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 真っ先にそれに気付いたのは柿田だった。
 「……『真意』ねぇ。ついこの間まで『氷上さん』って呼んでなかったか?」
 不意にそんな指摘をされたのは、羽成からの電話でしぶしぶ事務所に顔を出した時のこと。
 自分で呼びつけておきながら散々俺を待たせた羽成は、ようやく姿を見せたと思ったらいきなり「事務所に居づらい時は社長室で待つように」と社長室のスペアキーを渡し、「外泊する時は連絡を入れるように」と言い残してまたどこかへ行ってしまった。
 柿田は眉を寄せたままそれを見ていたけれど、羽成の気配がすっかり遠くなると俺に向き直って、先ほどの突っ込みを入れたのだ。
 普段は何にも頓着しないくせに、こういうことには案外敏感らしい。
 「さあ、覚えてないな」
 言った瞬間、「とぼけるな」と頭を小突かれた。
 「しかも、社長室の鍵? 外泊する時は連絡しろ?」
 どういうことだと聞かれたが、それにも「さあ」と答えるしかない。
 「『さあ』じゃねえだろ。ちゃんと答えやがれ」
 薄々勘付いているのでなかったら、こんなことを確認することもないだろう。
 隠したところで柿田の結論は変わらないのかもしれないが、それでも明確な答えを避ける以外の対応はできなかった。
 「理由が知りたいなら、俺じゃなくて羽成に聞けよ」
 問えるはずなどないことは承知の上でそう返した。
 だが、柿田の追及がそこで終わることはなかった。
 「この間、メシ食った後で何かあったのか?」
 「別に何も」
 躊躇わずに即答したが、柿田は俺をじっと見ながら片眉を上げた。
 「嘘つくなって言っただろう?」
 「……だから、羽成に聞けって」
 俺から話せるようなことは一つもないと答えて、やっとその質問からは解放されたけれど。
 「なんで構うかね、おまえみたいな面倒くさいガキ」
 柿田はまだ納得がいかないのか、隣でわざとらしくパリパリと頭を掻き、ふうっと溜め息をついた。
 「まあ、ここであの態度取るってのは、俺たちにもそれなりの対応しろってことなんだろうけどなぁ。とりあえず俺はおまえに突っかかるヤツを厳重注意しときゃいいのか?」
 「……だから、俺に聞くなって」
 先日のことは柿田も気にしていたのだろう。
 羽成からフロアスタッフの出入り禁止を言い渡された時、諸手を挙げて賛成したらしく、そのおかげで翌日からここもすっかり普通のオフィスになり、派手なドレス姿の女がふらりと煙草を吸いにくることもなくなった。
 「氷上君も変に聞き分けのいい顔しないで、突っかかられたら遠慮なく言い返したらいいのに。別に気を遣うことなんてないし、社長だってそんなことで怒ったりは……あ、そうそう。言い忘れてたんだけど、吉留先生から電話があって――」
 開店前のこの時間、事務方の女性は忙しい。
 いつもより少し早口に伝えられたメッセージは、「急な出張で数日の間不在にするから、来週の火曜にまた手伝いに来てもらえないか」という内容だった。
 「いいけど。何時に?」
 「氷上君の空いてる時間でいいって。いなかったら勝手に入って構わないから、箱詰めだけしてもらって―――」
 彼女の言葉が終わらないうちに「どうせ暇なんだろ」と柿田の野次が飛ぶ。
 「まあ、そうだけど。講義もたいして入ってないし、あとは教習所に行こうかと思ったくらいで……」
 それも「免許くらいはあった方がいいだろう」という程度の消極的な動機で、特に車に興味があるわけでもない。
 でも、目の前にいた松崎さんは突然仕事の手を止めて身を乗り出した。
 「いいなぁ。どんな車買うの? やっぱり今時の子が好きそうなタイプ? 何も言わないと十河さんが氷上君にあげるって決めてた車が自動的に家に届くみたいだけど、それも悪くないかもね」
 それだって実際は羽成が全ての手配をするのだ。
 事前に断ったとしても、「遺言だから」の一言で片付けられるのだろう。
 そう思うと気が引けた。
 「……松崎さん、それ、どんな車か知ってる?」
 「車種? そこまでは分からないなぁ。社長に聞いてみたら?」
 どんなのか楽しみだね、と微笑まれ、それがまた無意識の溜め息に変わる。
 「安いヤツでいいのに。どうせぶつけるんだから」
 少し投げやりな気持ちでそう答えると即座に怒られた。
 「ぶつけると思ってる人は公道に出ちゃいけません」
 「……それはそうだけど」
 答えながら、不覚にも少しだけ笑いが漏れたのは、口うるさい姉がいたなら毎日こんな会話をするのかもしれないと思ったからだ。
 「氷上君もお店で運転手のバイトでもすればいいのよ。ぶつけちゃいけない車ばっかりだから、車庫入れとかめちゃくちゃうまくなるし」
 ついでに「高い車は乗り心地も違うんだから」なんてことまでやけに楽しそうに話しながら、彼女はいつにも増して華やかに笑った。
 「実はね、私、運転手採用だったの」
 「え?」
 昔この店で働いていたという叔母から「従業員を募集している」という話を聞いて、軽い気持ちで店構えを見にきたのだという。
 「でも、叔母さんがいつも『華やかでいかにも上流社会の人たちが集まる場所って感じが素敵だった』って話してたから、ちょっと憧れてたのよね」
 ちょうど女優業に限界を感じて引退したばかりの頃。
 ふらりと様子を見にきた時、駐車場に並んだ高級車に目が釘付けになったらしい。
 「なんかすごい車ばっかりでしょう? じっと見てたら、いきなり『乗ってみるか?』って声を掛けられて」
 それが十河だった。
 元女優が『憧れていた』という理由で就職したなら店としても体裁がよかったのだろう。採用も即決だったらしい。
 「……それで運命を感じちゃったのが間違いの元だったのよね」
 言外に含んだ彼女の後悔が、十河のことなのか羽成のことなのかは分からないが、どちらにしても今はもうすっかりケリをつけたのだろう。
 すぐにいつもの明るい瞳が向けられた。
 「でも、ホントに雇ってもらえてよかったなって。好きなときに運転させてもらえるし、居心地いいし、お給料いいし。後は素敵なお客さんにでも見初められて玉の輿……なーんてね」
 彼女の笑みが強がりではなさそうなことに安堵していると、後ろに立っていた柿田が余計な話を持ち出した。
 「そういやあ、氷上は飯島の店を荒らして組に連れてこられたんだよな」
 「……いいよ、俺のことは」
 ロクな展開にならないことは分かったからすぐにでも切り上げたかったが、代わりの話題も思い浮かばない。
 勝手にしてくれと思いながら、聞き流すことしかできなかった。
 「でも、氷上君が来たのって結構大変な時期だったのよね?」
 ちょうど十河の周辺が物騒になり始めた頃で、接触してくる人間に対して側近連中はかなり警戒していたという。
 「もちろんガキも対象外じゃなかったんだがな」
 部外者である俺を遠ざける目的で羽成が言った「放っておけ」という言葉に十河は興味を持ったらしい。
 「電話の最中、俺もちょうどその場にいて聞いてたんだがな、多分、十河社長は違う意味に取ったんだろうよ」
 羽成が逃がしてやろうとした相手の顔が見たくなったのではないかと言って柿田が肩を竦める。
 携帯を耳に当てて社長室の椅子に退屈そうに踏ん反り返っていた十河の口元はその瞬間に緩んで、『どんなガキなんだ? すぐに連れてこい』と楽しそうに命じたのだという。
 「運がいいのか悪いのか……まあ、そういう巡り合わせだったってことには違いないだろうけどな」
 そんな会話の合間、ふと思い出したことがあった。
 『人間の行く末なんて最初から決まってる』
 そう言ったのは木沢だった。
 あの時、そこに暗示されていたのは木沢自身の未来で、俺にはまったく関係のないものに思えたけれど、今になってそれが急速に現実味を帯びて鮮明になる。
 
 羽成が俺を放すように言ったこと。
 組事務所に連れてこられたこと。
 再び羽成と会ったこと。
 十河が死んだこと。
 そして、十河が羽成に俺を託したこと。
 
 どれかは運命で、どれかはそうじゃないのだろうか。
 それとも、すべてが最初から決まっていたことなんだろうか―――
 
 グルグルと色々なものがめぐり、無意味に揺さぶられながら。
 「……ふうん」
 「ったく、相変わらず無感動なヤツだな」
 傍らで響く暢気な声を聞き流し、考えることを放棄する。
 過去は過去。
 もう終わったことなのだから、と無理矢理流してしまえばいい。
 どんな未来に繋がっているかなんて、考えても判るはずがない。
 「あの頃は俺もモロにヤクザだったよなぁ。まあ、今はもうすっかり堅気の会社役員だけどよ」
 もう帰ろう。
 そう思いながら溜め息をついた瞬間、不意に背中をつつかれた。
 「氷上君。今の、笑うところ」
 「……ああ、そうなんだ」
 まともな反応を返すことさえできないまま。
 外の空気を吸いにいくような顔で、そっと事務所を後にした。
 
 
 
 適当に食事を済ませ、何日かぶりに一人で飲み歩いて。
 マンションに帰ってきたのは夜中近く。
 窓でも開けない限り、自分の立てた音しか聞こえない部屋。
 いつもなら心地良いはずの静寂がやけに重く感じられて、レポートのために借りてきた本を広げたままニュースをつけた。
 「……エンディング、変わったんだな」
 十河と聞いたあの曲はもう流れない。
 淋しさと安堵を感じながら目を閉じると、意識は次第に遠のいていった。
 
 
 
 ソファの上で身体が傾いていくのを感じたのは、きっとほんの数秒前のこと。
 自分ではそんな感覚だったけれど。
 「……羽成?」
 意識が現実の光景と結びついた時、目の前には羽成がいて、何気なく目を遣った時計の針も、もう一時を回っていた。
 「何しに来たんだよ。……抜き打ち検査か?」
 そんな言葉に対して羽成は「ちゃんと寝室で休むように」と言っただけ。
 煙草に火をつけると、白い空気を吐き出した。
 その匂いに酔いながら、またぼんやりと思考が霞んでいく。
 「……まだ仕事があるんだろう?」
 朝までいてくれたらいいのに―――
 もう少し気が緩んでいたら言葉にしてしまったかもしれないけれど、そんな期待はあっけなく壊れた。
 「十分ほどしたら店に戻ります」
 「……ふうん」
 煙草を揉み消す長い指。
 いつも中途半端な長さで消してしまうのは、短くなった煙草が大きな手には持ちにくいせいなのだろうか。
 「おまえって、昔はそんなに煙草吸わなかったよな」
 覚えているのはまだ十河が生きていた頃。
 よほど虫の居所が悪そうな時でもなければ、羽成が煙草を口にしていたことはなかった。
 もしかして今も機嫌が悪いだけではないのかと、そんなことまで考えてドキリとしたけれど、
 「今でも仕事中はほとんど吸いません」
 当たり前のように返ってきた言葉は俺に安堵をもたらした。
 「じゃあ……今はオフってことなのか?」
 何気なく口に出した瞬間、呆れたような視線が飛んで、それが馬鹿な質問だったことに気付いたけれど。
 言い訳を並べるより先に問い返されてしまった。
 「仕事中に見えますか」
 「……っていうわけじゃないけど」
 以前は間違いなくこれが十河から与えられた役目の一つだったのに。
 「いつから仕事じゃなくなったんだよ」
 問いかけながら記憶を辿ってその境い目を探し始めたけれど、何日も遡らないうちに答えは返ってきた。
 「十河が死んだ日から、でしょうね」
 それはいつもと少しも変わらない素っ気ない口調だったけれど。
 耳に流れ込んだ瞬間にスッと気持ちの芯に染みて、今までずっとわだかまっていた何かを溶かすのを感じた。
 「……ふうん」
 気の抜けた返事をしたところまでは覚えていたけれど。
 その後はベッドに運ばれたことも羽成が部屋を出ていったことも気付かないほど、ただ深く眠り落ちた。
 
 
 
 
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