葉は途中でピシャリと遮られた。
「いい加減にしろ」
戸口から投げられた声に、デスクに向かって仕事をしていた者まで全員が顔を上げた。
「社長……いつ戻ったんです? 村岡と飲みにいったはずじゃ……」
柿田が引きつった笑みで尋ねても、返事は「面倒だから帰ってきた」という素っ気ないものだけ。
周囲の空気が一段と張り詰めた事にも気付かず、女は髪を直しながら目を輝かせた。
「だったら、これから一緒に出かけません? 昨日お客さんにおいしいお店を教えてもらって―――」
さっきまでの酔っ払いぶりが嘘のような可愛らしい口調に、さすがの柿田も苦笑いを漏らしたけれど。
「用がある」
短すぎる一言で断りを入れた後、羽成は社員の一人に彼女を家まで送るよう言いつけた。


女が部屋から連れ出された後、部屋の中はようやくオフィスらしい雰囲気になり、他の従業員はまたそれぞれの仕事に戻っていった。
その様子をぼんやり眺めていると背後でライターがカチッと鳴り、ふわりと白い空気が流れてきた。
今も変わらず、懐かしくて少し苦しい。そんな匂い。
深く吸い込みながらかすかな眩暈を覚え、同時に金を返さないといけないことを思い出して視線を上げたけれど。
「食事は?」
目が合った途端に予期せぬ問いが飛び、何をしようとしていたのかを忘れてしまった。
「……それ、俺に言ってるのか?」
煙草を咥えたまま軽く頷く羽成の目がこちらを離れることはなく、何だか少しドキリとした。
「……まだ……だけど、おまえ『用がある』って言ってなかったか?」
当たり障りのない断わり文句を選んだだけだということくらい分かっていたけれど。
このことがあとで彼女に知れたら、また柿田が機嫌を取るハメになるだろう。
一応そこまで心配をしてみたが、どうやら気遣いは無用だったらしい。
「なんだよ、氷上。思いっきりヒマなんだろ? せっかくだから何でも好きなモン奢ってもらえばいいじゃないか。男二人でメシ食うのは嫌だとかそんな贅沢は言わないよな?」
柿田は満面の笑みで俺の肩を叩くと、露骨に追い出しにかかった。
「……まあ、一人で食うよりは」
どうせ羽成には金も返さなければならないし、ここは大人しく言うとおりにしてやろうと思いながら答えた瞬間、柿田から何かを握らされた。
「じゃ、頼んだぞ。その辺にぶつけるなよ」
手の中には見覚えのあるマークがついた金属。
羽成が十河からもらった車のキーだった。
「待てよ。俺、免許なんて―――」
全部を言い終わらないうちに鍵を取り上げたのは羽成の手。
その後、何が食べたいかを問われ、「任せる」と答えて。
軽く背中を押されて、部屋を出た。



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