運命とか、未来とか

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翌朝早くかかってきた電話は松崎さんからだった。
『ごめんなさい、もしかして寝てた?』
頼まれていた件だけど、と事務的に切り出したわりには今日の天気やら羽成の予定やら柿田の疑惑やらを楽しげに並べた後でやっと本題に入った。
『でね、今、自分のお店を移転したばかりで―――』
ちょうどバタバタしている最中なのだが、片付けを手伝ってくれるならそのついでに昔話をしてもいいという。
『とか言って、本当は若い男の子と話すの大好きなのよ。バイト代も弾んでくれるんじゃないかな』
「別に金なんて……」
『いいの、いいの、もらっとけば。どうせおばあちゃんが孫にお小遣いあげるみたいなもんだから。それより、一緒にいけなくてごめんね』
本当に申し訳なさそうに謝られたが、むしろ一人の方が都合は良い。
こちらが頼んだことでもあり、金を受け取るのは気が引けたが、そんな名目の方が後々何かと都合がいいかもしれないと判断し、とりあえず頷いておいた。
『じゃあ、明日ってことで。叔母さんのお相手よろしくね』
彼女の声につられるように、いくらか明るい気持ちで電話を切った。


会う前に聞き出すべきことをまとめておかないと。
そんな理由から、まずは十河が記事を破り捨てたという事件のことを調べるためにネットで検索してみたが、思うような結果が得られず、結局近くの図書館まで足を運んだ。
「……これか」
日付の見当がついていたせいで記事は思ったより簡単に見つかったが、その日は大きな事故の記事が紙面を占領していて、例の件は片隅に小さく取り上げられている程度。
何紙か目を通したが内容はどれも似たようなもので、これといって気になることも書かれていなかった。
『痴情のもつれ』により殺されたのはホステスとその子供。
被害者はその少し前にスポンサーから別のクラブを任されて、あの店を辞めており、その日はたまたま忘れ物を取りにきただけだったらしい。
女の名は藤谷沙那(ふじたに・さや)、源氏名は蝶子(ちょうこ)。子供は昂輝(たかき)。
二人を殺した暴力団の組員は後日遺体で発見、死因は自殺と判定された。
「……ありがちだな」
ヤクザとかかわりのあった女の末路として不自然なものではなく、前に組事務所で根本に聞いた内容ともだいたい一致している。
だが、手繰り寄せた記憶と新聞記事は一点だけ大きな不一致があった。
並べられている丸く抜かれた写真の女は少しキツそうな印象の美人。対して子供はのんびりした顔立ち。
絶対に他人だと言い切れるほどではないものの、酷似しているとは言い難い。
『母親に似ているせいで子供まで溺愛していた』という噂とは合致しないのだ。
「根本の記憶違いか、あるいは写真うつりが悪くて実物とは印象が違うのか……」
その辺りは明日昔話のついでに聞いてみれば分かるだろう。
念のため記事はコピーを取り、講義で使っているファイルに挟み込んだ。

その後、もう一度パソコンに向かい、記事から拾ったキーワードで検索をかけた。
直接事件に関わることは何一つ分からなかったが、当時あの店の社長をしていた男の名前からいくつかの情報が拾えた。
外聞が悪いからと該当店舗を売りに出したこと、事件がヤクザ絡みということもあってなかなか買い手がつかなかったこと。
そして、最終的にそれを安く買い取ったのが十河が知人の名義で興した会社だったということ。
店を手放した男がその直後に離婚し、若い愛人を正妻にしたことも下世話な噂話になっていた。
「それが綾織……か」
ということは当時のことを少なからず知っているはず。
「……二人きりで会ってもらえるかな」
彼女が有している店の案内を見ながら思わず呟いた時、後ろを通り過ぎようとしていた男が足を止めるのを感じた。
一瞬、ドキリとしたが、振り向くより前に暢気そうな声が降ってきた。
「君くらいの年の子を誘うなら、もっと気軽な店の方がいいんじゃないかな? ほら、こことか」
俺の手の上からマウスを握り、店舗の一覧からカフェレストランを選ぶ。
「カジュアルラインだけど雰囲気は悪くないと思うよ?」
大袈裟なほど顔を覗き込んでにっこり笑う。紳士的なのだが愛想が良すぎるせいか内面的な緩さを感じさせた。
年齢は二十代半ばといったところか。
今は余計なことに関わらないほうがいい。普通に考えれば軽くかわすのが正解だ。
だが、男が身につけるものとしては不自然なそれを見逃すほどは俺もぼんやりしていなかった。
「ありがとうございます。詳しいんですね」
微笑み返しながら視界の隅で確認したのは、その指に光る赤い石。
間違いなく吉留の写真にうつっていた指輪だった。
「詳しいって言うか、そこを経営している会社の人間なんだ。よかったら下見を兼ねて一緒に昼食をどう? もちろんこちらの奢りで」
少し気障な仕草で渡された名刺に書かれた苗字はやはり『綾織』。息子に間違いないだろう。
「でも、ご迷惑じゃ……」
偶然なのか、誰かが図ったことなのか。
疑心暗鬼で不安と好奇心と打算をごちゃ混ぜにしながら、男の顔色を窺う。
「一人で食べるのはつまらないからね」
そんな言葉にしばらく迷う振りをした後で「お言葉に甘えて」と頷いた。
「じゃあ、行こうか。近くのパーキングに車停めてあるから」
軽く俺の背中を押す。
隣のブースには同じ年頃の女性が座っていて、立ち上がると広く開いた胸元が気になったが、男はチラリとも目を遣らなかった。
そんな事実に、綾織が息子を紹介すると言った時、羽成がいい顔をしなかったことを思い出した。


あまりに出来過ぎた偶然。
家が近所なので休日はよく図書館に来るのだという説明もこの男には不似合いに思えたが、
「母がちょっとうるさい人でね。もっと教養を身につけろって言うもんだから仕方なく」
その言葉と少し苦い笑いは嘘だという気がしない。
たとえばこれが仕組まれたことで、この指輪を填めて俺を誘うことに意味があるとするなら、目的は吉留からの預かり物だろう。
「でさ、一応調理師の免許はあるんだけど、やっぱり料理ってセンスだから―――」
そうですか、とか。大変そうですね、とか。
適当な相槌と愛想笑いを絶やさないように注意しながらも頭の中では全く別のことを考え続けた。
「着いたよ」
慣れた様子で敷地を走り、拍子抜けするほど明るく駐車場の管理人に声をかけた。
「今日は社長の駐車スペース空いてるよね?」
「おはようごさいます、綾織さん。ええ、空いてますけど……お休みじゃなかったんですか?」
「鬼の居ぬ間に社長室でふんぞり返ってみようかと思って。じゃあ、車置かせてもらうよ」
しかも、ビルに入るとすぐ俺を連れたまま厨房に顔を出し、社長室付属のレストルームに二人分の食事を用意するよう言いつけた。
その相手はどう見ても厨房の責任者で、自ら料理を作る合間にあちこちに指示を飛ばしていた。
「分かりました。本日のおすすめコースと同じ物でよろしいんですね。……綾織さんのご友人ですか?」
幾分値踏みするような目だと感じたのも気のせいではなかったのだろう。
「そう。さっき図書館でナンパしてきたんだ。もちろんそれは社長には内緒ってことで」
その言葉の後、厨房の主がそっと小さな溜め息を吐くのが見えた。
「それじゃ、お客様をご案内しないとね。えっと……そういえば名前聞いてなかったね」
「氷上です」
駐車場の管理人、厨房のスタッフ。これが全員グルだったら相当手の込んだ罠だ。
けれど、実際はこの待遇が彼に対するいつもの状態で、周囲の反応から考えるとコイツはただの馬鹿息子なんだろう。
最初に見た時、「緩い」と感じたのが正解だったのだという結論に頼りきることはなかったが、それでもいくらか安堵したのも事実だった。


案内された小ぢんまりした部屋は正確には「社長室」ではなく「社長の私室」。
やけに長い暗証番号でロックされていることからしても社長本人は他人を入れることを許可していないのだろう。
なのに男は無頓着に俺を通した。
「食事は隣のダイニングスペースに用意させるから、その間にワインでもどう?」
「いえ、酒は……」
未成年だからという理由で断ったが、当然のように赤い液体を満たしたグラスを手渡された。
「じゃあ、乾杯。いいなぁ、休日の昼間って感じで……なんて言ってるとコレだからなぁ」
不意に鳴り出した携帯をやれやれという顔でポケットから取り出す。
その様子がいかにも「仕事ができる男」の演出のようで、内心は苦笑いだったけれど。
「ちょっと失礼」と言って慌しく部屋を出ていく男を辛うじて笑顔で見送った。


一人になると無意識のうちにふうっと息をついていた。
「……疑い出したらキリがないけど、さすがにあれは大丈夫だな」
こういうことに首を突っ込めば普段使わない神経をすり減らすのは当然のことなのに。
そんな覚悟など少しもできていなかったことを思い知る。
やはり妙な好奇心は発揮しないほうがいい。
「とりあえず指輪のことだけ聞いて帰るか……」
それでもピンと来るものがなかったら、もう吉留の件からは手を引こう。
綾織が若い頃にしていた物だと判った程度では何の役にも……――
思考を中断させたのは壁に埋め込まれたショーケース。
中に入っているのが全て凝ったフレームに入れられた写真というのも引っかかったが、それ以上に綾織本人が写っているものが見当たらないのが妙だった。
「自分の写真を置くのは照れくさいってこともあるか。それにしても家族で撮ったものにも写っていないってのは……」
もっと良く見ようとガラスに顔を近付けると、小さく切り抜いた写真が散りばめられたフォトフレームが目に留まった。
その中の一枚は並んで微笑む女性二人。
六角形に切り取られたそれは少し色褪せていて、左下の目立たない場所に貼られていた。
随分と古い写真。
けれど、気になったのはそんな理由ではなかった。
―――この女の隣……吉留だ……
見えてているのは肩から下だけ。もちろん顔は写っていないし、女と腕を組んだりもしていない。
だが、俺が受け取ったファイルに入れられていた写真と良く似たスーツ。そして何よりも、ポケットチーフのはみ出し方がまるっきり同じだった。
同じ日、同じ場所で撮られたものだということは間違いない。
二人の女のうち男の隣にいるのは派手なドレスが馴染まないほどのあどけない少女。
よほど親しい間柄でなければ綾織と気付かないだろう。
「本人が写ってるのはこれ一枚きりか……」
その事実に意味などないのかもしれない。
そう思いながらも気になる写真全てを携帯のカメラに収めた。


しばらくして戻ってきた男と食事をしながら小一時間ほど話したが、指輪は綾織が若い頃恋人にもらったものらしいということ以外はたいした情報も得られなかった。
「今でもその相手とは付き合いがあるみたいで、出かける前にはいかにも『若い頃愛用してました』って感じの爽やかなシトラス系の香水なんかつけたりして、なんか思わせぶりなんだよね」
息子ではなく綾織本人と話せば、もっとヒントになりそうなことが掴めるだろうか。
これ以上の長居は意味がない。
そう決めて、適当な相槌を打ちながら食事を済ませた後は、「講義があるから」と言って早々に切り上げた。
「今度は夕食でも」という誘いは曖昧な笑みで流し、大学まで送るという申し出も断ってタクシーを拾った。


午後、一応講義には出たものの、頭の中は例の件に占領されていて少しも集中できず、顔見知りにノートを頼むと早々にフェイドアウトした。
家に帰ってから図書館でコピーしてきた記事や携帯で撮った写真を何度も見返したが、気持ちがざわつくだけで得るものはない。
見たくないものを遠ざけるような気持ちでファイルを閉じ、課題用に借りてきた本と一緒にデスクの隅に片付けると部屋の明かりを消した。
「俺って本当にこういうの向いてないよな」
行き詰るとすぐに投げ出したくなる。
現に今もこのまま調査を続けるべきかどうかを決めかねて、ソファの上でグルグルと同じ思考を繰り返しているのだ。
何にしても、しばらく羽成は遠ざけておいた方がいい。
こんな精神状態では、綾織や吉留のことはもちろん写真や図書館といった単語にさえ動揺してしまうのは目に見えている。
「『大学行ったら死ぬほどレポートを出された』とかって忙しい振りすればいいか……」
店には顔を出さない。
電話もしない。
だからといって露骨に避けて逆に疑いを持たれるようなこともあってはならない。
「……俺、そういう匙加減も苦手なんだよな」
ふうっと大きく溜め息を吐く。
その瞬間、それを見透かしたようなタイミングで携帯が鳴った。
いつもなら神経を逆撫でされたような気分になる耳障りな電子音も今夜に限ってやけに柔らかく空気を揺らしていた。
「……きっと羽成だ」
寝転んだままテーブルに手を伸ばす。
ウィンドウの名前を確認することもなく、手探りでボタンを押して耳に当てた。
『大丈夫ですか?』
聞き慣れた声が飛び込んで、その瞬間にふっと体の力が抜ける。
それにしても、第一声から『大丈夫か』と問われるようなことをしただろうかとぼんやりと思い巡らせながら、短い答えを返した。
「……何が?」
自分の耳にも素っ気なく響いたその言葉が羽成にどう聞こえたのかは分からないけれど。
変わりがないならそれでいい、と。
そんな言葉でその話を終わらせた。
「おまえこそまだ仕事中なんだろう?」
ついさっき、しばらく羽成を遠ざけようと決めたばかりなのに。
『出先から直接帰宅する途中だ』という説明を聞きながら、会話を伸ばすために次の言葉を捜している自分に気付く。
「運転しながら電話するなよ」
葛藤とか、不安とか、自己嫌悪とか。
そんなものも全部吹き飛んで。
『今日は運転手がいますので』
「……ふうん」
目一杯回転していたはずの思考も動きを止め、パラリとゆるく解けていく。
「今日の星、やけにはっきり見えないか?」
明かりを落とした部屋で仰向けにひっくり返ったまま。
他愛のない会話を繰り返すうちに全身からまた力が抜けていく。
深呼吸は途中で大きな欠伸に摩り替わって、それ気付いた電話の向こうの声は少し笑っていた。
『まだ九時過ぎですが』
穏やかな口調が身体の中に安堵を広げる。
「……なんか……眠くて」
そんな返事をしたことまでは記憶していたけれど、それ以上意識をつなぎとめることができなくて。
その後どうやって電話を切ったのかは覚えていなかった。



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