運命とか、未来とか

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『心配は無用だ』と言われて、それを鵜呑みにできるならどんなにいいだろう。
眠りかけても不安と焦燥は頭のどこかにこびりついて離れない。
明日、もう一度吉留の事務所に行こう。
自分の目で今どんな状態かを確かめればいくらか落ち着くかもしれない。
あとは持ち帰ったファイルにもう一度目を通して、わずかでも何か読み取れるものがあれば、燻りながら絡まり続けている気持ちも多少は楽になるかもしれない。
心の奥底では今でも面倒なことには関わりたくないと思っていたけれど、どうしてもこのまま放り出す気にはなれず、夢の中でさえそんなことを考え続けた。


気がつくと窓の外に見える空は明け方の色に染まっていて、それを認識した途端に現実が降りかかった。
「……もう朝か」
覚醒とともに息苦しさが圧しかかる。
眠りが浅かったせいなのか、それとも昨夜の行為のせいなのか、時間的には十分眠ったはずなのに身体は重くベッドに沈んでいた。

時計は六時を回ったところ。
だが、羽成の姿がどこにも見えない。
自分のマンションに戻って着替えてから出勤するにしても早すぎる時間だった。
わけもなく頭を過ぎったのは最後に十河と過ごした夜のこと。
あの翌朝も広い部屋に一人きりで目覚めた。
ちょうど空もこんな色で、煙草の匂いが少しだけ残っていた。
あの時はまだ、二度と会えなくなるなんて思いもしないで。
ただ、いつもと変わりない朝だと思っていた―――

「アイツ……本当に帰ったのか?」
ゴミ箱に投げ捨てられた煙草の箱を見て、コンビニまで買いに出ただけならいいと思ったけれど。
不意に、ドクン、と嫌な音で心臓が鳴った瞬間、居ても立ってもいられなくなって携帯に手を伸ばした。
不安で不安でどうしようもなくて、コール音の間は呼吸もままならなかったけれど。
『どうかしましたか?』
電話はあっけなく繋がって、俺はそのまま床に崩れ落ちた。
「……起きたら、いないから―――」
咽喉が渇いてまともに声が出ず、掠れた音でそれだけ答えるのが精一杯だった。
どうしてこんなことをしているのだろう。
自分でもそう思ったけれど。
『そのまま部屋にいて下さい』
呆れた様子もなく、それだけ言うと電話は切れた。


しばらくの間、暗くなった携帯の画面を呆然と見つめていた。
「大丈夫ですか?」
羽成が戻ってきた時もまだ俺は携帯を握り締めたまま床の上に座り込んでいたけれど。
「……用事、あったんじゃないのか?」
辛うじてそんな言葉だけを返した。
こんなに朝早くから行こうとしていた場所がどこなのかは分からないけれど、羽成が着ているスーツは仕事中とは違い、わざと地味で目立たないものを選んだように見えた。
「今日でなくても構いませんので」
そう言いながら俺の手から携帯を取り上げてサイドテーブルに置く。
それから、こちらを見下ろしてかすかに笑うと、静かに俺を抱き上げてベッドに戻し、おもむろにまた首筋に痕を残した。
「待てよ……そういうつもりで電話したわけじゃ―――」
当然のように床に脱ぎ捨てられていく上着とネクタイを見ながら、慌てて弁解して。
その間にも頭の片隅で、何のために電話などしたのだろうと自分に問いかけてみたけれど。
「だったら、その恰好で出迎えるべきではなかったのでは?」
胸元にチラリと投げられた視線に我に返る。
自分が何も着ていないことではなく、それさえすっかり忘れるほど動転していたことに頬が染まった。
「……何笑ってるんだよ」
「別に」
それ以上の言葉を返すこともなく、深いキスを落とす。
唇に広がる柔らかい感触と、それに反して強く押し付けられる身体と。
全てをその手に預けながら、自分はただこのまま時間を止めておきたかっただけなのだとようやく気付く。
まだ十河が生きていた頃、こんな日々が永遠に続くと信じていたように、この先もずっと何気なく繰り返されるのだと。
何も変わらず、何十年も過ぎていくのだ……と。
ただ、そう思いたかった。
「―――羽成」
「何ですか?」
穏やかに向けられる視線からわざと目を逸らして。
「……いつまでこうしていられる?」
曖昧な言葉で問う未来。
それでも、静かに見下ろす男はちゃんと、この後の予定を聞かれているわけでないことを承知していた。
「先のことは分かりません」
目の前に続く時間などまるでどうでもいいように、返されたのは素っ気ない口調。
どんな返事を望んでいるのかくらい羽成だって分かっているはずなのに。
「……サービス精神のないヤツだな」
何故だか無性にやるせなくて。
それを隠すために見下ろしている視線から顔を背けた。


明日のことさえぼんやりと霞んで、まともに見えるものは何一つない。
そんな感覚の中。
柔らかく肌に押し当てられる唇に酔いながら、一度抱かれた後、まだどこかに不安を残したままその身体を手放した。
去り際、ベッドに寝転んで煙を吐いている俺の口から煙草を取り上げ、「吸い過ぎだ」と言って勝手に揉み消した羽成は、その後、まるで子供にするようにそっと毛布を掛け直して少し笑った。
それから、「何も予定がなければ七時に店に来るように」と言い残して出ていった。
どうせ暇だろうと思われていることくらい分かっていたけれど。
「……返事くらい聞いていけよ。っていうか、やっぱり俺のこと子供だと思ってるだろ」
悔しいような、くすぐったいような。
何かを錯覚してしまいそうなほど甘い感情とは別の場所には、今でも薄暗く燻るものが潜んでいる。
だが、それを洗い流そうとして熱いシャワーを浴びた時、ふっと過ぎっていったのは好奇心にも似た感情だった。
まだ何か、見つけなければならないものがある―――
その後は何故か気持ちが逸って。
引っかかっているものの正体を突き止めるため、手早く着替えて靴を履いた。



吉留の事務所の前に立った時、最初に思い描いたのは、ファイルを詰め込んだダンボールがことごとくひっくり返され、辺りに中身が散乱している様子だった。
だが、いざドアを開けてみると、そこに広がっていたのは先日ここを出た時と少しも変わらない風景。
よく見ると積まれていた箱がわずかに移動しているようだったが、それ以外は気になる点もない。
ガムテープで貼られた上部を確認してみたが箱を開けた形跡もなく、男たちが仕掛けていたカメラも見当たらなかった。

―――……どういうことだ?

一瞬混乱しかけたが、落ち着いて整理すればそう難しいことでもない。
手をつけずに引き上げたことからしても、目的の物を別の場所で手に入れたか、あるいは少なくともここにはないということが判明したのだろう。
そんな結論に行き当たった時にはさすがにホッとしたが、隠しカメラが存在する可能性も考慮し、その後も何もなかったように残りの荷作りをすると、指定された住所に送る手配を済ませて事務所を後にした。


「……後はあのファイルだけか」
できれば読み返したくないという気持ちはまだどこかにあったが、他に手がかりになるものがない以上仕方ない。
半ばうわの空で講義を終えた後、課題のレポートを提出してから図書館に行き、ほとんど人が来ない場所にあるテーブルにカムフラージュのための本を積み上げた。
背面は壁。入口は二箇所とも視界に入る。
これなら人が近づいてきた時点で気付くし、何かあればさりげなくファイルを隠すこともできる。
「まあ、ここまで用心するような内容でもなさそうだけど」
周囲への警戒はしつつも、一行一行じっくり目を通した。
登場人物は母親、その子供、養子先の夫婦。
父親は認知していなかったということなのか、これを見る限り養子縁組の話に関わった形跡がない。
だが、随分後付けで親子関係の証明をしたらしい表記があった。
「DNA鑑定か何かなんだろうな」
養子に出した時点では子供がいること自体を知らなかったのか、あるいは父親である男がわけありで、子供を認知できない立場だったのか。
とにかく、生まれてからしばらくは母子二人暮らし。その後、どうしても手放さなければならない理由ができて養子に出した。
どこにでもありそうな話だ。何度読み返してもたいした内容じゃない。
「あいつらが探していた資料がこんなものだとは思えないな」
こんな内容では忘備録の代わりにもならない。
表面的に見えている文字以外に何かあるのではないかということも考え、陽に透かすのはもちろん、わざわざトイレまで行ってライターで軽くあぶってみたりもしたが、何かが浮き出るようなことはなかった。
「俺、絶対探偵には向いてないな」
それよりも、吉留がこんな何の役にも立ちそうにないものを事務所に置いていた理由はなんだろう。
引っかかったことと言えば、古びてインクも紙もわずかに変色しかけた手書きのレポートの最終ページに吉留の署名と捺印があったことと、隠しポケットのようなものに切り抜いた写真が入っていたことくらいだった。
「とは言っても、どう見ても若い頃の吉留だしな」
何の変哲もない上半身正面向きの写真。インクでもついたのか、左上の角だけ三角に赤くなっていた。
吉留が少し困ったような笑みでも浮かべていなければ、4枚綴りの証明写真の残りだと思っただろう。
だが、よく見ると吉留の腕にはまるでエスコートでもしているかのように女の指がかかっていた。
目を引いたのはその手に填められていたリング。
写真そのものが小さくてよく分からないが、ルビーかガーネットのような赤い石でその周りを凝った装飾が囲んでいた。
「これをわざわざ隠して挟み込んだことには何か意味があるんだろうけど」
吉留の女だったとしても随分昔のものだ。
身元を特定するのは難しいだろう。
「十河だったら判ったかもしれないけどな」
こんな時に木沢が居れば、情報源としてはもちろん、吉留の安全面を考慮するのにも一番頼りになったのだが、今の時点で連絡が取れるとは思えない。
「……後は羽成と柿田あたりか」
羽成はともかく、柿田には迂闊に尋ねるわけにいかないだろう。
何にしても早々に行き詰ったことに溜め息をつきながら、時計に目をやるともう夕方の域にさしかかっていた。
羽成との約束は七時。
まさか借りた本や書きかけのレポートを店に持っていくわけにもいかないだろうと思い、面倒だったが一旦家に帰ることにした。
ただ、吉留のファイルだけはどうしても持ち帰る気にならず、途中にある銀行の貸金庫に預けた。



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