運命とか、未来とか

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店を出た後は予定通りに大学へ行ったが、講義中も図書室でレポートを片付ける間も持ち帰ったファイルや胡散臭い男たちのことが気になって仕方なかった。

ただ単にあの男たちにあれを奪われたくなかっただけなのか。
それとも、最初から俺に渡すつもりだったのか―――

「……いや、違うな」
機会はいくらでもあったのだから、預けようと思えばいつでもできたはず。
急に状況が変わって、とりあえず安全な場所に持ち出すことを優先したと考えるのが自然だろう。
だとすれば、あれ自体は俺には関係のないもので、何かあった場合も必死に守る必要はない。
このまま他人の手の届かない場所に保管して忘れてしまえばいい。
一度はそう結論を出したのに、しばらくするとまた思い出してしまう。
「……どうせ何もできないくせに、余計なことに首を突っ込むなって」
巻き込まれるようなことがあればまた羽成に迷惑をかけるのだからと自分に言い聞かせたが、心の一角に根を下ろしたそれは、いつまで経っても「他人事」として忘れることを許さなかった。

まるで宛て先不明の荷物をうっかり預かってしまったようだ、と思う。
迷いを抱えたまま夜まで図書室で過ごし、食事を済ませてマンションに戻ったのは九時を回った頃。
全てを忘れて眠ってしまうには早すぎる時刻であることに溜め息をつきながらエレベーターを降り、ゆっくりと廊下を歩いて部屋のドアを開けると、玄関に自分のものではない靴が並んでいることに気付いた。
「……戻りは明後日じゃなかったのか?」
そんな呟きとは裏腹に、湧き上がる安堵は隠せない。逸る気持ちを抑えることができず、勢いよくリビングのドアを開けた。
お帰りなさいとか、遅かったなとか、そんな言葉は期待していなかったけれど。
「飲んできたわりには早かったですね」
「……いきなり厭味かよ」
それでも、ソファの真ん中で足を組んで座っている羽成の顔を見ているとフッと体の力が抜けていくのを感じた。
「おまえこそ……仕事はどうしたんだ?」
吉留のことをどうやって話そうかと考えながら世間話のつもりで尋ねたが、それについての答えはなく、代わりにここへきた用件が告げられた。
「相談があると聞きましたが」
「え……?」
気が抜けかけていたところへ予想外の問いを投げられ、あからさまに固まった。
聞いた相手は当然彼女だろうけど。
羽成には言わない約束だったはずなのに―――
だが、今さらどうしようもない。
とりあえず当たり障りのない話でこの場をごまかすことも考えたが、こうしっかりと顔を見られていては取り繕うことなどできそうになかった。
「落ち着いて話したいなら先に着替えてきてください。時間はありますので」
そんなふうにゆったり構えられると、却って逃げ道を塞がれたような気分になる。
「いや、そんなにたいした話じゃないんだけど……煙草もらっていいか?」
差し出された箱から一本抜き取り、火をつけてから深呼吸代わりに煙を吐き出した。頭の中で必要最低限の情報だけを拾い上げたのは、多分、羽成には深く関わって欲しくないという気持ちがあったからだろう。
「吉留が事務所を引き払うっていうから、引越しの手伝いに行ってるんだけど……」
そんな出だしで、胡散臭い男たちの言動や、吉留がいつも携帯していた鍵を持っていたことは伝えたが、自分のファイルに挟み込まれた資料ことだけは最後まで口に出さなかった。
一段落つくまで羽成は言葉を挟むことなく聞いていたけれど、その顔にはわずかな驚きの色さえ浮かぶことはなかった。
返してきたのも「気になるなら調べてみますが」という短い確認だけ。
どう考えても吉留に何かあったのは間違いないというのに、まるで無関心ともいえる態度だった。
「……おまえは気にならないってことか」
「別に」
表情一つ変えない心情を量りかね、もう一つ深い溜め息をつく。
だが、羽成がこの件に興味を持たないなら、それはそれで好都合だと思い直した。
「最近、吉留に変わったところはなかったか?」
「いいえ」
羽成が最後に吉留と話したのは、俺が次回の手伝いについての伝言を受け取ったあの日。
その時は普段と少しも変わらなかったという。
「その数日前なら、追加で金の工面が必要になったことは漏らしていましたが」
「金?」
「木沢の件だと思います」
「ああ……そうか」
だとすれば、少なくとも木沢は生きているということだが、今はそれを手放しで喜ぶ余裕はなかった。
「じゃあ、金のトラブルで……って線もありか」
吉留を拘束して身内に金を要求するということはありそうだが、だとすると、ファイルに入れられていた資料の関連性が分からない。
「支払いの目処が立つまでの間、ひとまず身を隠したのでは?」
「そうかもな」
曖昧に頷きながら、引っかかっている事柄を少しずつ整理する。
もし、羽成の言うとおりなら、連中が持っていた鍵もわざと向こうの手に渡るようにしたということだ。
自宅かホテルか、奴らが待ち伏せしそうな場所に持ち物だけを置き去りにし、いかにも少し外出しているように見せかけて逃亡する。
逃げられたと分かっても事務所の鍵を手に入れたことで追跡は緩められる可能性がある。
つまり、時間稼ぎのための餌だ。
「じゃあ、連中が狙ってたものは盗まれても構わなかったってことなのか?」
「重要なものでないなら、盗ませるまでもなく最初から向こうに渡していたでしょうね」
男たちが鍵を持ってたのにもかかわらず事務所に入らなかったのもそのあたりが理由ではないかという。
つまり、侵入者がドアを開けたら作動する爆弾か何かを仕掛けている可能性を考え、誰かが開けるまで待っていたのではないかということだ。
「いくらなんでもそんな大袈裟な……」
それでは間違いなく警察沙汰になる。
温厚な吉留がそんな手段を選ぶことも考えにくい。
何よりも、奪われるくらいなら事務所ごと吹っ飛ばしたほうがいいと思うほど重要なものなど、俺には見当もつかなかった。
頭に浮かんだことをそのまま伝えたが、羽成は全てをあっさりと否定した。
「表沙汰にできないこともたくさんあったはずですから、証拠隠滅のためならそれくらいのことはするのでは?」
言われてみれば、ファイルを箱詰めするだけの作業でさえ、一般の業者には手伝わせたくないといった素振りだった。
「まともな法律事務所ではない」なんて台詞は何度も聞いていたが、まさかそこまでとは思わなかった。
「……だったら、あのヤクザまがいの連中は適当な言い訳で追い返すべきだったってことか」
この先吉留の身に何か起こるようなことがあれば、それは自分の責任かもしれない。
嫌な胸騒ぎもするはずだな、と重い気分になったが、羽成はやはり「心配する必要はない」と軽く流した。
「こちらの推測通り吉留が鍵を餌にしたのだとするなら、対象物は既に事務所にはないと考えるのが妥当でしょう」
自分の身柄の安全を確保するために他人を売るような性格ではない、と。
そんな言葉に頷きながら、吉留に関してきわめて表面的なことしか知らない自分にできることなど無いに等しいと気付かされた。

結局、吉留の行方については羽成に任せ、俺は事務所の引っ越しの荷造りだけを済ませることになった。
もっともそれも「途中で放棄すれば却って怪しまれるだろう」という羽成の意見に従っただけ。
自分の頭では良い策など思い浮かばなかった。
「しばらく様子を見て、必要だと判断したらこちらで詳しい調査をしますので」
「分かった」
羽成に全て任せておけばいい。
そう思う一方で、得体の知れない胸騒ぎがじわじわと自分の内部を侵食していくのを感じた。
この不安は何だろう。
根拠はないのに、自分でも分からない何かが胸の奥にわだかまる。
吉留のことは確かに気になっているけれど、それだけではない何かが――


「真意」
突然降った声に、全ての思考が中断した。
それまでグルグル考え込んでいたこともすっかり吹き飛んだその後は、ただやけに大きな音で自分の鼓動が鳴り響いた。
「……な……んだよ?」
店で呼ばれた時も妙なくすぐったさはあったが、二人きりの時に呼ばれるのはそれとはまた違う。
こんな状況でさえ、甘い感情を抱いてしまう自分を不謹慎に思いながらも、血は勝手に頭に上っていく。
「大丈夫ですか」
「……別に……おまえこそ仕事残ってるんだろう? さっさと戻れよ。手間を取らせて悪かったな」
無意識のうちに早口になり、それが余計に顔を火照らせる。
湧き上がる熱を隠しきれず、その後は逃げるようにバスルームに駆け込んだ。


無意味な熱と、吉留のことと。
頭から熱いシャワーを浴び、全てが静まってからリビングに戻ったのは十五分ほど経った頃。
疾うに帰ったと思っていたのに、羽成はまだそこで長い足を邪魔そうに組み替えながら電話をしていた。
相手は柿田なのだろう。
しばらく仕事の確認をした後、急ぎの用事がなければ今日はこのまま俺のところに泊まるから、スケジュールに変更があればメールを入れておくようにと告げて携帯を置いた。
「なんだよ……俺はそんなに危なっかしいか? それともおまえの中で俺は十五の時のままなのか?」
世話を焼きすぎだろうと言ってみたけれど、羽成は煙草を揉み消しながら少し面倒くさそうに答えた。
「もう子供だとは思っていません」
そんな言葉と共にポケットから取り出されたライターがテーブルに投げられ、無造作にシャツのボタンを外す。
せっかく落ち着きかけた心臓がまた妙な音を立て、無意識のうちに視線を逸らすと目の前でフッと笑いを含んだ吐息が漏れた。
「……なんだよ」
わざと不機嫌を装って寝室に逃げ込もうとしたが、いつの間にか立ち上がっていた羽成に腕を掴まれた。
「一人で大丈夫ですか?」
心配など必要ないと言う代わりにその手を振り払おうとしたけれど、逆にグッと掴み直されてしまった。
「聞かれたことに対する返事は口でしてください」
無遠慮な手が俺の顎にかかり、顔を上げさせる。
「……よそ見してるのがそんなに気に障るのか?」
羽成の返事は「いいえ」だったけれど。
穏やかな口調とは裏腹に、その腕は乱暴に俺を抱きすくめた。


反射的に体を捩って抜け出そうとしたが、もがくほどに強く締め付けられ、そのままソファに押し倒された。
抵抗しようとしたせいで呼吸が上がった唇は今夜に限って塞がれることなく、その代わりのように首筋にわずかな痛みが走った。
「……や……めろっ」
今までは肌に痕を残したことなどなかったのに。
唇はまた少し離れた場所に同じ痛みを与える。
最初の印は肩に近い位置で、襟のあるシャツを着ていれば見えることもないだろうけど。
「やめろって……!」
二つ目は咽喉よりも少し下、三つ目はそれよりも少し上。
「誰かに見られたら……んっ……」
言葉を奪うために塞がれた唇は、その後長い沈黙を作った。
呼吸さえままならないような激しい行為に溺れながら。
明日、何を着ればこの痕を隠せるのだろう、と。
わずかに残った理性でそんなことを考えた。



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