それから数日後の火曜日。
大学の帰りに吉留の事務所に寄ったが、ドアには鍵がかかっており、人の気配はなかった。
それでも言われた通りに中に入り、もう一度手順を確認してからダンボールを組み立て始めたが、ガムテープを切っている最中に受付のチャイムが鳴り、作業は中断された。
「吉留……のわけはないか」
入口を開け放してきたことを後悔しながらも、以前木沢から入口のモニターの操作を教わったことを思い出し、こっそりとスイッチを入れた。
小さな画面に映し出されたのは受付のデスク。
その前にスーツ姿の男が二人、何やらひそひそ話をしながら立っているのが見えた。
見た目は普通の会社員を装っているが、多分そうではないだろう。
暴力団とまではいかないにしても、関係者には違いない。
「……出るべきかな」
引き受ける仕事の大半がその筋の依頼だということは知っていた。
だが、殴り込みにきたのなら、最初から物騒なものをチラつかせてくるはず。
服装も立ち居振る舞いも一般の客と変わりない彼らが、真昼間から人目を引くようなことをするとは思えなかった。
だとすれば、吉留が不在でバイトの自分では何も分からないので日を改めてもらえないかと言えば済むのではないか。
そんな結論の下、一呼吸ついてから、わざと軍手をしたまま受付に顔を出した。
「えっと、お待たせしてすみません。あの、吉留先生は留守なんですが」
いかにも「学生なのでこんなことには慣れていません」という素振りで二人を迎えつつ、どういった用件なのかを尋ねると、背の高い男が子供に見せるような作り笑いを向けた。
「先生との約束でね、ちょっとうちが昔依頼した件の資料を探させてもらうことになっているんだが」
渡された名刺に記されていたのは、いかにも適当な横文字を並べただけの会社の名前。どんな業種なのかさえイメージできないのも意図的なのだろう。
石内と書かれた男の名もおそらくは偽名だろう。
「じゃあ、先生に電話して保管場所を確認してみますので―――」
とりあえず今日のところは引き取ってもらう方向に持っていかなければと時間稼ぎに出たが、相手はそれも予想の範囲だったらしく、隙など与えてはくれなかった。
「かけてみてもいいんだけどね、海外出張だから電話は繋がらないんじゃないかな? それに誰もいなかったら勝手に入っていいと言われて鍵も預かってるんだ」
男がポケットから取り出したのは見覚えのあるキーホルダー。
見た瞬間、それがいつも事務所のキーボックスに掛けられていた物だと判った。
つまり、本来なら吉留自身が所有している鍵だ。
「ええっと……失礼なんですが、アルバイトで来てるだけなので、どんな依頼主さんなのかよく分からなくて……カギが本物か確認してもいいですか?」
「ああ、もちろん」
俺を見下ろしていたのは自信に満ちた笑顔。
その表情が暗示していたとおり、受け取った鍵は当然のように事務所のドアを開けた。
「ええっと、じゃあ、資料でしたよね。引っ越しの手伝いをしてファイルの区分はだいたい分かってますから、どの件なのか教えていただければ探せると思うんですが」
そう申し出てみたが、男は「結構だ」と軽く断りを入れ、代わりに案件のファイルがどんな順序で棚に並べられているのかを尋ねた。
「日付順の棚と、ケースごとの棚がありますが、半分くらいはもう箱に入れてしまったのでこちらで探した方が早いんじゃないかって……」
なんとか主導権を戻そうとしたが、そんな策に引っかかる相手ではないらしい。
「一番古いのはどこだね?」
こちらの話など少しも聞かず、事務所の中を物色し始めた。
「古いものは先に送ってしまいました。今ここにあるのは2000年以降のものだけで――」
そう言えば探すのを諦めるかもしれないと思ったが、その瞬間、冷たい視線がこちらを射抜いた。
「具体的な事件名やタイトル、あるいは日付が入っていないファイルはなかったか?」
その言葉を聞いて思い当たったのは一冊だけ。
探しているものがそれだとすぐに気付いたが、辛うじて顔色を変えずに次の言葉を口にすることができた。
「そういうのがあったらすぐに分かると思いますけど……でも、そんな管理しにくい状態にしておくことは―――」
該当の棚を見ないように気を配りながら、どうか早く帰ってくれと願ったが、その瞬間、背後からもう片方の男の声が降った。
「おい、これじゃないか?」
俺でさえ目に留めたくらいだ。すぐに気付くだろうとは思っていたが、それにしてもこんな早くに見つかってしまうとは。
忌々しく思いながら振り返ったが、男が手にしていたのはこの事務所ではかなり浮いた印象の鮮やかなファイル―――つまり、俺が大学で使っているものだった。
「あ、それは自分ので……次回はここから作業するつもりで目印に挟んだんですけど」
私物なので返して欲しいと頼んだが、それは俺の目の前を通り過ぎ、背の高い男の手に渡された。
「法学部か」
目線の先はインデックスをめくったところ。
教授が専用のノートに書いてコピーした課題の一覧で、右隅に大学のロゴが入っていた。
「そうです。だから、少しでも勉強になればって思って、ここの手伝いに……」
男が挟み込まれたノートのチェックに集中している間に棚の整理を始めるふりをしてこっそり後ろに回り込もうとしたが、それを見透かしたように男の手の中のものがパタンと閉じられた。
「随分いい大学行ってるんだね。受験は大変だったんだろう?」
やはり子供に話すような口調。
侮られていることはこちらにとっては好都合だったが、それでも問題のものを隠す時間は与えられそうにない。
「いえ、付属校だったので……」
そう答えながらファイルを受け取った時、自分の手にズシリとのしかかった重みをはっきりと感じた。
その意味に思い当たるのと同時に安堵の気持ちが過ぎったが、何もなかったかのように言葉を続けた。
「大学の方が大変なくらいです。今日も帰ったら課題をやらないと……先生を当てにしてたんですけど、まだ戻らないんじゃ仕方ないなぁ」
暢気な独り言を聞き流し、男たちはまたファイルを探しはじめたが、すぐ傍で引っ越し作業をしている俺の存在が気になるらしく、小声で何か囁きあった後、書類の捜索を打ち切った。
「君は明日も引っ越し作業を?」
「そうですね、時間があれば。言われたものは全部箱詰めしないといけないので」
「送るのは業者が引取りにくる日だよな?」
「はい。何日なのかは聞いてないんですが」
予定を確認し、今夜のうちに隅々まで探し尽くすつもりなのだろう。
一人になった俺が怪しい行動を取らないようにという牽制なのか、部屋が一望できる棚の上に隠しカメラのようなものをセットすると、「ご苦労様」と薄ら笑いを浮かべて去っていった。
ここまでされては引っ越し作業以外のことをするわけにもいかない。
「いつになったら終わるのかなぁ。っていうか、先生はいつ帰ってくるんだろう」
時折り、わざと気の抜けた愚痴を吐きながら並んだ書籍類を詰めていく。
もちろんそれは先ほど仕掛けられた機械が音まで拾えると仮定してのことだ。
きちんと箱に入れたところでどうせ朝までには全部ひっくり返されてしまうに違いないけれど、たとえそうだとしても、とにかく全ての棚に目を通しておかなければと思い、ただひたすら作業を続けた。
結局、事務所を出たのは23時過ぎ。
だが、不審なものは見つからなかった。
―――まあ、いいか……
心の中で呟き、地下鉄の駅に急いだ。
何度か乗換えをし、奴らがつけていないことを確認した後、適当な駅で降りてタクシーを拾った。
自分の部屋に帰ったのはもうすぐ0時という時間。
シャワーも浴びず、急いで持ち帰ったファイルを広げ、中身を確認しながら「やっぱりそうか」と呟く。
事務所に置いてきた時には挟み込まれた紙が中で遊んでいたほどスカスカだったが、今は倍以上の厚さ。
そして、『ケーススタディー』という誰かが新しく作ったインデックスの後ろは全てあのファイルの中身になっていた。
「……参ったな」
これが俺のものだと知って吉留が挟み込んだのだろう。
次に俺が事務所を訪ねた時、おそらくはどこかで人の出入りを見張っていたであろう男たちが来ることも承知の上で。
「読まないわけにはいかなくなったってことか」
吉留にはおそらくもう連絡は取れないだろう。
あるいは、携帯さえ既に奴らの手の内にあって、かけてくる人間の身元までチェックしているかもしれない。
ただの直感に過ぎないというのに、嫌な胸騒ぎは大きくなるばかりで、今はただ吉留の身が最悪の状況でないことを祈るしかなかった。
半ば義務感でペラペラと一通り斜め読みしてみたが、最初にこれを開いた時と印象は変わらない。
全てが意味のない記号にしか見えなかった。
最初は殺人未遂事件の概要。次は養子縁組の話。その次は多分、殺人か殺人未遂事件の一部分。途中で切れていたので顛末は分からない。
それぞれの案件に登場する人物に振られたアルファベットに重複使用されているものはなく、三件の間に繋がりはなさそうに見える。
「……分かる奴には分かるんだろうけどな」
溜め息とともに一度それを閉じたけれど、そのままにしておくことが何だか無用心に思え、別のファイルを用意してそこに移した。
そして、教材として買った事例集から似たような内容を選ぶと、コンビニでコピー取り、吉留のところから持ち帰った時と同じくらいの厚さになるよう適当な枚数を挟み込んだ。
結局、翌日は吉留の事務所に行かなかった。
やはりそれとなく羽成に相談してみようと昼前に店に出向いたが、今日に限って不在だと言われて落胆した。
「戻りはあさっての午後よ」
片付けなければならない仕事があって少し早く来たという彼女以外は誰もいない部屋。
窓辺にはやわらかい陽射しが降り注いでいたが、そこに立って空を見上げても気持ちが軽くなることはなかった。
「どうしたの? 悩み事?」
隠しているつもりだったのに、あっさりと見抜かれて一瞬戸惑ったけれど。
「……悩みってほどのことじゃないんだけどね」
決めかねていることがあるのだと、当たり障りのない返事だけをして、彼女から目を逸らした。
「なあに? 将来のこととか?」
この後どうすべきなのかを考えているという意味なら、それも的外れではない。
そう思いながら曖昧な言葉を返した。
「……まあ、そんな感じかな」
紅茶を受け取りながら再び窓の外に目を遣ったが、気分はむしろ塞がる一方で、どうすれば解消できるのか分からない。
そんな時、何気なく投げかけられた言葉はまた一層俺の憂鬱を酷くした。
「そのわりには浮かない顔してるし、よそ見して話してるし。……っていうか、氷上君ていつもぜんぜん人の顔見てないけど」
自分でも思い当たる所はあった。
随分小さな頃から父親の顔を見るのが嫌いだった。
家も母親も自分も疎ましく思っているのがありありと分かる、そんな表情だったからだ。
見たくないものを避けてきた。ただそれだけのこと。
いつの間にかそれが染み付いてしまったのだろう。
「……俺、目合わせないかな」
「やだ、自覚ないの? もう、ぜんっぜん見てないわよ。はじめは女の人が苦手なのかと思ってたけど、社長も氷上君はどこを見ているのか分からないって言ってるから、いつもそうなんじゃない?」
気をつけないとダメよ、なんて軽く注意されながら、思い出したのは時折りクイッと俺の顔を正面に向ける羽成の手。
気に入らないのだろうということは薄々感じていたが、誰かに話すほどとは思わなかった。
「……羽成って、そんなことまで言うのか」
意外に思うよりもずっと強い、別の感情が湧く。
「そうね、氷上君のことはわりと話すんじゃないかな? マネージャーがやたらと話を振るせいもあるけど」
その後で彼女がクスッと笑った理由など想像に難くない。
「松崎さんも羽成が過保護だと思ってる?」
そうだとしてもあの態度では無理はない。
彼女がどこか俺を子供扱いするのもその辺りが原因なのかもしれないと思ったけれど。
「そうだなぁ……十河さんに頼まれたっていう理由だけだったら、そこまで世話を焼くのは変だよねって言っちゃったかもしれないけど」
そこで一度言葉を区切った後、彼女は不意に「ごめんね」と詫びを入れた。
それから、
「前に……その、社長室で見ちゃったの。だから、家族とか恋人とか、そういう相手なら仕方ないかなって」
あの時は動転していて気付かなかったけれど、後からあれが俺だと気付いたらしい。
「あの時は……――」
具合が悪くて立ちくらみしたところを支えられただけだったが、今さらそこだけを否定しても仕方ない。
言い淀んでいたら、彼女がまた少し笑った。
「正直言うとね、もっと前からなんとなくこうなるんじゃないかなって思ってたんだ」
その後、彼女が話し始めたのは十河が刺された日のこと。
俺は廊下で泣いていて、羽成が少し離れた場所に立っていて。
「私、ちょうどその時にお見舞いにきてたの。それでね」
十河に俺たちの様子を話すと、『本当にしょうがない奴だな』と言いながら笑ったのだという。
「『しょうがない奴』って、最初は氷上君のことだと思ってたの。でもね――」
今になって振り返ると、それは羽成のことだったという気がしてならないのだ、と。
そう言って彼女はまた少し微笑んだ。
何のわだかまりもない、そんな笑顔で。
「……松崎さんは羽成のことが好きなんだって思ってた」
少なくとも俺が彼女の所に預けられた時はまだ羽成に対しての気持ちは残っていたはず。
けれど。
「うん、そうだったんだけどね」
もう諦めたのだと告げた時も、特別未練があるようには見えなかった。
「選んだ相手が自分より若くてかわいい女の子だとちょっと悔しいけど……氷上君じゃ仕方ないし」
どういう意味なのか正確なところは分からなかったけれど、笑ってそれを言えるくらいにはケリがついたということなのだろう。
「だったら、いいけど」
正直なところ、そんなふうに気持ちを切り替えられる彼女が羨ましかった。
どうして自分はいつまでも終わったことを引き摺ってしまうのだろう。
この先どれくらいこんな気持ちでいればいいのだろう。
思わず溜め息が出そうになったけれど、彼女が何か言いたそうな顔でこちらを見ていることに気付き、憂鬱な気分ごとそれを飲み込んで言葉を続けた。
「あー、ええと……羽成とのこと……やっぱり柿田も気付いてるのかな」
あの男も見た目ほど能天気ではないから承知の上でとぼけているとしても不思議ではない。
他人からはどう見えるのだろうと思ったのだが、彼女の返事は曖昧なものだった。
「うーん……どうかなぁ。十河さんが社長に『氷上には手を出すな』って言ってたのを何度も聞いてるし、今でも『それだけはないだろう』って思ってそうな気もするんだけど」
そんな言葉の後は少し首をかしげただけだった。
「……だといいんだけど」
柿田に知られたからどうというわけではなかったが、職場で広まってしまうと社長として仕事がしにくいだろう。
第一、そんな醜聞は店の評判にも響くかもしれない。それに―――
あれこれとマイナス要素を拾い上げている途中、
「それで、社長から電話あったら『氷上君が社長あてに悩み相談にきた』って言っておく?」
「え……?」
不意に問われて動揺しながらも、辛うじて首を振った。
「いいよ。そんなことしてくれなくて」
それではさりげなく話すのが難しくなる。
「えー、どうして? 聞いたら喜ぶと思うけどなぁ。なんでダメなの?」
「駄目っていうか……講義が終わったら自分で電話するから」
とにかく羽成には言わないで欲しいと頼むと、「了解しました」と明るい声が返ってきた。
「じゃあ、俺、そろそろ大学に―――」
「いってらっしゃい。しっかり勉強するのよ」
まるで家族か何かのように世話を焼かれながら送り出されたけれど。
わずか数十分後に彼女が口を滑らせてしまうなんて思ってもみなかった。
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