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 ハンドルを握る羽成の横顔を眺めながら、「これから行く場所は十河の知り合いがやっている店だ」というような説明をぼんやり聞いていた。
 
 「いらっしゃいませ。お車をお預かりいたします」
 十五分ほどで着いた店の外観にきらびやかな印象はなかった。
 けれど、客層はどこかの社長や政治家、医者、弁護士といった肩書きの人間ばかりなのだと一目で判った。
 比較的早い時間帯のせいなのかフロアには女性が多く、男二人という組み合わせでは少々居心地が悪いかもしれないと案じたけれど。
 「お待ちしておりました、羽成様」
 恭しく案内されたのは中二階の一角。
 個室のように仕切られたその場所からは階下がよく見えるが、下からは存在さえ分からない、いかにも「特別な客専用」といった風情だった。
 「ご無沙汰しております、羽成さん」
 出迎えたのは綾織(あやおり)と名乗る女性。
 ここの社長で年は四十くらいだろうか。
 すらりとした長身に控えめな色合いのチャイナドレスを纏い、華やかさの中にも気品が漂っていた。
 「十河さんが亡くなられてからお忙しいご様子と伺っておりましたが、お元気そうで何よりです」
 挨拶代わりに羽成と交わす言葉は丁寧ではあったがとても親しげで、アットホームな雰囲気さえ感じられる。
 「それで……こちらの方は?」
 俺の素性を尋ねる口調からも下世話な好奇心は窺えず、顔には親しい友人に向けるような自然な笑みが湛えられていた。
 「氷上と申します」
 名前だけは告げたものの、羽成との間柄をどう説明すればいいのか迷っていると、当然のように次の言葉が降った。
 「羽成社長のご友人ですか?」
 俺には答えにくい質問だということも承知していたのだろう。
 その問いは最初から羽成に向けられていた。
 「十河の、だ」
 羽成の返事はたったそれだけ。
 けれど、彼女は少しも不満を見せず、それどころかこれ以上はないほど顔を輝かせた。
 「嬉しいわ。もうずっとご紹介いただけないのかと思っていましたのに、こんなに早く会わせていただけるなんて―――」
 まぶしそうに細められた瞳はこちらに向けられていたけれど、返すべき言葉が浮かばず、曖昧に頷いたあとで視線を落とした。
 ―――十河の、か……
 どんなに時間が経とうが、羽成にとっての俺は「十河の物」でしかない。
 真正面からそれを突きつけられたあとでも、何も感じずに向かい合っていられたら良かったのに。
 苦い気持ちが巡り、溜め息を押し殺しながら彼女の話に耳を傾ける振りをする。
 「ここへいらっしゃる時も十河社長はいつも氷上さんのご自慢をされていましたけど、一向にご紹介してくださる気配がなくて。いつだったか、お店に連れてきてくださいってお願いした時も、『あいつは外には連れ出さない』ってあっさり断られてしまって」
 話の合間も時折り笑みが向けられるのを感じたが、自然に微笑み返す自信もなくて、適当な相槌に紛れてグラスに手を伸ばした。
 彼女は敏感にこちらの心中を察したのだろう。
 すぐに十河の思い出話を切り上げた。
 「前社長には随分とお世話になりましたのに、何も恩返しができないうちに……本当に残念です」
 この店にも十河は個人の金で出資していたのだという。
 それにかかる権利の一切も今は羽成が譲り受けているらしい。
 だとすれば、こんな特別待遇も頷けた。
 「それにしても、氷上さんはお若いのに落ち着いていらして……うちの息子も少しは見習ってくれるといいんですが」
 コロコロと笑いながら、自分の会社で働いているという息子のことを少しだけ話す。
 俺より年上の子供がいるようには見えないけれど、そんな時はやはり母親らしい空気が漂った。
 「文字通りの愚息ですけど、今度ご紹介しますわ。よろしかったら、来月予定しているパーティーに――」
 楽しげな言葉はそこで突然止まった。
 不自然な間を訝しく思ってナイフを握っていた手を止めると、彼女は羽成に向けていた笑顔をゆっくりとこちらに移した後、おどけたように肩を竦めた。
 「でも、お目付け役のご了承が得られそうにありませんわね」
 パーティーの話に羽成がどんな顔をしたのかは分からなかったけれど。
 綾織は笑いを堪えた口元を軽く手で覆いながら、幾分弾んだ声で傍らに控えていた男に新しいワインを持ってくるよう言いつけた。
 
 
 話し好きな綾織のおかげで気詰まりに感じることもなく、会食は和やかなムードで終了した。
 帰る頃にはもう階下の客もほとんどが男性に変わっていて、どことなく羽成の店を思い出させた。
 「是非またいらしてくださいね。それから―――」
 何かあったら何なりと申し付けてくださいという言葉と同時に、一抹の不安が過ぎった。
 十河への恩返しの代わりにいつでも力になるという綾織の言葉も社交辞令には聞こえなかったし、彼女が頼りになる存在だということも十分伝わってきた。
 だからこそ、俺を信頼できる相手に託すことで、羽成が手を離そうとしているように思えてならなかったのだ。
 「それでは、お気をつけて」
 表に回された車に乗る直前、そっと渡された名刺の裏に手書きされた携帯の番号を確かめる振りをしながらチラリと隣りを窺ったが、彼女に礼を言う間も羽成がこちらに視線を向けることはなく、その意図は測れなかった。
 
 
 
 羽成は何を考えているのだろう。
 口を開いたら本心を問いたくなってしまいそうで、意識して沈黙したまま車窓に映る夜の風景を眺めた。
 急ぎ足で駅に向かう人の波。
 緩やかなカーブに沿って連なるテールランプ。
 向かっている先がマンションではないと気付いてから十分くらい経っただろうか。
 流れるように車が滑り込んだのは都心のホテルだった。
 何の説明もないまま乗せられたエレベーターが着いた先は夜景が見下ろせるバー。
 こんな場所に男二人で来ることに違和感を覚えながらも、何も言わずに羽成の隣に腰を下ろした。
 ふうっと溜め息に似た呼吸が漏れたのはこの状況に不満があったからではなく、座った途端に疲れを感じたからだったけれど。
 羽成はそう受け取らなかったのだろう。
 チラリと向けられた視線がなんだか冷たいような気がして、慌てて言い訳じみた言葉を並べたてた。
 「今朝、いつもより早く起きたから―――」
 自分のことなど話題にするつもりはなかったのに、気がつくと昼間何をしていたのかを順序良く述べていた。
 それも、まるで小学生の日記だと自分でも呆れるような内容だ。
 聞かされるほうがうんざりするだろうと思っていたが、反応は予想外に良いものだった。
 「それで、どうでしたか?」
 「え? 大学? 別に……もう留年が決定してた」
 その後の返事は「当然ですね」の一言だけ。
 けれど、口元がかすかに笑っているように見えて、何だかくすぐったい気持ちになった。
 
 ビールを一杯空けた後は、いつものように水割りを頼む。
 羽成は相変わらず無口だったけれど、今夜はそれに息が詰まることも苛立つこともなく、ただこうしているのが当たり前のように思えた。
 傍からは変な組み合わせに見えるだろう。
 そんなことを意識し始めた時、羽成は静かに席を立った。
 「少し仕事の話をしてきます」
 カウンターの隅に座りなおし、バーテンダーと話す横顔を見ながら、二杯目の水割りを飲み干した時、ふっと意識が遠のいた。
 普段なら酔う量でもない。
 やけに酒の回りが早いなと思った時にはもう頬が火照り始めていた。
 「……寝不足だからな」
 それでも三、四時間は眠ったはずなのに。
 普段と違う生活というのはこうも疲れるものだろうかと思いながら、テーブルに肘をついて目を閉じた。
 時間にしたらほんのわずか。だが、絶対に現実ではない景色が目の前に広がった時、さすがにまずいなと思った。
 けれど、意識はそこで覚醒することなく、頭上に声が降るまで思いきり夢の中を漂った。
 「大丈夫ですか?」
 不意に引き戻されて再び目を開けてみると、傍らにあったはずの伝票はなくなっていて、代わりにプレートのついたキーが鈍く光っていた。
 「……帰れないほど酔ってるように見えるのか?」
 こんな有様では肯定されたとしても文句など言えないと思ったけれど。
 羽成の答えは「いいえ」の一言。
 それ以上何かを告げることもなく、そっと席を立つように促した。
 
 
 ゆるゆると向かったエレベーターホールに人影はなく、ますます気の緩みが増幅する。
 「体調の悪い日は一人で飲まない方がいいですね」
 斜め上から落ちてくる声を聞きながら、相変わらず余計なことにはうるさいんだよなと心の中で肩をすくめた。
 「寝不足なだけで具合が悪いわけじゃ―――」
 反論めいた説明をしたけれど。
 言いながら視線を移した時にはもう目の前に羽成がいて、その続きを言葉にすることはできなかった。
 「……ぅ……ん……」
 エレベーターが到着したことを知らせる軽やかな音が響くまでの間。
 ただ、塞がれた唇の感触に意識を奪われて現実をなくしそうになる。
 押し込まれるようにして乗った四角い空間に二人きり。
 行き先のボタンを押し、ドアが閉まるのと同時にその手はまた頬にかかり、触れた唇が呼吸を忘れさせた。
 壁に押し付けられた体が崩れ落ちそうになった時、音もなくドアが開く。
 赤いカーペットに彩られたフロアが目の前に広がり、それと同時にまた酔いが増したような気がした。
 
 覚束ない足取りで長い廊下を歩き、部屋の前に立つ。
 手にした鍵さえうまく差し込めず、酔いの程度をはっきり自覚したけれど。
 自分自身に苛立つより前に、覆いかぶさった羽成の手によってドアは開けられた。
 触れた瞬間、自分の肌の方がずっと熱いことに気付いて、身体の火照りがいっそう激しくなる。
 ゆっくりと締まる扉が廊下の明かりをすべて遮った時、背中から抱きすくめられて首筋に柔らかいものが当たった。
 お互い何も言わないまま。
 投げ出された鍵と剥ぎ取るように脱がされた服が床に散らばるのを見ながら、無駄に広い部屋の薄明かりの中、持て余していた熱をその手に預けた。
 「……待てよ、シャワーくらい……あ……っ」
 誰かに依存しなければ生きていかれないなんてことがあるはずはない。
 確かにそう思っているのに。
 「羽成……っ」
 名前を呼ぶたびに大きくなっていく感情が苦しいほどに全てを圧迫して、判断能力を希薄にしていく。
 理由とか、本心とか。過去とか、これからとか。
 何一つ考える隙を与えられずに、意識の中に降り積もった何かが、今この瞬間しか見えなくさせた。
 
 
 言葉もないまま強く抱かれて、唇を塞がれて。
 いっそのこと全てが鈍ってしまえばいいのに、と。
 願う気持ちに反して、感覚だけがいつまでもピリピリと過剰反応する。
 「……ん……っ」
 少し触れられただけでゾクリと痺れるような錯覚を起こし、胸の突起は硬く立ち上がって舌先が往復するたびにビクビクと身体を震わせる。
 「ぅ……ふ、っ……あ……あっ」
 これ以上気持ちを預けてしまったら、いつか一人になった時に自分を支えられなくなる。
 心のどこかには焦燥が広がり始めているのに。
 もがいても解放されない身体を投げ出したまま、両手は羽成の温度を確かめていた。
 熱とか、感触とか。
 ただそんなものに抗えなくて。
 滲んだ視界に突きつけられたものを口に含む。
 濡れたそれが自分の唇を出入りする様にまた欲情して、ねだるように咽喉の奥まで咥え込んだ。
 「んん、っふ……」
 口角から溢れた唾液が顎から咽喉に伝い、顔を上げるといつもと変わりない目が見下ろしていた。
 何かを問う間もなく足首を掴まれ、両脚を大きく開かれる。
 よほど虚ろな様子をしていたのか、羽成はしばらくこちらを見ていたけれど。
 顔を正面に向けさせ、濡れた唇を指で拭った後、そのままヒクつく場所に差し入れた。
 「あ……っく」
 少しでも顔をゆがめるとまた唇を塞ぐ。
 声さえ奪ったまま、蠢く指がその場所を押し開く。
 そして、呼吸が荒くなり始めた頃、熱を持ち硬く立ち上がったものをゆっくりと、けれどためらいなく押し入れた。
 内壁を擦り、圧迫しながら奥深くに熱を押し付ける。
 苦しいはずなのに、突き上げられるたびに中心から透明な液体が滴り落ちて腹を濡らした。
 「んん……あ……ぅ……あっ……」
 次第に激しくなる動きに体ごと視界が揺れ、半開きの唇からは熱と喘ぎ声だけが切れ切れに漏れる。
 耐えかねて時折りギュッと目を閉じると、睫毛に涙が滲むのを感じた。
 肌が粟立ち、背中が撓り、掠れた声で限界を訴えても、羽成の表情が変わることはなく、ただ苦しさを煽るように深いキスで呼吸を奪う。
 「あっ、ん、ん……ああ……っ!!」
 半ば泣きながら中心から放ったドロリとしたものは羽成の肌も汚したけれど。
 それを拭うこともないまま、突き入れたものが俺の体の中で欲情を散らすまで、激しい行為が止むことはなかった。
 
 
 
 二度の熱を放ち、薄っすらと目を開けると目の前は羽成の首筋。
 そんな状況に戸惑いながらも、現実は少しずつ戻り始める。
 呼吸が整い、熱が引いて、真っ先に脳裏を過ぎったのは夕方店で酒を飲んでいた女の言葉だった。
 羽成がいつ事務所に戻ったのかは分からないけれど、少なくとも最後の彼女の言葉は全部聞いていただろう。
 「羽成」
 どうしてもそれが引っかかって、気がつくと弁解を始めていた。
 「……おまえがどう思ってるか知らないけど、俺、十河のことは―――」
 本当に好きだった、と。
 そう告げたけれど。
 返事はいつもと同じ「分かっています」という素っ気ないもの。
 どう受け止めたらいいのか判らなくて、その後はまた黙り込んだけれど。
 しばらくしてから、「明日からフロアスタッフは事務所に立ち入らせないようにするので」というような呟きが耳を抜け、なんだか自分が我が侭を言ったような気になった。
 「別にそこまでしなくても……他の奴には、どう思われても構わないし」
 羽成が『分かってる』と言うなら、俺にはそれだけで十分だから、と。
 溜め息交じりに吐き出したけれど。
 その瞬間、またゆっくりと呼吸を奪われて、全てがうやむやになった。
 
 
 望むまま与えられた愛撫と温度。
 再び熱を吐き出した後も眠りが訪れることはなかったが、気だるさに負けて目を瞑った。
 こうして当たり前のように羽成の隣にいることを不思議に思う。
 少し前まで、こんな未来など脳裏をかすめたことさえなかったのに。
 「……昔のこと、聞いてもいいか?」
 羽成の腕の中で、十河の過去を問う。
 若い頃は何をしていたとか、いつ羽成と知り合ったのかとか。
 そういうことについての答えは返らなかったけれど。
 どんな奴だったのかを尋ねた時だけは返事があった。
 「口を開けば我が侭ばかりでした」
 大抵は仕事のことだったけれど、思いつきや気紛れも多く、そのたびに側近連中は振り回されたという。
 「……ふうん」
 十五だった自分が見ていた十河と、羽成がよく知っている男はやはり違うのだろう。
 そう思いながらも懐かしさがこみ上げ、同時にかすかな笑みがこぼれた。
 「……十河の気持ち、なんか分かる気がするよ。おまえって、我が侭言いたくなるんだよな」
 いくらか不機嫌になることはあっても、最終的にはそれを受け止める。
 いつも無表情なその顔がどう変わるのかを見たいがために、十河はわざと難題を言いつけたのかもしれない。
 羽成を呼びつける時に見せた楽しそうな表情を思い出すと、少しだけツキンと胸が痛んだ。
 「おまえは十河のこと、どう思っていたんだ?」
 どんな言葉で語るにしても、多少は羽成の気持ちも見えるだろうと期待していたのに。
 「もう忘れました」
 羽成は表情一つ変えずに素っ気ない答えを返した。
 「……嘘つくなよ」
 仲間内では十河に心酔しているという声も聞かれたけれど、そんな盲目的な感情に支配されているようには見えなかった。
 だからと言って、他の連中のように十河を踏み越えて上に行こうなどという野心は少しも感じられなかったし、実際そんな気はなかったと思う。
 それを分かっていたからこそ、十河は羽成にあの店を渡したのだろう。
 あくまでも普通の企業形態で他の手駒のように旨味があるわけではないから、譲ったものがそれだけならば幹部連中と揉めることなく組織から距離を置くことができるはずだ、と。
 そんなふうにコイツの将来を描いたのではないだろうか。
 煙草を咥えたまま天井を見つめている横顔を見ながら、ふとそんなことを思う。
 
 十河が望んだ羽成の未来は、どんなものだったのだろう。
 できることなら、十河の口から聞いてみたかった。
 
 「羽成―――」
 わけもなく心のどこかが軋み、鈍い痛みを抱えたまま思い出話を終わらせる。
 「もう店には行かないから、柿田にも俺を呼びつけるなって言っておけよ」
 あの女のことがなかったとしても、顔を出すたびに仕事の邪魔をしているのは確かだ。
 柿田だって暇ではないはずなのに、毎回律儀に話しかけてくる。それだって俺に気を遣ってのことだろう。
 そこまで考えてから自己嫌悪に陥った。
 自分がどれほど迷惑な存在かを改めて自覚したせいではなく、言い訳を並べながら必死に本音を押し込めていることが薄汚く思えたからだ。
 「理由は?」
 煙を吐き出しながら問われた時、すべてを見透かされている気がして返事に詰まった。
 「……別……に―――」
 言うつもりなどなかった。
 なのに、触れた肌から温度と一緒に感情まで伝わっているような錯覚に囚われて、結局、一番隠しておきたかった言葉を告げてしまった。
 「……おまえみたいに、何もなかったような顔なんてできないから」
 羽成の返事は普段どおり、「分かりました」の一言だけ。
 あっけない承諾に、後悔に似た感情をわずかに抱きながらも、これでよかったのだという安堵とともに眠りついた。
 なのに。
 
 結局のところ、何をどう分かったということだったのか。
 一週間が経過してもこちらの願いを柿田に伝えた様子はなく、その代わりのように、羽成は俺を名前で呼ぶようになった。
 
 
 
 
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