運命とか、未来とか

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店に着いたのは五時過ぎ。
レポート用の本を持ってきていたので二時間くらいは軽く潰せるだろうと思いながら裏口へ回ると、敷地の隅に停められていた黒塗りの車に乗り込む羽成の姿が目に入った。
開けられたドアの向こうには恰幅のいい男が座っていて、何か話しながら頷いている。
こんな世界を覗いたことのない頃なら、どこかの社長とでも思ったかもしれない。けれど、今はもうそいつがまともな稼業でないことくらい容易く判別できた。
白い手袋をした運転手が無表情にハンドルを切る。
スッと大通りに消えていく車を陰から見送りながら、また言い様のない不安に襲われた。

そのまま帰ろうかとも思ったが、一応事務所には顔を出した。
開店前の準備があるとかでマネージャー以下のスタッフは出払っており、フロアにいたのは松崎さん一人だけ。
「早かったのね。社長はついさっき出かけちゃったの。『夕食はまた今度』って……」
その後、急な客だったのだと付け足したのは俺への気遣いなのだろう。
「それは別にいいけど」
羽成を連れ出した男の顔を思い浮かべながら、また負の感情が湧いてくる。
態度に出ないうちにここを離れようと踵を返したが、彼女に引き止められてしまった。
「昨日はごめんなさい」
唐突な謝罪に一瞬眉を寄せて、
「何が?」
ドアに手をかけたまま問い返すと、「なあんだ」と気が抜けたような声が漏れた。
「悩み相談のこと。社長には内緒っていう約束だったでしょう?」
そこまで言われてやっと思い出したけれど。
「……ああ、それか」
過ぎてしまえば口止めするほどのことでもなくて、彼女に申し訳ない気持ちになった。
「そんなに気にしてもらうほどのことじゃないよ」
自分が彼女の立場なら『人騒がせな』と思っただろう。
けれど、本当にホッとしたように笑顔を見せて、片隅にある食器棚に手を伸ばした。
「よかった。じゃあ、コーヒー入れるからそこに座って」
なぜか断ることができなくて、言われたとおりソファに腰を下ろした。
静かな事務所。
柿田たちが戻ってくる気配はない。
「……ね、松崎さん。今度は絶対に言わないで欲しいんだけど」
そんな前置きで尋ねたのは今朝の羽成のスケジュール。
早朝の外出。
普段とは違うスーツ。
どこへ行こうとしていたのかどうしても知りたかった。
「社長の? えっと……朝っていうか、11時30分の昼食会が最初の予定。ここを出たのは11時過ぎくらいだったかな」
「それより早い予定はなかったってこと?」
「うん。少なくとも会社の用事ではね」
こういう職業だから取引先と会うのも世間とはズレた時間帯なのかもしれないと思ったのだが、やはりそういうことではないらしい。
吉留の件か、あるいは―――
「なあに? 氷上君たら険しい顔して。もしかして浮気されちゃった?」
「え? いや、そういうんじゃないけど」
いっそのことそんなつまらない理由であって欲しいと思いながら顔を上げると、彼女が困ったような顔で笑っていた。
「だよねー。やぁだ、私ったら今頃気付いちゃった」
そんな言葉と同時に、いきなり俺のシャツを掴んでハイネックの一番上までジッパーを引き上げた。
「こういうのはちゃんと隠してね」
目の毒だからと柔らかい声で笑いながら、カップが置かれたワゴンの前に戻った。
「でも、なんか意外。社長でもそういうことするのね」
コーヒーを注ぐ彼女の背中を見ながら、深く息を吐く。
今さらとぼけるのも白々しいと思ったが、他に返事のしようもなくて曖昧に言葉を濁した。
「なんで羽成だって思うわけ?」
「だって、夕べ氷上君ちに泊まったってこと知ってるし。なのに、『実は他の人』とか言われたらそっちの方がびっくりしちゃう」
スケジュールを把握している人間にこの手の隠し事ができると思うのは間違っているのかもしれないけれど、何もかも見通されているのは正直居心地が悪い。
「それにしても、こーんなしっかり見えちゃうところにつけるってどうなの?」
いくら柿田でもさすがにこれは気付くだろうと言って笑いながら、コーヒーの入ったカップを差し出す。
彼女の態度に棘や含みは感じられなかったが、だからといって開き直ることもできず、少し視線を外したままそれを受け取った。
「これって『もう隠すつもりはない』ってことなのかなぁ」
そんなことを正面から問われても返す言葉がない。
「……そういうわけじゃ……」
「あー、そう? まあ、社長が気にしなくても氷上君には将来があるものね」
「俺は別に」
答えながら、また同じ場所に行き当たる。
自分の将来なんてどうでもいい。
けれど。
「……松崎さん」
「なあに?」
「五年後、羽成はまだ俺の側にいると思う?」
自分で吐き出した言葉が不安を煽る。
同じことを誰かに問われたら、多分俺は『NO』と答えるだろう。
「うーん……社長に何もなければこのままなんじゃない?」
さらりと告げた明るい声が自分の中を素通りしていく。
けれど、彼女だって分かっているはず。
「俺が聞きたいのはそこなんだけど」
「え……あー……そっか、そうなのね」
妙な間。
ひどく困ったような笑顔。
「確かにちょっと問題かなって思う取引先もいくつかあるけど……」
店の電話はもちろん、羽成個人の携帯も一番多く取るのは彼女だ。
昔の繋がりがどの程度残っているのかくらい承知している。
「でも、前みたいなことはないし、そういう方面の仕事は切る方向だってマネージャーも言ってたし、五年後はすっかり普通の社長さんになってるんじゃないかな?」
過去の関係が薄れつつあるという言葉が嘘だとは思わない。
それなのに「本当よ」と付け足された声はやけに空しく響いた。
「……だったらいいけど」

湯気のなくなったコーヒー。
ミルクも砂糖も入れていないのにそれをかき混ぜる彼女の仕草。
羽成に五年後はあると思うか、と。
ストレートに問えなかった俺の気持ちが分かるのだろう。
十河が死んだ時も、羽成があの世界を離れることを願っていた彼女には酷な質問だったかもしれない。
「なんか暗くなっちゃったね。でも、きっと大丈夫よ。あとは氷上君が危なっかしいことをしなければいいんじゃないかな?」
そんな励ましにも素直に頷くことができないまま。
気付かれないようにそっと溜め息を飲み込んだ。

その後はただ無言でコーヒーをすすって時間を潰す。
多分彼女も同じ気持ちだったのだろう。
廊下の方からどやどやと声がしてドアが開くとホッとしたように笑顔を見せた。
「なんだよ、氷上。また来たのか。おまえ大学で何やってんだ? 勉強道具らしいもんってそれ一冊きりかよ?」
能天気な声に空気が和らぐ。
こちらの様子など察することもなく、柿田はテーブルの隅に置かれていた本に目をやるとタイトルを読みながら眉を寄せた。
「こんなもん読まされて退屈じゃねえのか?」
「中味は意外と面白いよ」
お手上げと言わんばかりに肩をすくめる柿田に少し笑いながら、ポケットを探る。取り出したキーホルダーや財布を本の上に乗せている途中で松崎さんがコホンと咳払いをした。
「氷上君、ライターなら煙草と一緒にそこの灰皿の陰にあるみたいだけど」
何を探しているのかまで分かるのかと苦笑しながら、言われた通りに手を伸ばしたけれど。
「ごねんね。『吸い過ぎだから止めるように』って言われちゃったんだよね」
そんな言葉とともに煙草はスッと取り上げられてしまった。
「それって―――」
羽成が言っていたのか、と問う前に柿田が片眉を吊り上げた。
「社長の過保護っぷり、どうにかならんのか?」
柿田とも何度もこんな話をしたけれど、羽成は相変わらず。
「直接羽成に言えよ」
俺が何を言ってもまったく態度を改めないのだと愚痴めいた言い訳をしてみたが、柿田は最後まで聞かずに首を振った。
「おまえが言って聞かないことを俺が頼んでどうにかなると思うか?」
その後はパリパリと頭をかきながら、「まったく」と呟いて自分のデスクに腰を下ろした。
ずっと一緒に仕事をしている立場としては複雑なのだろう。
それは分からなくもないけれど。
まだ苦い横顔を見ながらカップを手に取った時、松崎さんのデスクで内線が鳴った。店もそろそろ忙しくなる時間帯。いつまでもここにいるのは気が引けた。
「……じゃあ、俺はこれで」
テーブルに置かれた自分の持ち物をまたポケットにしまいこもうとして手を伸ばしたが、松崎さんのものではない女の手がそれを遮ってコーヒーカップを取り上げた。
「もう冷めちゃいましたよね。今、入れ直してますからしばらくお待ちください」
顔を上げると見かけない事務員が立っていた。
その後ろ姿を眺めながら首を傾げると、「新しく入ったバイトの子なの」と説明があった。
「ふうん」
人を増やすほど忙しいなら、余計に長居はしたくない。
だが、そんな気持ちを察することさえなく、バイトの女はなみなみとコーヒーを注いだカップを運んできた。
「お待たせしました」
カチャカチャと無駄な音をさせてソーサーを持ち上げる。その手つきもなんだか危なっかしくて見ていられない。
まだ仕事に慣れていないからなのか、もともと不器用な性質なのか――
そんなことを思った矢先にまた電話が鳴り、「あ」という小さな声と共に目の前で茶色い液体が波打った。
「きゃあっ!!」
止めることも避けることもできないまま、肩と腕に熱が降る。
それから、肌にベッタリと張り付くシャツの不快感。
こぼれたのはそれほどの量でもなく、熱さもすぐに消えてなくなったが、染みはその後も遠慮なく衣服に広がっていった。
「すみませんっ、ホントにすみませんっ! すぐに洗ってきますから――」
コーヒーがかかったことよりも彼女の慌てぶりに面食らいながら、言われるままにシャツを脱ぎかけたけれど。
「ちょっと待て、氷上。それはなんの病気だ?」
視線を移すと柿田が思い切り眉を寄せていて、さすがに手を止めざるを得なかった。
「……別に」
見つかるにしても柿田と二人の時であって欲しかったと思いながら、言い訳を考え始めたけれど。
「はいはい、マネージャー。本当は分かってるくせにわざとボケなくていいですからね。向こうに着替えがあるから氷上君は社長室へどうぞ」
目配せと共に松崎さんに背中を押された。
そんな会話の間もコーヒーをこぼした女は少し怯えたような顔で濡れた床を拭いていたが、なぜか時折りチラチラとテーブルの上に視線を投げていて、それがやけに気になった。



「はい、これに着替えて。社長のだから大きいと思うけど」
社長室の片隅。
渡されたシャツのクリーニングのビニールを破りながら部屋を見回す。
「下は大丈夫?」
「腕と肩だけだから」
隅々まできちんと整えられた本棚には沢山の書籍といくつかのファイル。
その一つを手にとってペラペラめくると、中身は新聞や雑誌の切り抜きやそれに関連した写真などが貼られていた。
「それ、全部お店の記事なのよ。先々代の社長のお父さんが保管していた分もあるとかで、すごく古いのまでちゃんと残ってるのよ」
昔は今よりもずっと特別な場所だったのだろう。
写真に写っているのはいかにも紳士といった風情の客と、ホステスという呼び名が似合わないほど品のある女性ばかり。
「……あ、これ」
何気なく目を留めたのはスーツ姿の女性。
その顔を見て彼女が誰なのかすぐに分かった。
「ああ、そうなの。私の叔母よ」
前に話したよね、と向けられた笑顔が写真と重なる。
「よく似てる」
だが、腰を落ち着けてそれを見ようと思ったのは、二人がそっくりであることが理由ではなく、書棚に戻すつもりでファイルを持ち直した時、自然と開いたページが目に留まったからだ。
はじめは誰かが何度も見た場所が開きやすくなっているのだろうと思ったが、実際は別の理由があることもすぐに分かった。
「松崎さん、ここに何の記事があったか知ってる?」
カッターで綺麗に切り取られたのは一ページだけ。
それに意味がないはずはない。
「あー、それは先々代の時にここで起きた事件の新聞記事だったかな。そこだけギザギザだったから後で綺麗に切り取ったんだけど」
「何で破いたの?」
店にとってマイナスイメージになるものは消去したのだろうと予想したのだが、事情はもっと個人的で複雑なものだった。
「十河社長がやったみたい。私もそんなに詳しいわけじゃないんだけど、その記事って言うのがね……」
十河が昔好きだった女とその子供の死亡記事だ、と。
そう言われた時、外に聞こえそうなほどの音で心臓が鳴った。
「その辺りのことに詳しい人っていない? できれば当時のことも教えてもらいたいんだけど」
だいたいの日付が分かるのだから、図書館にでも行けば該当の記事を探すのはそう難しくはないだろう。
けれど、俺が知りたいのはそんなことじゃない。
「うーん……今働いてるのは若い人ばっかりだからなぁ。叔母さんだったら少しくらい分かるかもしれないけど」
叔母が働いていたのはちょうどその事件の頃。
彼女に会えば詳細を聞くことができるかもしれないという期待に自分でも不思議なほど気持ちが逸った。
いや、期待というよりも焦燥感と言った方が的確かもしれない。
「紹介してもらえないかな。できれば羽成に内緒で」
十河が大事にしていた店だからもっといろいろな事を知りたいけれど、羽成に言うとまた無理矢理時間を作って自ら案内をしそうだから……と。
そんなわざとらしい言い訳を並べると、彼女は「仕方ないなぁ」と笑った。
「叔母さん、今は引っ越したばっかりで忙しいみたいだから、すぐってわけにはいかないと思うけど、予定だけでも早めに聞いておくね」
「ありがとう。助かるよ」
「昨日、うっかり口を滑らせたお詫びの代わりだから」
笑顔で社長室を出る彼女を見送った後、一人残された俺はスクラップブックを眺めながら洗濯が終わるまでの時間を潰した。


松崎さんがシャツを持って戻ってきた時、外はもうすっかり暗くなっていた。
「遅くなってごめんなさい。なんだかあの子、やけに丁寧にアイロンかけてて……」
第一印象の通り、あまり要領は良くないのだろう。
いくらバイトでも、もう少し機転の利く子を雇えばいいのにと思ったが、俺が口を出すようなことでもない。
「彼女、あんまり器用じゃなさそうだけど、仕事大丈夫なのか?」
やんわりとそれだけ告げると、彼女もふうっと息を吐いた。
「そんな不安になるようなこと言わないでよ」
着替えて帰るつもりでいたのに、アイロンをかけてきちんと畳まれてたシャツはなぜか紙袋の中。
「じゃあ、気をつけてね」
当たり前のようにそう言われてしまうと、畳んであるものをわざわざ広げる気にもなれず、
「じゃあ、また―――」
羽成のシャツを着たまま事務室に戻ると、置きっぱなしにしていた本や煙草の回収だけして家路についた。




なんだか疲れたなと思いながら、マンションに戻ってリビングの明かりをつけた。
いつもと変わりない静まり返った部屋。
けれど、何気なくソファに座った時、違和感に気付いた。
ちょうど目線の高さにあるデスクの上。
あるべきはずのものが消えていたのだ。
―――あのファイルがなくなっている……?
今朝、ここを出た時には確かにそこに置いてあった。
自分が持っている中で最も派手な色。
間違うはずはない。
ラインの色とか配色が微妙に違うだけのファイルは他にもあって、書棚に並んでいたが、そこから本やファイルを出し入れした形跡はない。目を凝らすと、他の棚と同じようにかすかな埃が確認できた。
迷いもせずにそれだけを持ち去ったのは、一目でファイルの識別ができる人間が来た証拠。
だが、それは同時に、その人物が探している物の正体を知らされていないということを示していた。
そうでなければファイルの中身を確認した時に問題のページを抜き取ったことに気付くはず。
「誰かに指示されてるだけってことか」
だとするなら、直接動かしている人間を見つけなければ意味がない。
何にしても本物を貸金庫に預けたのは正解だった。
「とりあえず明日は警備会社で防犯カメラの画像を……警察に連絡するのはその後でも―――」
問題はどうやって合い鍵を作ったのかということだ。
マンションの管理会社の内部に奴らの自由になる人間がいるなら、鍵など変えたところで意味はない。
「管理会社に問い合わせればそれらしい人間くらいは―――」
その時、ふと夕方の光景が蘇った。
冷めたコーヒー。
いかにも不慣れな手つき。
ソーサーの上から滑り落ちるカップ。
衣服に広がっていく茶色い染み。
テーブルには本と煙草。それから―――
「……まさか」
着替えている間、衣類も持ち物も事務所の机に置きっぱなしだった。
もちろん部屋の鍵も。
他の従業員の目を盗んで型を取ることくらいできたはず。
やけに丁寧にアイロンをかけていたのも時間稼ぎのためだとしたら―――


適当な口実を思い浮かべながら、さりげなく店に電話をした。
もちろん本当の目的はあの女の様子を尋ねるためだ。
『ああ、あの子? なんかお父さんが倒れたとかで―――』
今日は早退。明日も休むかもしれないと言い残して帰ったという。
「ふうん……そうなんだ」
彼女が奴らの手先だとするなら、このまま『家庭の事情』で仕事を辞めるのだろう。
それが分かるのは明日か明後日か。
とにかくその時は羽成にも盗まれたファイルのことを最初から話さなければならない。
それ自体はたいしたことじゃないのに、どういうわけか他の何よりも抵抗があった。
「それで……松崎さんに頼みがあって電話したんだけど」
『なあに?』
そこに羽成や柿田はもちろん他の従業員がいないことを確認してから話を切り出した。
「できるだけ早めに叔母さんを紹介してもらえないかな。引っ越しの荷物がまだ片付いていないなら手伝うから」
できれば明日にでも聞いてもらえないかと言うと、さすがに少し驚いたようだったが快く承諾してくれた。
『じゃあ、予定聞いたら電話するね』
「ありがとう。急かして悪いけど」
『どういたしまして』
明るく響く『おやすみなさい』の声。
それがまだ耳に残るうちに電話は切れた。
プツリと音が途切れたその瞬間、『あとは氷上君が危なっかしいことをしなければいいんじゃないかな』という昼間の彼女の言葉が脳裏を掠めた。

――……分かってるつもりだけどね

多分、もう手遅れだ、と。
心の中で呟いて窓の外を仰ぐ。
星一つ見えない鈍い闇が広がるだけの空。
けれど、今はそれが酷く心地よく思えた。



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